哀愁のち、さざ波

 一夜明けた月曜日、早朝から我が家は慌ただしかった。

 両親はスーツケースを手に、俺に「じゃあ、いってきます」と声をかけた。


「なんだか旅行に出かけるみたいだな」


 俺の言葉に、珍しく親父がおどけてみせた。


「死出の旅路にならないといいがな」


「親父、笑えねぇんだよ。さっさと戻ってこい」


 思い出した。父親は滅多に冗談を言わないくせに、たまにこうやって全然笑えないことを言うんだ。


「あぁ、じゃあな」


「憲史、戸締りしっかりね。あと、英ちゃんによろしく言っておいて。明日は昼からうちの店番してくれればいいから」


 早口でそうまくし立てると、母親が父親を追って出て行った。いつもは豪胆な母親も、どこか心配そうな顔だった。


 その日は陽気がよく、雪もずいぶん溶けてぬかるんでいた。店番をするも客はなく、手持ち無沙汰だ。ふと、たまにはショーウィンドーでも拭こうと思い立った。

 いつもより日差しがあるとはいえ肌寒いが、バケツに水を汲み、ゴム手袋をして雑巾を持つ。


「うわ、結構汚れてんな」


 雪のあとというのは、意外と白く汚れるものだ。

 ガラスを磨いていくと、その向こうに飾られた記念写真が綺麗に見えてきた。どの家族も幸せそうに微笑み、佇んでいる。

 フィルム写真には温かみがある。その長所が、人々の朗らかな笑みをより一層際立たせていた。


 ガラスを拭き終わって、今度は店内の掃除にとりかかった。カウンターを綺麗にして顔を上げたとき、思わず独り言が漏れた。


「うちの店って、こんなんだっけ」


 思えば、カウンターからの光景は見慣れていても、店の奥まで足を踏み入れることはほとんどない。

 なんとなくふらりと撮影スペースに立ってみると、よけい見知らない店に見えた。俺にとっては美月さんのスタジオのほうがよっぽど馴染み深くなっているからだ。


 目の前に置いてあるストロボや背景紙、そして中判カメラがなんだか主人を待つ老犬のようだ。情けないけれど、やっぱり父親が急にいなくなるのは俺だって心細い。

 気持ちが沈んできたのを誤魔化すように、客との打ち合わせに使うテーブルを力一杯拭こうとした。

 そのとき、テーブルの上に分厚いファイルが置いてあるのに気づいた。


「こんなのあったっけ?」


 めくってみると、かなりの枚数の記念写真がファイリングされていた。きっと、客とどういう写真にしたいか話すときに使っていたのだろう。父親の仕事を初めてきちんと見た気がする。

 古臭い写真館だとしか思っていなかったけれど、父親の写真はどれも温もりに満ちていた。誰もが喜びや希望に満ちた顔をして、カメラを見つめている。


 亮が『体は小さくてもでっかい人』と父親を称したのを思い出した。ひっそりとした姿や性格でも、腕は確かなんだ。

 店はほとんど親父一人で切り盛りしているようなものだ。客と写真を選ぶことや精算はもちろん、伝票作成、予算管理、アルバムのレイアウト作成、発注、検品、写真を台紙に貼ることまでしていたと思う。それを考えると、結構な労力だ。だけど、黙々とこなしていた彼は、この写真館でしか撮れないものがあるって知っていたんだと思った。


 視界がぼやけて、慌てて目を擦った。けれど、最後のページをめくったとき、引っ込めたはずの涙がとうとう溢れてしまった。

 だって、最後の写真でポーズをとっているのは、小学校に入学したときの俺だったんだ。思春期を迎える前の俺は照れ笑いを浮かべて、真新しいランドセルを背負っていた。


「……こんな古臭い写真、客に見せるんじゃねぇよ」


 最後のほうは声にならなかった。


 その夜は、英知の店で初仕事だった。まだ俺の父親の入院を知らない英知は「お疲れ」といつもの調子で出迎えてくれた。


「とりあえず、流れだけ説明するね」


 英知は客が来たときの応対を簡単に教えてくれた。今まではカウンターに座っておしぼりを受け取るだけの立場だったけれど、いざ差し出す側になってみると面白い。

 俺の仕事はお通しを出して、トークで客を楽しませ、洗い物をし、店じまいを手伝うことのようだ。簡単なように見えて、思いの外難しい。洗い物にしても、食器とグラスを拭く布巾は別だとか、グラスを拭くにもコツがあるなんて知らなかった。


「こうして布巾の端を持って、こうやって片方をグラスの中に入れて、回転させながら磨くんだよ」


 口で言うのは簡単だが、やってみると思うように手が動かない。

 グラスの種類の違いなんて気にしたこともなかったし、氷の大きさにもそれぞれお名前があるなんて新鮮な驚きだった。


 バーテンダーというと華やかなイメージだったけれど、大きな板氷を自分でアイスピックで割ってストックしたり、お通しを毎日用意したり、その裏方は地道なものだった。店を綺麗に保つには、掃除だって手を抜けないだろう。

