『聖夜』(2006年12月24日)
矢口晃
第1話
街はいたるところ、金や銀のイルミネーションに包まれていた。それが今年還暦を迎えたばかりの中村四郎にとっては、どこか街全体が彼に対してよそよそしい印象を与えた。生来、ずっとこの街に住み古してきた彼にとって、それは少し寂しいことであった。仕事帰りの悴んだ手を、中村はズボンのポケットにいれながら、とぼとぼと自宅までの道を歩いていた。
彼の生まれたころのこの街は、決して今のようでなかったことを、歩きながら中村は懐かしそうに思い返していた。道の両側は緑の畑に覆われ、日々移ろう山々の景色が、四季の多様な変化を見せる美しい町であった。人も今よりは大分少なく、町のところどころには井戸が掘られ、文字通り井戸端会議が毎日のように繰り返されるのどかさがあった。もちろん、同郷の人で知らぬ顔など、一つもありはしなかった。
ところが、今はどうだろう。道路はすっかりコンクリートに埋め尽くされ、昔からいた老人は皆片隅の集合住宅におしやられ、街を我が物顔に闊歩するのは、ここ最近になって新しく入ってきた、名前も顔も知らない若者達である。それが皆、肩を聳やかしながら大威張りで道の真ん中を歩いて行く。後ろから車が近づいて来ても一向平気なものである。その車の吐き出す煙や音が、また街を非常に狭く感じさせる。道の左右に立ち並ぶ雑居ビルは高さを競い合って、空の広さを半分にしてしまった。賑やかなことは結構だが、あまり健康な人間の暮らす場所ではないと、中村は思っていた。
中村は現在一人暮らしである。二十代の頃に結婚した妻は、数年前に癌のためになくしてしまった。今年三十になる一人息子はすでに独立し、妻も持っている。結婚して三、四年になるが、まだ子供のできる様子はない。中村も早く孫の顔が見てみたいと思うが、こればかりは天命のことであるから、気長に待つしか彼にはできない。ただこれから先のことを考えれば、一日でも長く孫の成長を見ていたいと思うのは、彼の正直な気持ちであった。
中村は、決して豊かではないが、それなりに幸せな人生を歩んできたと自負している。自動車の修理工場で寡黙に働き、妻と子供の生活を支えてきた。生来、手先の器用であった中村は、そういう職種に向いていたらしい。どんなに冷え切った冬の朝でも、仕事場についてひとたびスパナーを握れば、溌剌とした意気が自然に五体に漲って来るのを常としていた。彼は少ない収入の中から家族の生活費を工面するために、自身は一切の娯楽から足を洗った。十年あまり嗜んでいた喫煙を止められたのも、子供ができてからのことである。子供は親の意を汲んで、まっとうに、健康に育ってくれた。人並みに公立の高校を卒業した後は、立派に成人し、父親のように熱心に仕事に取り組んだ。中村は、この家族に恵まれたことを、大変に幸福に感じていた。ただ一つ不足に思うならば、小さかった息子に、殆どプレゼントらしいものをしてやれなかったことが中村の遺憾に思うところであった。周りの子供たちがテレビゲームやらプラモデルやらで遊んでいるのを傍から眺めながら、一度として両親にそれをせがむことのなかった息子が、我が子ながらいじらしいとさえ中村は感じた。もう少し生活にゆとりがあれば、そんな不自由も感じる必要は無かったのかもしれないが、終わってしまってからでは、どうすることもできなかった。ただ今でも相変わらず安い給料を持ち帰りながら、中村は一人ぼっちの生活を、少しでも前向きに生きたいと、それだけを思うように努力していた。
今日は、ちょうど十二月二十五日であった。街には、いつも以上に人通りが激しかった。厚いコートに身をくるんだ男女のカップルが、輝くイルミネーションに照らされながらお互いがお互いの影のように寄り添って歩く姿は、他人事ながら、中村にも多少の充実感を与えた。それでも、緑や赤や白に彩られた街の中を、仕事帰りの汚れた作業着を着て一人歩くのは、中村にとってやはり居心地のよいものではなかった。自分の故郷にありながら、心はまったく異郷を旅しているのに違いなかった。中村はすれ違う若者達とぶつかりそうになるのを必死に交わしながら、心なしいつもより早足で、電球に巻かれた街路樹の下の歩道を歩いていた。
しかし中村は、一軒のスーパーマーケットの出入り口前でのある一場面に遭遇すると、思わず急いでいたその足をその場に止めて、さらにじっとその光景に見入ってしまった。その時中村の目に止まったのは、店の前のUFOキャッチャーに夢中になる、まだ本当に小さな少女の姿であった。彼女は、中村の来る前から、そのゲームに取り組んでいるらしかった。その後ろに立っている母親は、腕の中にもう一人別の赤子を抱いて、手には乳母車を持ちながら、少女がゲームに飽きるのを待ち遠しそうな目付きで待っているのだった。
少女は、ガラスケースの中にある、白い猫のぬいぐるみを取ろうとしているらしかった。しかし、彼女のおぼつかない手つきでは、到底それが取れそうには、中村には思われなかった。実際、少女の頭上にゆらゆらと揺れるクレーンは、少女の決断によって下方へ下ろされた時、目標のぬいぐるみとは大分遠いところの虚空を空しく掴んで、再びもといた場所に戻って行ったのだった。中村はそれを見ながら、自然と微笑がこぼれた。中村は、もしも自分にも孫がいれば、ちょうどあの女の子くらいの年齢に達していても不思議ではないと、密かに想像上の孫と目の前の女の子とを見比べていた。すると、中村の心が自然と温かくなるのはむしろ当然のことであった。中村は、うっとりと、その女の子の小さな手や円らな瞳に、人知れず真剣に見入っていたのだった。
