喧嘩

 理事会が終わると、俺たちは英知の店に顔を出した。フリーペーパーの件もうまく進みそうだし、景気付けに一杯やりにきたのだ。

 扉を開けて店に入ると、ちょうど年若い男性の二人連れが会計を済ませて出ていくところだった。


「じゃあ、またな」


 彼らは英知に声をかけていたが、ふとすれ違う間際に俺の顔を見て、ちょっと目を見開いていた。


 妙な視線だ。気になって振り返ると、店の扉を閉める間際まで、俺をちらちらと見やっている。視線の先は亮ではない。間違いなく、俺だ。

 俺のことを知っているんだろうか? けれど、こっちにしてみれば、まったく見覚えのない顔だ。英知の店に雇われたバイトだと、噂にでもなっているんだろうか。そう思ってみたものの、それでもちょっと気分が悪くなった。


「いらっしゃい。今、片付けるからカウンターでいい?」


「うん。ねぇ、さっきのあれ、誰?」


 眉をしかめて尋ねると、英知が「あぁ、雀荘の常連」と答える。


「たまに顔を出してくれるんだ。今日は二人とも負けたみたいだね」


 雀荘と一口にいっても、高瀬市内に何軒もある。けれど、英知の恋人が働いている雀荘の客なんだろういうことは、なんとなく察しがついた。さっきの妙な視線といい、なんだか嫌な胸騒ぎがした。


 あの男は俺が二人でいるところを邪魔してしまったときも、いい顔をしていなかったし、嫉妬深いなら、一緒に働き出したことに邪推しているかもしれない。きっと、俺の悪口でも言いふらしているんだろう。そう思うと胸が重くなった。


 英知はそんな俺に気づきはせず、手早く男たちの残した空のグラスと、お通しの皿を下げ、カウンターを綺麗に拭いてくれた。


「客、来てるんだな」


 亮はちょっと安堵したような顔だった。


「飲屋街は不景気だって聞いてたけど、よかったな」


「ありがとう。やっぱり左団扇ってわけにはいかないけど、ぼちぼちだね」


 俺たちはカウンターの真ん中を陣取って腰を下ろした。

 おしぼりを出しながら、英知が「今日は機嫌がいいね。晴れ晴れした顔をしてる」と亮に微笑んでいた。そして、俺の顔を見て、「あれ?」と首を傾げる。


「憲史はなんだか疲れてる? 憂鬱そうな顔してるけど」


 相変わらず鋭いやつだ。


「いや、気分はいいよ」


 ただし、さっきまでは。その言葉を呑み込み、「寝不足なんだ」と答えておいた。


 亮のキープボトルでスコッチを飲みながら理事会での出来事を話すと、英知は「よかったね」といつもの穏やかな調子で言った。


「麻美さんって、会ってみたいな。面白そうな人だね」


 亮が「はは」と小さく笑う。


「今度連れてこようか? ウワバミだから、金落とすぞ」


「それはありがたいな」


 英知はなんだか眩しいものでも見るような顔をした。


「いいなぁ。亮と憲史が理事会にいるなら商店街も面白そうだな」


 亮が手巻き煙草をくゆらせながらニヤリとした。


「商店街に空き店舗はたくさんあるぞ。なんなら移転でもするか?」


「魅力的な誘致だね。でも、それなら、バーじゃないほうがいいな。食べ物メインのほうが儲かる気がするんだよね。それに、昼夜逆転すると、しんどいんだ。もっとも、先立つものがないけどね」


 俺がすかさず「助成金があるよ」と口を出すと、亮が「お、憲史が出してくれるってよ」と茶化す。そんな調子で、三人で笑い転げていたときだった。


 勢いよく扉が開いて、一人の男がズカズカと店に乗り込んできた。


「なんだ?」


 亮が渋い顔をした。俺はその隣で「あっ」と小さく声を漏らした。

 すぐにその男が、英知と一緒にいた彼だと気付いたのだ。けれど、その顔はあのときよりももっと不機嫌そうで、怒りすら感じる。咄嗟に英知に視線を走らせると、彼は弱り切った顔をしていた。


「どうしてここに?」


 英知が苦々しく言うと、男は俺を指差し「こいつを見かけたって聞いたんでな」と荒々しく答えた。それを聞いて、さっきの男たちの顔が浮かんだ。あいつらの仕業だ。

 男はまっすぐ俺に突き進み、胸ぐらを掴んできた。


「なにしてるんだよ!」


 怒鳴ったのは、俺ではなく英知だった。俺といえば、驚きと息苦しさのあまり唖然としていた。

 男は俺の顔をじろじろと睨め回し、ドスの効いた声で言った。


「お前だろ? 最近、英知にくっついて回ってる男は」


 驚きが過ぎると、今度は腹が立ってきた。ごつい手を払い、「なんだよ、一体」と睨み返す。


「俺になんか恨みでもあんのかよ。失礼なやつだな」


「お前が『特別』なやつなのかって聞いてんだよ」


 息が酒臭いし、目がとろんとしている。絶対、酔ってる。しかもかなり、だ。


「意味わかんねぇよ、とりあえず落ち着けよ」


 せっかく気分よく飲んでるのに、喧嘩なんてしたくない。そもそも、俺は情けないほど喧嘩が弱いんだ。


「お前だろ、この店で働き出したのは?」


「そうだけど?」


「この店に人を雇う余裕なんかあるかよ。なんかの魂胆があるんだぜ。英知は計算高い男だからな。でなかったら、例の『特別』ってことだろ? なぁ、英知」


 男は真っ青な顔をしている英知に、吐き捨てるように言った。


「こいつはな、平気で人を利用するような男だからな」


 本当に何が言いたいのかわからない。ただ、誹謗中傷も甚だしい。英知が絶対にそんな男じゃないことは、俺も亮もよく知っている。誰より他人を気遣えて、大事な人のためなら自分を犠牲にすることも厭わない性格だ。


