見舞い
翌日、英知は約束の十一時きっかりに車で迎えに来た。
「悪いな」
助手席に乗り込むと、英知が「さ、行こうか」と車を発進させた。人柄がよく出た丁寧な運転だった。
土曜日のせいで、市立病院の正面玄関は閉まっていた。夜間・救急入口から入ると、廊下の案内掲示板に従ってエレベーターに乗り込む。ナースステーションに声をかけてから、病室に向かった。
恐る恐る中に入ると、父親は窓際のベッドに横になっていた。
「おう、来たのか」
声が掠れているのに、どきりとした。けれど鼻のチューブが取れていて、どこかホッとしてもいた。
「英ちゃんまで来てくれたのか、悪いな」
「親父さん、具合はどうですか?」
「あぁ、よくもなければ悪くないな。ただ、うまく飯が食えなくて難儀してるよ」
「親父、これ着替え。テレビの上に置いておくよ」
「悪いな、洗濯物はそこにあるから」
母親から託された袋をテレビの上に置こうとすると、テレビ画面が目に入った。父親はイヤホンをして音楽番組を観ていたらしい。オーケストラの映像が流れていた。
「親父、クラシックなんて聴くんだな」
「詳しくはないがな。最近な、亮ちゃんにすすめられて聴き始めたんだ」
「へぇ」
「意外といいもんだぞ」
父親にとって、亮は息子の親友であり、商店街の戦友であるとともに、第二の息子なのかもしれない。亮の名前を口にした彼は、優しい目になっていた。
父親が俺のことを誰かに話すとき、こんな顔をしてくれるだろうか。一瞬そんなことを考えてしまい、うつむいた。頼りにならないドラ息子だって自覚はしてるけど、そんな俺がこれから三代目を名乗っていいか尋ねるのはやっぱり気が重かった。
「まぁ、座れよ」
そう促され、ベッドサイドに丸椅子を並べて座る。
じっと親父の顔を見つめ、こんなにシワだらけだっただろうかと、今更ながらそう思った。肩も細く、入院着がブカブカだった。
俺も二十八になるんだから、父親も老いて当たり前だ。それなのに、その当たり前のことがどうしてこんなにも切ないんだろう。すっかり髪には白いものが増えているのを見ると、俺が心配かけたせいもあるんだろうかと考えてしまう。
ふと、英知はバッグから買い物袋を取り出し、父親に差し出した。
「退屈なときにでも、どうぞ」
中身を見た父親は、「おっ」と、顔を輝かせた。
「これはいいね。さすが英ちゃん」
英知が差し入れしたのは、おもちゃの将棋セットと、将棋専門誌だった。
「おもちゃだけどね。雑誌には棋譜も載ってるし、楽しめたらいいけど」
「すまねぇな」
父親の目に少し生気が戻ったようだ。英知に「一局、どうだ?」と、将棋を指す手つきをした。
英知がちらっと俺のほうを見る。午後から亮の店でバイトがあるし、一緒に昼食をとることになっているから、返事に困ったのだろう。俺は「いいよ、ちょっと相手してやってよ」とすかさず答えた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
二人はベッドサイドテーブルの上に手際よく駒を並べ、対局を始めた。
思わず心の中で『へぇ』と感心した。父親も英知も、将棋盤に向かい合った途端、すうっと顔つきが締まって凛々しくなったのだ。父親のほうが唇に余裕の笑みを浮かべているのは、実力の差なのだろう。
静かな病室で、パチリ、パチリと乾いた音が小気味よく響く。窓にもたれながらぼんやりと二人のやりとりを見ていると、時間の流れがすごくゆっくり感じた。英知のこんな真剣な顔を初めて見た気がする。きっかけはなんであれ、将棋が好きになっていたらしい。
俺も子どもの頃、父親に教え込まれたから駒の種類くらいはわかる。けど、まわり将棋やくずし将棋ばかりして、こうして父親と面と向かって指すことは少なかった。
だけどこうして二人が向き合っているのを見ていると、こういう静かにゆったり流れる時間も悪くないと思った。言葉なんてなくても、二人の間で沈黙の会話がなされているような気がした。
父親が将棋盤から目を離さずに呟いた。
「どうだ、役員は」
「親父、駅ビルの話、知ってるか?」
「あぁ。噂は聞いてるよ。大変なときにすまんな」
「それは仕方ないよ」
