夏祭り

 失恋のことは胸にしまい、俺は仕事と商店街の手伝いに没頭した。電車で彼女と同じ髪型の女性を見かけたときや、寝る前のベッドの中で、ふと心が疼くことはあったけれど、その痛みを無視することで、忘れようとした。


 そして、夏祭りがやってきた。

 父親と俺は手分けして、ステージの様子と商店街の組合員の活動を写真におさめることになっていた。


 亮は里緒さんに店番を任せ、朝から催しもののサポートで慌ただしくしていた。

 店先には出店が並んでいたが、甲斐写真館の前には英知の姿があった。理事会があった夜、俺が彼に電話をしたのは、この日のためだった。


 俺と父親が撮影で店を空けてしまうから、写真館ではこれといったものを出せない。だから、せめて英知に出張してきてもらい、ノンアルコールのカクテルやモヒートなどの夏らしいものを用意できればと思ったのだ。

 英知は快く引き受けてくれた。出店にはモヒートのために鉢植えの生い茂るミントが置いてある。


「すごいな、このミント」


「モヒートには欠かせないからね。摘みたてで作ると、本当に香りが違うんだよ」


「これ、お前が育てたの?」


「ううん。肉屋の洋子さんが野菜を仕入れてる農家さんが、用立ててくれたんだ。今度、洋子さんに紹介してもらって、俺も買いつけに行くんだ。この話に乗ってよかったよ。おかげで心強いコネができた」


「そう言ってもらえてよかった。こっちこそ、ありがとな」


「僕も商店街のお役に立てて嬉しいよ」


「お前は亮のためだろ」


 すると、英知が声を落としてこう言った。


「確かに最初はそうだったけど。でも、今日のために商店街の人たちと過ごしているうちに、どうして憲史や亮がこんなに一生懸命になるかわかった。すごくいい人だちばかりだからね。今は本当に、商店街のために一肌脱げるのが嬉しいんだよ」


「お前、本当に移転してこいよ」


「うん、前向きに検討中」


 英知が商店街にやってきたら、俺と亮はもっとどこまでもいける気がした。三人寄れば文殊の知恵だ。


 俺は英知に店を託すと、催しもので賑わうステージに向かった。もう少しで午前の部が終わるところだ。舞台袖では、カメラを持った父親が待機していた。


「親父、昼飯食ってこいよ」


「おう、すまねぇな」


 近頃、胃の大きさに慣れてきたのか、吐くことも少なくなってきた。顔色もいいし、足取りもしっかりしている。ただ、鶏ガラみたいなのは相変わらずだ。


 午前の部のラストを飾るのは、美希さん率いるジャズ愛好会の演奏だ。演目はジャズに疎い俺でも知っているようなスタンダード曲ばかりだった。

 まず『A列車で行こう』から始まり、『テイク・ファイブ』『シング・シング・シング』そして『マイ・フェイバリット・シングス』ときた。そして、最後に登壇したのは美希さんだ。


