第26話 新しい言葉
「殿。」
優しいはなの声で、殿は目を覚ました。
「おはようございます。」
「おはなちゃん。」
暖かな日差しが、居室に注がれていた。
広和殿は、両手を天に向け、体を起こした。
「殿。」
今度は、はなではない声。
「おはようございます。」
それは、原の娘、すずであった。
「すずちゃん。おはよう。どう?」
「孝和殿は、最近家臣と食事会を開いております。あまり楽しげではありませんでしたが、家臣との距離を縮めようとのことらしいです。」
「らしい……って?」
「……実は、あの……秀和殿に見つかってしまいました。」
「えー?……まあ、しょうがないよね。」
「申し訳ございません。」
「いいよ、いいよ。自分では老いてるって言うけど、小さなことに目を輝かせるし、周り見すぎだし。あの人には敵わないからさ。」
小さなため息をつく殿に、はなが言う。
「殿が、このようなかわいい娘さんを頼りにしておるとは、秀和殿も驚いたことでしょうね。」
「だろうね。」
実は広和殿、自分に嫌疑をかける孝和殿について、すずに探りを頼んでいたのだった。子どもであれば、相手も変な疑いをかけぬし、まさか子どもに忍ばせておるとは思わぬという心理をついたのだ。
「本間君はどう?」
「本間殿は縫い物に励んでいるようです。」
孝和殿だけでなく、知りえた家臣の情報はすべて広和殿に伝えていたすず。それによって、本間や他の家臣が広和殿のことをどう秀和殿と孝和殿に報告しているのか、知っていた。
「もう殿のことを悪くいうものはおりませぬ。」
「そうだったらいいんだけどねー。」
「いかがされたのですか?」
「あのね、坂本君と松山君が俺の家臣になったんだよー。」
はなもすずも驚いた。坂本と松山といえば、結城家家臣の中で1番、2番を争う有力家臣である。
「では、安心ですね。」
と落ち着く二人に、殿は言う。
「どうだろうねー。謀反の可能性ありありだよ。」
「では、私がお調べいたしますので。」
「ありがとうすずちゃん。助かるよ。これからもよろしくね。」
「はい。」
「くれぐれも、深入りはしなくていいからね。子どもらしく、遊びながらね。」
「はい。」
明るく去っていくすずを、しばし見つめていた。
「殿。」
はなが、柔らかな眼差しで見つめている殿に訊く。
「すずちゃんがお好きなのですか?」
殿は、素直に答える。
「好きだよ。」
「殿……。」
寂しげなはなの声に、殿は言い直す。
「好きだよ。かわいいし。子どもって、かわいいじゃん。」
「それは、そうですが。」
「おはなちゃん。」
殿は、はなの両手をとる。
「おはなちゃんは、世界で一番好きだよ。」
「殿……。」
殿は、はなの顔に顔を近づける。
「おはなちゃん……。」
殿の口調が男らしくなる。
「俺、近くで笑ってるおはなちゃんが好きだよ。」
目をつぶり、もう少しで接吻……というそのときである。
「殿!」
居室に坂本が顔を覗かせる。
「なんだよー。」
「お取り込みのところ失礼いたします。孝和殿がお越しです。」
「孝和君?何?」
「松山のことのようです。」
松山のことについては、広和殿も話しておきたいことがあった。
「離れにおります。」
はなは、その場を去った。
広和殿の居室に孝和殿が入ると、小さな会議が開かれた。
「で?松山君がどうかした?」
まず、孝和殿から話を伺うことにする。
「その……。」
孝和殿は、話しにくそうにする。
「何だよ……。」
「……松山は、元気にしておりますか?」
「え?」
「広和殿のもとで、うまくやっていけそうでしょうか?」
「さあ、今のところあまり絡んでないから、よくわかんないけど。」
「松山は、真面目な男にございます。どうか、よろしくお願いいたします。」
「そんなに松山君のことが心配なら、引き取ってくれていいよ。」
「それはできませぬ。父上の命ですので。」
「俺のもとでやっていけないと思うんだよね。ほら、俺ってうつけじゃん。」
「松山にも、広和殿の良さが伝わればよいかと。」
「松山君のこと好きなの?」
「はい?」
突然のおかしな質問に、孝和殿はたまげる。
「好き……などということではございませぬ。優秀な家臣であるが故、大切にしていただきたく……。」
「俺、狙われてんだよ?」
「それはそうですが……。」
広和殿は、足元を揺らしはじめる。自分が上手く話せないばかりに、広和殿に思い悩ませてしまうのではないかと、孝和殿は息をのむ。
「どうか、お願いいたします。」
孝和殿は、深く頭を下げ、居室を出て行った。
隣で話を聞いていた坂本は、広和殿に尋ねる。
「家臣のことを頼むとは、孝和殿、立派ですな。」
殿は、坂本と目を合わせる。
「坂本君。」
「はい。」
「俺の家臣の松山君、頼みます。」
「殿。お見習いくださいませ。」
坂本は、真顔でそう話す。
「冗談なのに。こわーい。」
殿は、急ぎ足でどこかに向かおうとする。
「殿!どちらに?」
「トイレ!」
「トイレ?」
坂本は、殿についていく。
「ついてこないで。」
「私は殿の家臣にございます。どこまでもお供いたします。」
「いいよ。ついてこないで。」
着いたのは、
「すっきりしたー。」
殿は、そう言いながらゆっくりと居室に戻ろうとする。
「殿?トイレはいかがなさいましたか?」
「ん?すっきりしたよ。我慢してたからね。」
そして、殿は居室に戻った。
坂本は、隅田に訊いた。
「トイレとはなんだ?」
「厠のことにございます。」
「厠か……。」
「どうかされたのですか?」
「殿が松山の話のあと、急いでトイレという場所に向かおうとされたのだ。しかし、行ったのは厠のみ。まったく、松山と関係がなかった。」
「坂本殿。はやとちりですな。」
「そうだな。松山の前に、殿の言葉を覚えねば。」
「殿の言葉を理解するのは、時間がかかりました。しかし、殿は多くの物事を知っておられます。覚えれば覚えるほど、殿のお考えがわかるような気がいたします。」
「ほう。結城の下級家臣だったくせに、人は成長するものだな。」
「ええ。これでも、広和殿の上級家臣ですので。」
隅田はもともと秀和殿に仕える下級家臣。こうして坂本と同じ地位だということに、優越感を覚えていた。
「あとは、どういった言葉がある?」
「そうでございますな。パジャマという言葉がございます。」
「パジャマ?」
「ええ、寝間着のことです。コップというものもございます。湯呑のことです。」
「ほう。家臣としては知っておらねばならぬな。」
「いくらでも聞いてくださいませ。」
「頼りにしておるぞ、隅田。」
「はい。」
坂本は、成長した隅田を素直に受け止めていた。
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