 今更のように英知の日々の努力に感心していると、彼はふと俺にこう尋ねてきた。


「そういえば、里緒さんとの食事はどうだったの?」


 不意打ちで里緒さんの名前を耳にし、思わずどきりとした。


「うん、楽しかったよ」


 かあっと顔が赤くなるのが自分でもわかった。


「そうみたいだね」


 英知は俺の変化を察してしまったらしく、小さく噴き出した。


「亮の言う通り、本当に憲史の好みのタイプだったんだね」


「いや、最初はそうでもなかったんだけど」


 ハンバーグ店で意識してしまった経緯を話すと、彼は「あぁ」と納得したようだった。


「そうだね、そういえば憲史が今まで好きになった人って、守ってあげたくなるようなタイプが多かったかも。美月さんもそうだったの?」


「うん」


 そう答えてから、亮から英知に恋愛の話をするなと言われたことを思い出したが、後の祭りだ。それに英知の秘密を知った今では、その気遣いも無用な気がした。

 けれど、勘の鋭い英知は、俺の一瞬の戸惑いを即座に感じ取った。


「どうしたの? 美月さんのこと、まだ話すの辛い?」


「いや、そうじゃないんだ」


 亮から言われたことを白状すると、英知は目を細めて「そうか」と呟いた。


「亮がそんなことを言ってくれてたんだ」


「うん」


 英知の目が伏せられた。亮に話していないことを気にしているのだろうか。そう思ったとき、店の呼び鈴がなって、五十代くらいの男の人が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


「よう、今日はあったかいな」


 客は常連らしく、親しげな笑みを浮かべてカウンターに腰を下ろした。


「最初は僕がするから、見ててね」


 そう言うと、英知がにこやかに慣れた手つきでおしぼりを出した。


「新人さん?」


 客に話しかけられ、慌てて会釈をした。


「憲史です。よろしくお願いします」


 アイスペールに氷を入れてきた英知が、営業スマイルを浮かべて俺を紹介してくれた。自己紹介によると、この客は高瀬市の公務員らしい。トレンチコートの下はグレーのスーツで、きちっとした印象だった。


 英知は会話を続けながら注文されたカクテルを作り、お通しをプレートに飾り付け、客の前に出した。


「英知も憲史君も飲んでよ」


「ありがとうございます」


 客の一声に、こういうこともあるんだな、と驚く。今までバーテンダーに酒を振舞うなんて考えたこともなかった。

 烏龍茶で客と乾杯を交わし、一口飲んだ。やたら美味いのは、自分が思うより緊張で喉が渇いているからだと気づき、苦笑しそうになった。


「そういえば」


 客がカクテルを置いて、顔を上げた。


「駅ビルができるんだってな」


「えっ」


 思わず大きな声を上げてしまった。英知が隣で「高瀬駅にですか?」と眉をひそめる。


「うん。高瀬駅に直結した商業ビルが着工したらしい。お前ら、新聞読んでないな。今朝、載ってたよ」


 客はからかって笑っているが、俺には笑い事じゃない。ただでさえ駅周辺に人が集まっているのに、駅ビルができたら商店街には大打撃だ。


「テナントはこれから決まるらしいけど、バスターミナルもできるし、最上階には個人病院も幾つか入るんだって」


 目眩がしそうだ。このままじゃ新陽通り商店街が、本当に斜陽通り商店街になっちまう。


 客が帰ると、思わず「はぁ」と深いため息が漏れた。焦りと戸惑いで、ざわざわと胸が騒いで落ち着かない。


「疲れた?」


 気遣ってくれた英知に、「いや」と首を振る。


「そうじゃないんだ」


 俺は父親の入院と、商店街の役員になったことを話した。英知は驚いたあと、労わりに満ちた目で俺を見た。


「憲史、大変だったね。僕も知らなかったよ。親父さん、そんな素振りなかったから」


「うん? お前、うちの親父と会うことってあった?」


「実は、僕、親父さんと同じ将棋クラブのメンバーなんだよね」


「へ?」


 初耳だ。目を丸くした俺に、英知が苦笑いする。


「この前の彼、覚えてる?」


 カウンターで身を寄せ合っていた男のことだろう。俺を睨みつけた顔を思い出し、「うん」と答えた。


「あの人、雀荘で働いてるんだよ。もともとお客さんの付き合いで麻雀しに行ってたんだけど、ちょっと行きずらくなっちゃってね」


「なんで? あの男と付き合ったから?」


「うん。あの通りわかりやすい性格だし、それに、ちょっと最近うまくいってないんだ」


「あぁ、なるほど」


「そうしたらね、憲史の親父さんとばったり出くわしてね、将棋クラブに誘ってくれたんだよ。雀荘に誘われたとき断る口実ができるのはありがたいから顔を出すようになったんだけど、みんな孫みたいに可愛がってくれて、居心地がいいんだ」


 なるほど、将棋クラブはほとんどが父親と同世代のはずだった。英知のようなおとなしくて綺麗な若者が飛び込めば、そりゃあ喜ばれる。


「でも、どこで出くわしたの? うちの親父、いつも店にいるのに」


「親父さんは毎日朝五時に商店街を掃除してるんだよ。たまに朝まで飲んだときに見かけてはいたんだけど、先月かな、親父さんが俺に気づいて声をかけてくれたんだ」


「えっ、そうなの?」


「憲史は朝弱いから、知らなかったでしょ。商店街の端から端までゴミ拾いをして、花壇の手入れとか、簡単な除雪もしてるんだよ」


 父親が早起きなのは知っていたが、まさかそんなことをしているとは思わなかった。

 なんとなく、もしかしたら役員も押し付けられたわけじゃなく、きちんと彼の意思でしているのかもしれないと思った。何もしない情けない男だと思っていた父親が、実は誰よりも商店街を好きなんじゃないだろうか。


 また涙腺がじわりと疼き、慌てて唇を噛んだ。英知はそっと見ないふりをしてくれて、カウンターを拭きだした。これじゃ、この前と逆だ。

 ぽつりと、英知が言った。


「親父さん、早く戻ってくるといいね」


「あぁ、本当にな」


 そして、深いため息のあと、ぼやく。


「どうしてこうも問題が一気に湧いて出るんだ」


 波乱のさざ波がいくつも押し寄せてくる。いつかこの波が巨大なうねりになって一気に襲いかかってくるんじゃないだろうか。思わず頭を抱え、うなだれたのだった。

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