 猛烈に気分が悪かった。頭に血が上っていくのがまざまざと伝わってくる。俺は三人の中で一番短気なんだ。

 ところが、この日は違った。


「おい」


 その声があまりに冷たくて、ぞっとした。見ると、亮が男の肩に手を置いている。


「まず、店を出よう。それが最低限の礼儀だ」


「礼儀ってなんだよ。うん? そうか、こっちじゃなくて、お前が『特別』ってやつか?」


「お前、さっきから何言ってんのかわかんねぇんだよ。店に迷惑かけないのが、喧嘩の礼儀だろうが。いいから来い」


 男の腕を引き、亮が有無を言わさず外に引きずりだす。


「なんだ、てめぇ。離せよ、こら!」


 男が喚くのを聞きながら、俺は慌てて二人の後を追った。

 しかし、一緒に店を出ようとする英知に気づき、パッと手で制した。


「お前はそこにいろ!」


「でも!」


「大丈夫だ。いいか、店から出て来るなよ」


 しぶしぶ頷く英知を残し、店を飛び出した。

 中通りでは男が亮の胸ぐらを掴んで、凄んでいるところだった。既に数人の見物人が集まっている。


「やめろ!」


 怒鳴ったものの、遅かった。男が亮の顔に拳を振り上げたのだ。鈍い音がし、亮の顔が横にぶれた。だが、足が少しよろめいただけで、倒れることはなかった。


「あぁあぁ、やっちまった」


 俺は思わず天を仰いだ。

 亮は無言で顔をこすった。少し唇の端が切れたらしく、赤いものが滲んでいた。

 それからはもうあっという間だった。

 次の瞬間、彼は黙ったまま、男の手を払い、顔面に強烈な一撃を放っていた。呆気なくよろけた男を無理やり起こし、みぞおちにもう一発拳をねじ込むように打ち込んだ。


「がはっ!」


 気がつけば、男は地べたに這いつくばり、うめき声を漏らしている。


 そう、俺が止めに来たのは、この男じゃない。亮のほうだ。こいつは諍いが嫌いなくせに、売られた喧嘩はきっちり買う。おまけに格闘技経験者でもないくせに、めっぽう喧嘩が強いのだ。神様は亮に無駄な才能を与えてしまったといつも思う。


「遅かった」


 頭を抱えた俺の目の前で、亮はうずくまる男の髪を掴んで無理やり立たせた。そしてそのまま、中通りから一本向こうの大通りまで引きずるように連れていく。


「英知の仲間か? これから先、あいつのよき理解者でいるなら勘弁してやる。けどな、これ以上、英知の邪魔をするなら、容赦はしない」


 見る限り、さっきの拳だって容赦したようには思えない。しかも殴られたのは一発なのに、倍返ししてるじゃないか。そうツッコミたいのをこらえ、俺は慌てて通りを流していたタクシーを呼び止めた。騒ぎになる前に、この男を飲屋街から追い出したかった。


「亮、こいつを乗せろ」


「そのつもりだ」


 ドアが開くのを見て、亮が凄みのある声で囁く。


「今度変なことしたら、タクシーじゃなくてパトカーにぶっ込むからな」


 亮はタクシーの後部座席に男を押し込むと、身を屈ませ、運転手には打って変わって愛想よく話しかけた。


「運転手さん、すみませんね。こいつに住所聞いて、家まで送ってください。悪酔いしたみたいなんですよね」


「えぇ? 大丈夫かい? 吐きそう?」


 迷惑そうな顔で振り返った運転手に、亮はジーンズのポケットから紙幣を取り出して握らせた。


「お釣りはとっておいて」


 運転手は手の中にある福沢諭吉を見て、「まぁ、そういうことなら」と態度を一変させて前を向いた。


 走り去るタクシーを見送り、亮がため息を漏らした。

 てっきり、喧嘩してしまったことを悔いているんだと思ったら、ぽつりとこう呟く。


「千円札と間違えた」


「バカか、お前は。男に治療費を払ったと思えばいいだろ」


「向こうが絡んできたのに?」


「手加減を忘れたほうの負けだ」


 叱るように言い、俺たちは英知の店に戻った。


「亮、大丈夫?」


 英知は店の前でずっと待っていたらしい。すっかり顔が青ざめていた。亮がニカっと笑ってみせる。


「平気だよ」


「平気じゃないよ、唇、切れてるよ」


「なに、アルコール消毒すればいい」


 亮は立ったまま、カウンターに置いてある飲みかけのスコッチを一気に飲み干すと、ポケットから千円札を取り出して置いた。


「悪いな、今日は帰るよ」


「ごめん、気分悪いよね」


 しゅんとした英知に、亮が苦笑する。


「そうじゃないんだ。憲史に聞けばわかると思うけど、今日の飲み代が消えたんだよ。それに、誰かが警察を呼んで騒動になったら面倒だからな。早いうちに退散するわ。じゃあな」


 そう言うなり、亮は足早に店を出て行ったのだった。

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