第2話 幼女
「…知らない天井だ」
ここはどこだろう。少し眠さは残るが身を起こして周りを見渡す。
「そうか。異世界、に来ちゃったんだっけ」
こんな絶望的な言葉でも可愛い女の子が言えば許されるのかな。
「さむっ」
日本でも東北の真冬かと思わせる寒さだ。
今は何時なんだろう。腕時計は6時を指してるけど、時間があってるわけもないし。
「そう言えば携帯…」
スマホの電源を入れてみるが…、つかない。
「もう、電池はない、か」
窓から差し込む光はだいぶ地上近くから見える。こっちの世界は時計って存在してるのかな?
「この部屋にはないみたいだし」
改めて、何も知らないっていうのは怖いなって実感した。
タッタッタッタ。
まさか、幼女か?
その軽快な足取りは幼女そのものだが、朝だからか少しゆっくりだ。
―ガチャッ
「****!」
案の定、幼女がその元気なお顔をのぞかせた。
「おはよう」
言葉は通じないと解っているけど、なんとなくこうして口に出した方が気持ちが伝わる気がする。やっぱり人間はスマイルコミュニケーションじゃんね。
かわ…いくはないかもしれないけど、夢にまで見た幼女に起こされる朝が来るなんて最高じゃんね。
だけど、襲うような野蛮なことはしない。そんなことは紳士のすることじゃないね。幼女は路傍に健気に咲く花のようにいつくしむのが正しい接し方だよ。あるがままを受け入れるんだ。
しかしながら、早くこの幼女とコミュニケーションを取る為にも言葉を覚えなくちゃな。
昨日までは生きるためにって思ってたし、今でもその現実は変わらないけど、その現実は億劫だしやる気も出ない。
でも、この幼女と話がしたいと思った今、僕のやる気ゲージは臨界点を振り切っているよ。
手始めに昨日のいろは歌を覚えなくちゃ。
日本語の部分はうろ覚えだけど知ってるから、後は発音を気を付けるだけだな。
さて、この幼女にどうやってそのことを伝えるかだけど…、
「いろはにほへと……」
いろは歌を歌って、なんとかジェスチャーすれば伝わるかなって思ったけど、
ふるふるって首を振られてしまった。
幼女は頭を振り終えると部屋から出て行ってしまった。おお、ジーザス。
やっぱり僕には幼女の見方はいないということなのか。それとも自分で努力しろということなのか。
しかしして、どうやらそうではなかったらしく、朝食を食べてしまえということだった。
なんて優しい幼女なのか。その姿は女神に等しい。
僕が早々に朝食を片付けると、例によって昨日の女の人が部屋にやってきた。
どうやらいろは歌の続きを教えてくれるみたい。
つまり、今日はこの人と二人きり?っと思ったけど、例によって後ろから男二人が金魚のごとくついてきた。しかもご丁寧にこっちをすごい形相で睨み付けている。
そんなに睨まなくても何もしないっての。
「いろはに…」
この人の詩は何度聞いても心が安らぐように滑らかで気持ちのいいものだった。
僕は日がな一日この歌を覚え続けることとなった。
夕暮れに差し掛かって、女の人が撤退すると、
「***」
幼女がこっちに手を差し出してきて、何かを言う。
なんだろう。そう思って幼女のその柔らかな手をマッサージして上げると、くすぐったいように身をよじらせて僕の手を振り払った。
「***!」
幼女は少し怒ったような声をあげて、ぷんぷんアピールをした。
んむ。正解じゃなかった模様。
「**」
今度は部屋の出口に立って、こっちに手招きした。
なるほど。ついて来いと。僕はくたくたになった靴を履いて後に続く。
そういえばこの部屋からはまだ出たことがなかったな。窓から見える景色でなんとなく外がどうなっているかは予想がついたから、もう外を満喫した気分になっていたけど、ヒッキーの僕と違って幼女は活発な子だと思うから、気を利かせてくれたのかもしれない。
そう考えると、なんだか無性に嬉しくなる自分がいた。
部屋から出てみると、この家は思ったよりも大きな家だったみたいで、木製の二階建てだった。これは窓から見える景色でわかったことだったけど、僕に用意された部屋は一階だ。どうやら一階が客間になっているみたいだった。
僕の部屋は一番奥で、隣に空き部屋が一つあった。それを抜けて扉を開けると、応接間になっていて、そこが玄関に繋がっている。
外に出てみると、夕暮れの光が眩しかった。地球とはまた違った空気だ。
勇者は大きめの里と言っていたけど、中世の西洋を思い出させるような景色は見えない。どちらかというと、中国の過疎化地域みたいだった。この辺りは家が密集しているみたいで、農場とかは見えない。
そう考えている間にも幼女は里の人たちから次々と声を掛けられていて、みんなのアイドルみたいだった。
でも実際そうなのかもしれない。家が密集しているせいかさっきから多くの人とすれ違うけど、子供連れとか子供だけのグループなんかは見受けられない。