 沸き起こる拍手に笑顔で深々と礼をした彼女が、マイクを持って「テネシー・ワルツ」とだけ言うと、メローな音色が流れた。

 美希さんの歌声は少し低めで、でも情緒豊かなものだった。声量はさすがプロだし、なにより歌うことの喜びに満ちた顔が、見る人を惹きつけていた。


「人には何かしら特技があるもんだな」


 シャッターを切っている俺の隣で、不意に呟いたのは、亮だった。カメラを構えたまま、ちらりと彼を見て、「お疲れさん」と声をかける。


「段取りはどうだ?」


「うまくいってるよ。午後の部も無事に終わってくれればいいんだがな」


「そうか、よかった」


 そう言ってから、ふと尋ねる。


「今日は麻美さん来るの?」


「来るんじゃないの? なんで俺に訊くんだよ」


「いや、深い意味はないけど。オケの練習で会ってないの?」


「しばらく会ってない。お互い忙しくて、なかなか練習に行けないんだ」


 亮を盗み見ると、少しふてくされている。まるで子どものようで、思わずふっと笑ってしまった。


 そのとき、演奏が終わって、盛大な拍手が起こった。美希さんが何度も礼をして、ステージを降りる。

 俺はカメラを下ろしながら、ふとこう言った。


「テネシー・ワルツってワルツっぽくないのな」


「なんで?」


「ワルツって、ズンチャッチャって明るいイメージない?」


「まぁ、テネシー・ワルツを踊っていたら友達に出くわして、恋人を紹介したら、まんまと奪われたって歌詞だからな。明るくは歌えないだろ」


「あぁ、そういう曲なんだ。俺はやっぱり明るい曲のほうが好きだな」


「お前らしいよ」


「そういえば、英知が本当に商店街に移転するかもしれないぞ」


「本当か? それは心強いな」


「お前もそう思うか」


「まあな。俺たち三人揃えば、三拍子揃ってズンチャッチャと前に進める気がする」


 英知の存在が心強いのは、亮も同じらしい。なんだか近い将来、理事会で三人が顔を突き合わせて議論している姿が容易に想像できて、嬉しくなった。


「そういえば、里緒さんの再婚、聞いたか?」


 不意に出た名前にぎくりとすると、渋い顔で「ああ」と頷いた。


「お祝いに娘さんも誘って食事でもって考えてるんだけど、お前は来れる? 心の準備しといてもらっていい?」


「うるせぇな、いいに決まってるだろ。惚れた女の幸せを願えないほど、落ちぶれてないぞ」


「そうか、ならよかった」


 にやりとする亮に、大きなため息を見せつけてやった。


「やっぱりさぁ、あんだけいい人、周りがほっとかないよな」


「そうだな。テネシー・ワルツじゃないけど、さっさと奪っちまえばよかったのに」


「だって、独り身だって聞いてたから、油断したよ。それに、俺もそれどころじゃなかったしな」


「独り身だとは言ったが、多分、俺の店で働きだした頃には、一緒に住んでたんじゃないか?」


「ええ? なんで?」


「だって子どもを養うのに、俺のとこのバイトだけでやっていけるわけないだろ。誰か生活を面倒見てくれる人がいるか、再婚間近だなとは思ってたけど」


「なんだよ、早くそれを言えよ!」


「うちの店に面接に来たときは、まだ再婚してなかったんだから、嘘は言ってない。それに、好きな気持ちはどのみち止められないだろうに」


「そうだけどさぁ」


「お前、本当に昔から鈍いんだよなぁ」


「うるせぇ」


「まぁ、次はタイミングを逃さず突っ走っていけよ」


「その台詞、そのままお前に返すよ」


 俺は短く笑い、「じゃあ、また午後に」とだけ言ってステージを去った。亮はこれから午後の部に備えて休憩に入る。俺は商店街をまわって、出店や組合員の様子を撮らなくてはならなかった。


 商店街を練り歩く人の群れを見ていると、胸がじんとした。いつもの閑散とした光景に見慣れていると、まるでうちの商店街じゃないみたいだ。

 ふと、かき氷の出店の前で、友達らしき人と立っている瑞枝さんの姿を見かけた。彼女はかき氷まで青いのが好きらしく、ブルーハワイをつついている。


「瑞枝さん、来てくれたんですか。ありがとうございます」


「あら、憲史君。今ね、休憩中なの。それで偵察に来たのよ」


「はは、俺も休憩時間に錦川商店街にお邪魔しますね」


「そうして。お互い助け合いよね」


 笑って手を振ると、また歩き出す。しばらく行くと、今度は花屋の前でブーケを並べている和孝さんに出くわした。


「やぁ、憲史君。うちの美希の歌声はどうだった?」


「すごかったですよ」


「そうか、僕が言うのも変だけど、美希にこういう機会をくれてありがとう」


「えっ?」


「歌手への未練を断ち切るために歌わないなんて言ってたけどね、本当は歌が大好きなんだよ。また思い切り歌えて、幸せだと思う。本当にありがとう」


「いえ、俺だけの力じゃないです」


「そうだとしても、憲史君が帰ってきてくれてよかったと思うよ」


「ありがとうございます」


 思わず唇を噛んでいると、和孝さんが「そうそう」と話題を変えた。


「フリーペーパーに連載したことがあったよね? あれって、またやらないの?」


「あぁ、それは『たかせっこ』の編集さん次第かなぁ」


「憲史君、よかったら話してみてくれる? 実は八百屋さんが地元農家から珍しい野菜を仕入れだしたんだよ。地産地消をアピールしたいんだって。どうにか前みたいにうまく記事にできないかな?」


「ああ、地産地消っていいかもですね」


「吉川さんも記事にしてほしいって言ってたみたいだし、うちもお願いしたいな。お金がかかっても、いいから」


「え、いいんですか?」


「うん。うちって、週に一度の頻度で店舗に出張して花をいけたりもするんだ。そういう出張とか配達サービスをやってるって知られてないから、アピールしたいんだよね」


「なるほどね」


「それに、八百屋が仕入れた珍しい野菜で、総菜屋が新メニューを考えてるらしいよ。うまくいけば、総菜屋の旦那さんも味方にできるかも」


 役員だけでなく、組合員にも変化が出てきた。その喜びで胸がいっぱいになった。


「わかりました。とにかく話してみますね」


 和孝さんと別れると、写真を撮りながら商店街をまた進む。

 そして、前方に見えた後ろ姿に、思わず足が止まった。ほんの十メートルほど先を歩いていくのは、里緒さんと葵ちゃん、そして背の高い男だった。葵ちゃんを挟んで、手を繋いでいる。


 一瞬、胸に痛みが走った。けれど、新しい父親を見上げる葵ちゃんの横顔が見えたとき、思わずカメラを構えてシャッターを押していた。

 商店街の中を歩いていく親子の背中に、俺は呟く。


「これで、いいんだ」


 俺には俺の居場所がある。それは里緒さんの傍ではなく、こうしてカメラを構えて立っている商店街だった。それだけのことだ。


 夏祭りの思い出は、充実感と一体感に溢れていた。けれど、ほんの少しほろ苦かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る