理事会の面々が落ち込んでいる様子を話すと、父親は「そうだろうな」と頷いて、駒を動かした。英知が「あっ」と顔をしかめているところを見ると、なかなかいい一手を指したらしい。
「フリーペーパーもそうだけどさ、駅ビル対策の案が出ても、『それじゃダメだ』とか『こんなのできない』とか否定されて終わりなんだよな。『じゃあ、こうしていこう』って次に繋げることもないし、代案が出るわけでもないし」
「まぁ、目に浮かぶよ」
「肝心の熱意がないよ。なんか、湿気った花火みたいだ」
父親が英知の一手を待ちながら、静かに言った。
「そうだな、確かに今の商店街には熱意は足りないかもしれない。お前や亮みたいに若い世代が空回りするのはわかってるよ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「まずは、みんなを知ることだな」
「今更何言ってんだよ。ガキの頃から知ってるよ」
「あくまで写真館の息子に対する顔だけだろ? 店主として、役員としての顔もよく知ることだ」
好きな将棋を指して機嫌がいいのか、珍しく父親が饒舌だった。
「湿気った花火のあいつらにもな、悪いところがある分、いいところがある。もちろん、お前にも、亮ちゃんにも」
「お、おう」
「要は適材適所だ。うまく立ち回れ」
「どうやってだよ」
「お前がいくら引っ張ろうと思ったって、あいつらはなかなか動けないこともあるだろうさ。なんたって面子やプライドがある。長年この商店街を守ってきたんだ」
「守ってきた? 何もしてこなかったの間違いだろ?」
「いいや、守ってきたんだよ。ずっと挫けず店を開け続けて、嵐に耐えようとした。それがあいつらの精一杯のやり方だったんだ。もちろん、俺もな」
「でも、それじゃ落ちていくだけだ。それに、何も努力してないじゃないか」
すると、英知が口を挟んだ。
「それはそうかもしれない。けれど、自営業が毎日きちんと店を開けるって、結構な自制心と体力がいるよ。だって、休もうと思えばいつだって休めるし、怠けたらキリがないんだから」
英知はバーテンダーの仕事を経験しているから言えるのだろう。父親のほうを見て、強く頷いた。
「客が来なくても店を開け続けるには、勇気もいるんですよね」
「そうだな、英ちゃん」
父親が優しく応える。
「お前は商店街の人たちを無気力だと決めつけてるがな、ただ方法を知らないだけなんだ。俺もそうだがな。だから、お前や亮ちゃんの若い世代に風を吹かせて欲しかったんだ」
「方法って?」
「人にはな、向き不向きがある。若い世代にできることがあるように、お前らにはできなくても俺たち湿気った花火の世代にできることがある」
「たとえばなんだよ?」
「確かに俺たち年寄りはパソコンもろくに使えないし、新しいことは苦手だ。だけど、亀の甲より年の功って瞬間が絶対にあるんだよ。ただ、どこで力を発揮すればいいかわからないだけのことで、本当はくすぶってるはずだ」
黙って聞いていると、英知がパチリと乾いた音をたてて駒を進めた。すぐに父親は別の駒を動かし、それを取る。
「うまく手で転がすこった。湿気った花火には何もできないとなめてかかると、火傷するぞ」
「そうかなぁ」
「商店街の役員もな、将棋の駒みたいなもんだ。それぞれに役割があって動いてる。お互いの長所短所を補い合って、うまく先手を読んで進めろ。将棋盤を俯瞰するこった」
その様子をぼんやり見ながら、なんとなくこう口にした。
「じゃあ、理事長の大野さんが王将?」
「違うな」
「なんだよ」
「王将は商店街だ。守るべきものだ」
「じゃあ、理事長と副理事長は飛車と角?」
「そうかもしれんな」
英知がふっと「じゃあ、亮は金だね」と笑う。
「書店をずっと守ってるしね」
俺は肩をすくめて、ぼやくように言った。
「よくわかんないけど、俺は歩かな。商店街に戻ってきたばっかりだし、何もわかんないへなちょこだし」
すると、父親がふんと鼻を鳴らした。
「だからお前はまだまだなんだ。よく『金底の歩、岩より固し』って言ってな、歩をバカにしちゃなんねぇよ」
「金底の歩?」
「金の下に歩を置いた守りは固いってことだ」
英知が「あはは」と声を出して笑った。
