新しい恋
それから二日後、里緒さんと約束した日曜がやってきた。
母親は明日に迫った入院の準備に追われていたが、玄関で俺を見送りながらニヤニヤする。
「里緒さんだっけ? ちらっと見たけど可愛いわよね。頑張ってね」
何を頑張れというのだろう。何も答えることなく、約束のハンバーグ店へ向かった。
まだ雪の残っている店の駐車場に入ると、すぐに入り口で立っている里緒さんと女の子の姿が目に入った。
「ごめんなさい、待たせたかな?」
急いで車から駆け寄ると、相変わらずの和やかな声で「いいえ」と里緒さんが微笑む。
「私達も着いたばかりです」
「よかった」
ちょっと視線を下にやると、目のくりっとした可愛い女の子が俺をじっと見つめている。
「娘の葵です」
里緒さんの声に、女の子がぺこりとお辞儀をした。
「初めまして。お母さんの同僚の甲斐憲史といいます」
葵ちゃんは少し照れ臭そうにしながらも、しっかりした口調で「初めまして」と答えてくれた。
「お兄さん、憲史君っていうの?」
「うん、そうだよ。今日は会ってくれてありがとう。ハンバーグ、たくさん食べようね」
そう微笑みかけると、葵ちゃんは「うん」と白い歯を見せてくれた。笑い方が里緒さんに似ているのはさすが親子だ。
テーブル席に腰を下ろそうとすると、葵ちゃんは迷うことなく俺の隣に座った。
「葵ちゃん、俺の隣でいいの?」
「うん、ここがいい」
里緒さんがちょっと驚いた顔をしたが、すぐに眉を下げて笑う。
「ごめんなさい、この子って人見知りしないんです」
「いいことじゃないですか。じゃあ、一緒にメニュー見ようか」
「うん!」
この子の爪の垢を煎じて亮に飲ませてやりたいくらい、愛嬌がある。
「葵はチーズが乗ってるやつ」
「じゃあ、俺もチーズが乗ってるやつにする」
「お揃いだね」
葵ちゃんは俺を見てはにかむ。あまりの可愛さに締りのない顔になってしまった。
「パフェもあるよ」
「いちごの食べたい!」
「じゃあ、食後にこれね。飲み物は?」
「いちごミルク!」
「葵ちゃんはいちごが好きなんだね」
「うん、大好き!」
「里緒さんは何にします?」
メニューから顔を上げて、思わずハッとした。娘を見る彼女の顔はいつにもまして穏やかで、それでいて綺麗だった。
見とれてしまった俺に、彼女は気づかなかったらしい。
「私はエッグバーグにします」
「え? ああ、えっと飲み物は?」
慌てふためいた俺は、思わずメニューに視線を戻した。顔が赤くなってなければいいけれど。
「そうですね、ウーロン茶で」
「じゃ、店員さん呼びますね」
注文を終えると、葵ちゃんから本屋はどんなところか質問攻めになった。
「店長さんってどんな人?」
「亮君っていうんだ。ちょっと怖く見えるけど、優しいよ」
「憲史君より?」
「そうだねぇ、でも、一番優しいのは葵ちゃんのお母さんだな」
「知ってる」
「知ってるんかい」
里緒さんは俺たちのやりとりを笑いながら聞いている。子どもがいるときの彼女は、普段よりも魅力的だった。優しげであたたかい笑みは、どこか亮の死んだ母親を思い出させた。それに、そこはかとなく強さを感じて安心する。それは普段の里緒さんからは見えなかったものだ。
里緒さんの違う顔が見えた途端、どうして今まで平気に接していたんだろうという気さえしてきた。
けれど、同時に戸惑いも感じていた。定職もなく、父親が入院し、慣れない役員を任されたばかりで、女にのぼせ上がってる暇なんてない。それでも、目は自然と彼女に吸い寄せられていった。
しばらくすると注文した品が出揃い、葵ちゃんがはしゃぎながらハンバーグに舌鼓を打つ。
もうそろそろ食べ終わるという頃、里緒さんの携帯電話が鳴った。
「ごめんなさい、ちょっと失礼」
彼女が席を立った途端、葵ちゃんが俺の腕をつついた。
「憲史君、お母さんのこと、好き?」
