祭りが過ぎて
夏祭りが無事終わって、一週間ほど過ぎた頃だった。
「もしもし、憲史君?」
電話をかけてきたのは、麻美さんだった。
「あ、お疲れ様です」
「ねぇ、この前の夏祭り、憲史君出てた?」
「いましたよ。ずっと撮影してました。麻美さんこそ、いました?」
「いたわよ。でも、他の商店街も撮らなきゃいけなかったからね。すれ違いになっちゃったね」
なるほど、亮がふてくされるわけだ。練習で会えない上に、ゆっくり夏祭りを一緒に過ごすこともできないんだから。
「麻美さん、いただいた電話ですみませんけど、ちょっと提案したいことが」
和孝さんの要望を話すと、彼女は「ちょうどよかった」と明るい声になった。
「電話したのはね、憲史君にまた連載をお願いしようと思ったからなの」
「あ、本当ですか?」
「うん。結構評判よかったのよね」
「じゃあ、理事会で話が通ったら、お願いします」
「うん。こちらこそよろしく」
彼女はふっと一息ついて、少し慎重に切り出した。
「あとね、商店街の記事が終わったら、また別の連載をやってみないかなって思ってるんだけど、どう?」
「別の連載って?」
「一ヶ月に一度でいいんだけど、高瀬市のいろんな所に行って、四季折々の写真を撮ってくれない? それにちょっとした記事をつけて」
「記事って、どんな風にですか?」
「たとえば名所案内でもいいし、見頃を迎える花の撮影のコツとか、おすすめ撮影スポットでもいいのよ。あと、ペットや子どもを撮るコツも知りたいって要望が結構あったから、運動会とかドッグランで撮影してもいいし」
「はぁ」
思い悩む俺に、麻美さんが明るい声で言った。
「実はね、亮君にも連載をお願いしてるの」
「えっ?」
初耳だ。目を丸くした俺に、彼女はにこやかに話す。
「連載って言っても、月に一度、売上ベストテンを教えてもらうのよ。その下に店主のイチオシをつけてね。店の名前が毎月載るだけで、知ってもらうきっかけになるかもしれないでしょ。憲史君の記事もカメラマンとしての名前が広まればいいなと思って」
「なるほどねぇ。でも、前から思ってたんですけど、麻美さん、私情で動きすぎじゃないですか? 会社のほうは大丈夫なんですか?」
「そりゃ、会社はダメだと思ったら企画の段階で落とすわよ。邪魔なら私の首を切ればいいだけだし、こっちだって、向上心のない会社は願い下げ。だって、私にはちゃんと、いい情報紙にしたいって気持ちがあるんだから」
熱意に満ちた声だった。
「それに、この前の夏祭りを見て、私もこの商店街の力になれればって思ったのよ」
商店街のというより、英知のように、亮の力になりたいんじゃないかと、ふと思った。もしかしたら、これは脈ありかもしれないな。
なんだか嬉しくなって、ぽつりとこう言った。
「写真の記事に書くコツって、ホワイトバランスとか、着物の型付けみたいなものでもいいのかな」
着物の型付けとは、白無垢や振袖を綺麗に見せる着物のさばき方だ。
「うん、いいわよ。立ち方一つでも印象が変わるとか、携帯電話で撮影する人にも役立つ感じがいいな」
「ちょっと、考えさせてください」
麻美さんは電話の向こうでふっと微笑んだ。
「その言葉、前向きにとらえておくわ。じゃあね」
通話が切れると、携帯電話を握りしめたまま、口を結んだ。この話を引き受けるとなると、自分の知識や技術がますます試される。カメラに詳しくない人にもわかりやすく伝えるというのは、ただでさえ難しい。それを短い記事の中でやってのけなくてはならない。
「俺に、できるか?」
勢いだけでは引き受けられない。いまや、カメラマンとしての肩書きだけでなく、甲斐写真館の看板を背負っているんだ。ひいては商店街のイメージにも繋がる。
思案にくれた挙句、俺は携帯電話を操作し始めた。
二回、三回とコール音が鳴り、思わず唾を呑む。
「もしもし」
五回目で出たのは、美月さんだった。
「お久しぶりです」
「うん、久しぶり」
久しぶりに聞く美月さんの声に、まだ胸が締め付けられる。でも、苦しいのではなく、どこか懐かしさを感じていた。
「あの、体は大丈夫ですか?」
「うん。もうだいぶお腹も大きくなったわ」
「産休は?」
「もうとっくに入ってるわ」
「そうですか」
「で、どうしたの?」
「実は……」
俺は商店街のこと、フリーペーパーに記事を寄せたこと、そして麻美さんの提案を話した。
「どう思います?」
おずおずと尋ねると、彼女はあっけらかんと言った。
「やってみればいいんじゃない? 月に一回でしょ? ハイペースなわけでもないし、あなたの勉強にもなると思うわ」
「でも、自信たっぷりってわけにはいかなくて。俺もまだまだ勉強中なのに」
「そんなこと言ってたら、一生できないわよ」
懐かしい、鈴を鳴らすような笑い声が耳をくすぐる。
「あの、スタジオをあんな形で辞めた俺が言うのも厚かましいんですけど、時々アドバイスもらってもいいですか?」
「もちろんよ。困ったことがあれば連絡ちょうだい。アドバイスくらいならできるから」
「すみません。ありがとうございます」
ほっと胸を撫で下ろした俺に、美月さんはこう言った。
「なんでもいいから、挑戦してみればいいわ。体当たりで学んで、いつか身につくから」
「はい。でも、俺にできるでしょうか」
「できるわよ。あなたは被写体に心を傾ければ、素直にそれを持ち味にいかせる才能があるって思ったの。だから、私はカメラを譲ったのよ。もっと私のカメラを使いこなしてちょうだい」
「本当にありがとうございます」
美月さんは少し黙り込み、やがて静かにこう訊いてきた。
「新しい恋はしてるの?」
「しましたけど、グズグズしてるうちに、見事に玉砕しました」
「そう。でも、こうして電話してきたってことは、私が過去になったのね」
「そうかもしれません。でも、あなたが過去になったからこそ、初めて向き合える気がします」
彼女は小さく笑った。どこか切なそうな、でも嬉しそうな声だった。
「そうね。カメラマンとして、これからもよろしくね」
「はい。あの……」
「うん?」
「元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
「……ありがとう」
通話が切れたとき、俺は知らず知らずのうちに、静かに微笑んでいた。
なんとなく部屋の窓を開けると、夏の夜風が頬を撫でて滑り込んできた。
しんと静まりかえる商店街を見下ろし、俺はぐっと胸を張った。ここに帰ってきたばかりのときは昼間でも灰色に見えたはずなのに、真っ暗な中でも温かい色に見えた。
「いっちょ、やってやろうか」
俺は結局のところ、父親に似たんだろう。カメラの道に進むところも、人を好きだというところも。
俺の隣には亮と英知がいて、ワルツのリズムに乗って前に進むんだ。手に手をとって、一歩ずつ歩いていく。俺はこの手にカメラを持ち続け、ここで生きていくんだ。
悪くない人生じゃないか。素直にそう思えた。
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