「そうだね、確かに亮と憲史がそろうと強いや」
そう言うと、彼は「ところで親父さん、王手」と微笑んだ。
「えっ? あ、あっ! おい、憲史! お前があれこれ煩いから負けたじゃねぇか!」
「俺のせいかよ!」
父親は顔をくしゃくしゃにして笑った。負けたくせに嬉しそうだ。
「英ちゃん、強くなったな。退院したら、また相手してやらぁ」
「お願いします」
二人が将棋盤と駒を片付けているのを見ながら、思い切って「あのさ、フリーペーパーの記事なんだけど」と切り出した。
「うん?」
「広告主体じゃなく、撮影のワンポイントを教えるって記事にしようと考えが出てるんだ。写真を撮らせてもらったモデルの店を紹介するって形で」
「おう」
「それがさ、俺が記事を書きたいんだ。その、甲斐写真館の三代目ってことで」
三代目を名乗るということは、俺が店を継ぐと宣言しているようなもんだ。父親がどんな顔をするか見るのが怖くて、病室の床を睨むように見つめた。
父親は「へぇ」と声を漏らし、静かにこう尋ねた。
「それはお前のアイディアか?」
「いや、違うけど、でも……」
「でも?」
「やるべきだと思うし、俺にしかできないことだと思ってる」
「じゃあ、いいじゃねぇか」
あっけらかんとした声に、弾かれたように顔を上げた。
「お前が必要な一手だと思うなら、迷わず打て」
「でもさ、三代目なんていっても、俺、名前ばかりだしさ」
父親は俺の胸中を見透かしたようで、唇の端をつり上げた。
「なにも三代目だからって必ず店を継がなきゃいけないわけじゃない。それに、お前に譲る前に潰れるかもしれんし」
「親父の冗談は笑えねぇんだよ」
笑えないと言っているのに、父親は愉快そうな顔になった。
「なぁ、憲史。俺がずっと役員を続けているのは推薦してくれた人たちに応えるだけじゃなく、新陽通り商店街の気質が好きなんだ」
「気質?」
「いつか見えてくるさ。商店街はな、いいもんだ。俺の居場所を守るために、できることはなんでもやってみてくれ」
彼が口にした『居場所』という言葉に、どきりとした。不意に、亮の顔が浮かんだのだ。東京に出て行く俺が、『この商店街を出て行こうと思わないのか』と尋ねたときの亮だ。
『しょうがないさ。ここが俺の居場所だって思うのに、どこに行けっていうんだよ』
彼はそう答えたんだっけ。役員としてもう少し頑張ってみれば、父親と亮が商店街という場所に何を見出したか、もしかしたら見えてくるんじゃないだろうか。そんな気がした。
帰り際、父親は最後にこう言った。
「いいか、一人で走るな。駒にも人にも得手不得手がある。お前にもみんなにも至らないところが必ずあるんだ。だけど、誰もが必要なんだ」
「あぁ、わかったよ」
一階に下りるエレベーターの中、英知がふっと呟いた。
「ねぇ、憲史」
「うん?」
「商店街のことで何か手伝えることがあったら、声をかけてね」
「どうした?」
「うん、僕もね、新陽通り商店街の力になりたいなって思って」
「いや、それはありがたいけど、お前もバーテンダー仲間とか飲屋街の付き合いのほうもあるだろ?」
「うん。でも、できる範囲で商店街に協力させてよ」
「なんだよ、どうしたんだよ」
「ただ、そうしたいんだ」
「そうか、うん、ありがとな。覚えとくよ」
ちょうどそのとき、エレベーターが一階に着き、音もなく扉が開いた。
「そういえば、憲史は三代目として記事を書くって話したとき、親父さんの顔、見た?」
「いや、下向いてたから」
「親父さん、唇噛んでたよ」
「やっぱり、ああ言ってくれたけど、本音は嫌なのかな」
はあっと大きなため息を漏らすと、英知が面白がる。
「なんだ、憲史は親父さんの癖を知らないんだね」
「うん? どういう意味だ?」
「面白いから、教えない」
「なんだよ、言えよ」
「そのうちわかるんじゃない? 多分」
外に出ると、抜けるような青空が広がっていた。風は冷たいけれど、日差しが眩しくて爽快だった。
「いっちょ、やってみっか」
空に向かって呟くと、自然と口元に笑みが浮かんできたのだった。
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