宅地の整理はとても理路整然としているようだった。少し歩いただけでこの住宅地がどんな風に広がっているかが分かる。
今は同心円状に広がっている住宅地の中心分に向かっているようだった。
それから少し歩くと、噴水のようだけど、水が噴き出ている代わりに銅像が立っている広場に行きついた。
そこは市場になっているみたいで、今は夕食の買い物に来ている主婦たちでごった返していた。ちょっとしたコミケみたいだ。通勤ラッシュの大宮駅を思い出す。
「ん」
なるほど。これは散歩ではなく、買い出しの荷物持ちをしろということらしい。
現実とは得てして非常だったりする。
でも、幼女と一緒にお買い物。
地球では決してできなかった代物だな。
献立は決まっているのか、すいすいと人を避けながら目的の店へと進んでいく。
「まずい…」
幼女の機動力は計り知れなく、その小柄な機体を活かしたフットワークは思った以上に軽い。
これは、コミケでもトップを争う機動力だ。是非ともコミケでも活躍してほしいものだが、穢れなき幼女をあの魔窟に連れていく訳にはいかないな。
そう言ってる間に、とうとう幼女は見えなくなってしまった。
「あ」
…しまった。ここはどこだよ。
早めていた足をゆるめ、周りをキョロキョロと見渡す。
人が目まぐるしく動き回るここでは、立ち止まっている人なんて邪魔な障害物でしかない。幼女の姿を探すのは諦めて隅による。
どうしようと、しばらく人の流れを眺めていたけど、こうして立ち止まっているだけでも時間はどんどん進んで行ってしまう。
こうして、一人流れを逆行して眺めているのも不思議な快感があるけど、けれどどこか焦燥感を拭い去ることは出来ない。
もうすぐ日は沈みそうだった。
どれだけ時は経っただろうか。いつの間にか僕の前には一つの影が差していた。
その小さな体にはどれだけの可能性が秘められているんだろう。
僕の頬には一滴の水が流れ出ていた。
「***」
幼女は一つのため息をこぼしながら腰に手を当てて何か言った。
この子は僕よりもよほど世界の事を知っていて、よほど大人びているんだな。
僕はそのことが無性に悲しくなった。
「ごめん」
僕が頭を下げると、幼女はその小さくて柔らかな手でそっと頭を撫でる。
その暖かさに救われた気がした。
僕がいつまでも頭を上げないでいると、頭に置かれていた小さな手は右往左往した後、僕の右手を掴んで引っ張り始めた。
多分。その顔を僕は一生忘れない。
その後の買い出しはすぐに終わった。
そもそも人がいっぱいいるから時間がかかるのであって、人がいなければそれほど買うものはないのだ。
家に帰ってくると、今度は食事の支度を手伝わされるようだった。それは願ったりかなったりだったが、少し気まずい。
人に言う程の事ではないけど、料理は出来る方だと思ってる。
早くに両親が他界してしまった一人っ子の僕は、叔父にあたる人に引き取られた。
最初の何年かは一緒に暮らしていたけど、お世辞にもうまくいっているは言えない状況で、家庭内の会話は必要最低限に抑えられた。
デザイナーをやっている叔父は地方の支部長を任されたらしく、転勤ということになったけど、その時中学生だった僕は、今考えると反抗期だったのか、とにかく独り立ちしたという想いが強かった。
叔父の方がどう思っていたのは分からないけど、叔父はその時の僕の想いを組んでくれて、暮らしていた東京の新宿区に残ることになった。
だから言う訳ではないけど、家事全般のやり方は分かっているし、できる自信がある。
料理に言葉はいらない。必要なのは想いだけ。
そんな言葉をどこかで見た気がする。
だからか、買い物と違って料理の方はうまくできたと思う。
その手際の良さで少しは幼女の事を見返すことが出来たように思える。
それでもこっちの料理は勝手が違う。まず魔法を使えないといけないのだ
もしかしたら、僕も使えるのかもしれないけど。
そのため僕の担当は主に食材を切るとか、皿を並べる、盛り付けるなどの雑務になった。
何かに没頭していると時間を忘れることが出来る。
もしかしたら、そういうのを幸せというのかもしれないけど、僕はそんな時間がたまらなく好きだった。
確かなことは言えないけど、料理は一時間もかからなかったと思う。
今日の献立は、魚のボイル焼きに山菜の盛り合わせ、それにキノコスープだった。
食卓は僕と幼女と幼女の親…、まぁ保護者で囲われた。
久しぶりの一人ではない夕食はなんだか暖かかったように感じた。
食器を片付けていると、またもや幼女に手招きされた。
今度は、水浴びの仕方だった。
うすうす感づいてはいたけど、お湯を沸かすのも魔法なわけでこっちの人は水浴びのお湯は自分で沸かすみたいだ。
さすがに幼女におんぶにだっこでは申し訳ないので、しばらくは水で我慢することにした。かなり寒い。じぬ…。
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