すると、ゲームを終えた女の子が、突然にむずがり出してしまった。どうやら、中村の見ていたその一ゲームが、最期の一回だったようだった。まだゲームを続けるには、さらに硬貨を投入する必要があった。女の子は、勿論目当てのぬいぐるみが手に入るまで、続けたい気持ちでいるらしかった。しかし、もう随分女の子の後ろで待たされていた母親は、それ以上ゲームを続けることを女の子に許さず、すでに女の子の手を引き、帰りだそうとしているのだった。時間は午後の六時過ぎ。空はすでに夜の暗さである。無論、外気はとうに夜の冷たさである。夕食の支度をするためにも、また腕の中に静かに眠る赤子のためにも、母親にとっては一刻も早く帰宅したいのは道理なのに違いなかった。
しかし、母親のそんな心のうちなどつゆ察するところもなく、女の子は執念く地団駄を踏みながら、
「もう一回、もう一回」
と、さらに激しく母親にわがままを言い始めた。しまいには、今にも大声に泣き出してしまいそうな風情である。だが、母親もさらに譲る気配はない。親子の間の駆け引きは平行線を辿ったなり、いつまでも決着に至りそうな容子は見えなかった。
と、とうとう女の子が泣き出してしまった。母親もこうなっては強気に出るしかなく、
「知らないよ。置いてっちゃうからね」
と冷たく娘に言い残したなり、すでに歩き出してしまった。女の子は、それでもゲーム機の前から離れようとはしない。両手の指を目の下に当てて、小さい胸を波打たせながら、必死の訴えを母親の背中に続けるのである。しかし、親子の間は離れていく一方であった。誰かが間に入らなければ、と思った、次の瞬間である。誰よりも早く女の子のもとに駆け寄ったのは、それまでずっとその様子を見守っていた、中村であった。中村は泣く子の頭をそのざらざらの手で撫でてやりながら、
「泣くんじゃないよ」
と優しい声で女の子をあやしてやった。だが、女の子は見知らぬ男が急に目の前に現れたことに驚いたのか、却って彼の顔を見て激しく泣き出してしまった。
何十年振りかの経験で、どうやって女の子をあやしてよいか戸惑ってしまった中村は、とっさにズボンのポケットに手を入れると、その底にじゃらじゃらと溜まっていた何枚かの硬貨を手ずから取り出し、それをゲーム機に投入した。それまで鳴っていたゲーム機の音楽が変わり、ゲームが始まったことを中村に教えた。すると中村は、手元にある三つばかりのボタンを物慣れた手つきで操りながら、ガラスケースのなかのクレーンを操作し始めた。そして、ものの十秒もしない間に、女の子が狙っていた白い猫のぬいぐるみを、あっさりと吊り上げ、商品取り出し口の穴に落として見せたのであった。
初めおびえた様子で中村を見上げていた女の子も、商品取り出し口から出された白いぬいぐるみを中村から手渡されると、ぴたりと泣き止み、それを両腕でひしと胸に抱きしめた。
「ありがとうございます」
気がついて引き返してきた若い母親が、恭しく中村に礼を述べた。
「いいえ、何でもありません」
中村は、ごくありふれた返事を、その若い母親に返した。母親は、慌ててハンドバッグから財布を取り出すと、ゲーム代金を中村に支払おうとしたが、中村は勿論、それを笑顔と手つきとで辞退した。母親はそれを見ると、また、
「申し訳ございません」
と中村に丁寧に頭を下げた。今時にしてはよくできた母親であると、中村は満足そうに微笑んで、彼もまたその女性に会釈を返した。
「ほら、ユキ。あなたからもちゃんとお礼言いなさい」
母親が、足元にいる女の子に向かって、やや命令的な口調でそういった。おどおどと人馴れない様子で中村を見上げていたその女の子が、貰ったぬいぐるみを大切に胸に抱きながら、中村に、小さな声で言った。
「ありがとう。おじいさん」
おじいさん。その一語が、その時中村の耳にとても印象的な響きをもたらした。
おじいさん。確かに、女の子から見れば、もう六十歳を過ぎた中村は、おじいさんなのに違いないのだった。しかし、実際におじいさんと呼ばれたのは、中村にとって、これが初めての経験であった。
自分の孫から早く「おじいさん」と呼ばれたかった中村は、この時初めて女の子の口から「おじいさん」と呼ばれて、名状しがたい感情が、胸の内にこみ上げてくるのを人知れず感じた。
それは、一面には勿論温かな感情であるのに違いなかった。しかしまた一方では、それとは違う感情でもあるのだった。
そのような複雑な心境にありながら表情からは決して笑顔を消さない中村は、自分を見上げる女の子の頭の上に再び自分の手の平を当てると、一言、自然にこういう言葉が口をついて出てきたのだった。
「メリー、クリスマス」
『聖夜』(2006年12月24日) 矢口晃 @yaguti
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