「うん? あぁ、そりゃあ好きだよ」
「普通の好きじゃなくて、もっと好き?」
つまり、恋愛対象かと訊いているのだろう。思わずぎくりとした。ビー玉みたいな目が俺をまっすぐ見ている。馬鹿正直に『ついさっき、意識しました』なんて言えるわけもないが、嘘をつくにはちょっとしんどい。
「どうかな、俺って鈍いから」
「そうなの?」
「うん。お母さん、優しいね」
「でも、本当は泣き虫なのよ」
「本当に?」
「だってね、家を出るとき、車を運転しながらずっと泣いてたの。だから、私、こうやって腕をずっとナデナデしてあげてたの」
そう言って、彼女は俺の二の腕を優しく撫でた。家を出たということは、離婚したのだろう。
「そうか、葵ちゃんも優しいね」
「だって、お母さんの子だもん」
思わず、葵ちゃんの手を見つめた。この小さい手が懸命に里緒さんを撫でる様子を想像したら、俺まで泣きそうだった。きっと、里緒さんもこの手の感触で涙がよけい止まらなかったに違いない。
だが、感傷に浸る俺をよそに、葵ちゃんはけろりとしてこう言った。
「あのね、憲史君ってお母さんが好きな芸能人に似てるから、きっとタイプだよ」
「え? あぁ、ありがとう」
虚を突かれ、思わずとんちんかんな返事をしてしまった。
そのとき、里緒さんが「すみませんでした」と戻ってきた。
「葵、なんのお話をしてたの?」
「内緒よ。ねっ、憲史君」
そう言って、葵ちゃんは俺に目配せをしてきた。さっきの里緒さんが泣いていた話の無言の口止めなのだろう。こういう器用なところは歳が幾つでも女は女なんだな、と妙に感心する。
それからデザートを楽しみ、車で里緒さんたちを送っていった。
彼女たちが暮らすのは商店街からほど近くにある閑静な住宅街にあるアパートだった。
「今日はありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。それじゃ、また。葵ちゃんもまたね」
「ばいばい!」
元気いっぱい手を振る姿に微笑み、アクセルを踏む。
さっきまで賑やかだった車中がしんと静まりかえり、寂しささえ感じた。
離婚し、女手一つで子どもを育てるために家事も仕事もこなす彼女が強く思えた。けれど、強いと思うと同時に、脆さもむき出しになっている気がしてならない。
葵ちゃんの知らないところでもっと泣いているんだと思う。けれど、あの細い体で懸命に歩いているのは、子どもを想う故なんだろう。
「母は強し、かぁ」
思わず呟き、ハンドルを指でトン、と叩いた。
信号待ちをしながら、ふと頭の中に美月さんが浮かんだ。里緒さんと似ている。そう気づいたからだ。
寂しがり屋で弱いくせに、強がりだった美月さんも、仕事を離れると泣き虫だった。俺のアパートに来て、理由も言わずずっと泣いていたこともある。そういうとき、俺は何も訊かず、彼女の頭を撫でていた。
そんな自分と葵ちゃんが重なって見えたことで、あの頃の美月さんが求めていたものは、本当は男じゃなかったと、今になって気づいた。
美月さんのお腹は大きくなってきただろうか。子どもの性別はわかったのかな。いつか子どもが生まれたとき、里緒さんのように母性の滲む、いつもとは違う顔を持つんだろうか。
この日は葵ちゃんの話が中心で、里緒さんのことは他には何も知ることができなかった。いつ離婚したのか知らないが、彼女は今でも泣くことがあるんだろうかと考えた。
娘が寝静まった後で、こっそり泣いている姿を想像すると、胸が締め付けられるようだ。もし泣き濡れる夜があるなら、そんなとき里緒さんは何を求めているんだろう。
亮の目は鋭かった。その日から、俺の心の隙間に里緒さんが入り込んでしまったからだ。
俺って、守ってあげたい人に弱いんだ。初めて、そう知った。
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