第2章 商店街の人びと
商店街へ
翌朝、目が覚めると頭が重く、ひどくだるかった。
「飲みすぎたな」
いつもよりハイペースで飲んだことをひたすら後悔した。美月さんの話なんかしたせいか、いろんなことを思い出して、やるせなくなったせいだ。
「気持ち悪いし、頭も痛いし、最悪だな」
布団の中で呻いていると、部屋にノックの音が鳴ったと同時に母親が入ってきた。
「返事する前に入ってきたらノックの意味がないと思うんだけど」
俺の文句を華麗にスルーし、母親がメモを突き出した。
「お使い行ってきて」
「俺は小学生かよ」
「パンがないのよ。この家でパンを食べるのはあんただけなんだから、自分で買ってきて」
両親は揃ってパンより米派だ。なのに、息子の俺は、朝にパンを食べないと気が済まない。
「それとお父さんがね、商店街の役員のところに、これを届けてくれだって」
差し出された茶封筒には、『正誤表』と書かれた印刷物が五枚入っていた。
「何これ?」
「商店街の理事会の資料に訂正があったんじゃないの? お母さんは詳しく知らないけど」
そういえば、うちの父親も亮と同じく商店街の役員をしていた。役職までは知らないが、ずいぶん長いこと任されていたはずだ。あの父親の性格では、他に誰もやる人がいないから押しつけられているんじゃないかという気もする。
正誤表の右隅には、鉛筆で名前が記してあった。その中に『吉川』という名前を見つけ、「ちょうどいいや」と呟いた。吉川というのは、パン屋の店主なのだ。
二日酔いで朝食をとる気分にもなれず、身支度を調えて家を出た。
正誤表を届ける先には亮も含まれていたが、最後に回して真っ先にパン屋を目指した。人がいない商店街にあるくせに、あそこのカレーパンは特に絶品で、早いうちに売り切れてしまうのだ。
商店街は今日も閑散としていた。亮の話では、午前中にシャッターが目立つのは空き店舗が増えただけでなく、夜から開店する居酒屋が増えているせいもあるそうだ。なんだか雪が積もる音すら響くんじゃないかと思えるほど、静かだ。
雪道に足をとられながら進んでいると、島本花店が見えてきた。ここが第一の正誤表の届け先だ。
「憲史君? やぁ、懐かしいな」
店先でバラを補充していた店主の和孝さんがにこやかに手を振ってくれた。
「どうも、お久しぶりです」
お辞儀をする俺の姿が見えたのだろう、彼の妻が店から急いで出てきた。美希さんという名前で、和孝さんとは同級生だったらしい。
「噂では聞いてたけど、本当に帰ってきてたのね」
夫婦揃って、満面の笑みを浮かべている。
この二人は大恋愛の末に結婚したらしく、この辺りじゃ、おしどり夫婦として有名だった。和孝さんはいつもニコニコしていて、美希さんのほうは底抜けに明るい。悩みなんてないんじゃないだろうか。
「元気そうですね」
「まぁね、それが取り柄よ」
ケラケラと笑う彼女に、正誤表を差し出す。
「これ、親父からです」
「うん? あぁ、これね。話は聞いてるよ。ありがとね」
「じゃあ」
「あ、待って!」
美希さんは足元に並べていたミニブーケを一つ取り、俺に差し出した。
「これ、小さくて悪いけど、帰ってきた記念にどうぞ」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます」
「いいの、いいの。商店街におかえりなさい、憲史君」
青と黄緑、白を基調にしたブーケで、俺の好みだ。花の名前なんてさっぱり知らないが、白い花がガーベラだということくらいはわかった。
二人に礼をし、ブーケを手に歩き出す。花なんて柄じゃないけど、見ていると気分がいいもんだ。二日酔いの気だるさが幾分和らいだ気になった。
ところが、次の届け先である本多精肉店に着くと、忘れかけていた二日酔いを痛感した。というのも、店先からメンチカツやコロッケの香りが漂っている。いつもだったら鼻の穴を広げて思いっきり吸い込むところだけど、今日は胸焼けがした。
「あら、憲ちゃん、おはよ」
ガラスケースの向こうから、齢六十の看板娘である洋子さんが声をかけてくれた。
「おはようございます。これ、父からです」
俺が手渡した正誤表を受け取り、彼女は「ありがとね」とウィンクした。それは洋子さんの昔からの癖で、本人はにっこり笑っているつもりらしい。だが、無意識に右の口角を上げるので、ウィンクのように見えるのだ。
数十年前は華奢な美人で男関係も派手だったらしいが、今ではすっかり家庭に落ち着いて迫力のある体つきをしていた。毎日スッピンで、多少シミがあるものの、あの年齢にしては張りのある肌をしていると思う。
洋子さんの作る揚げたてのメンチカツは悶絶するほど美味いんだ。熱々はもちろん、冷めても美味しい。レタスと一緒にパンに挟んで食べるのも乙なものだ。
けれど、今日ばかりは揚げたてのメンチカツを見ないように、そそくさと歩き出した。目に焼き付けてしまうと、あとから「買ってくればよかった」と後悔してしまいそうだったからだ。
次の届け先こそ、目指すパン屋だった。吉川さんの店は知る人ぞ知る名店で、この辺りでは老舗だ。
「いらっしゃいませ」
レジにいたバイトの女の子に、「吉川さんいますか」と尋ねると、その子が返事する前に吉川さん本人が奥からすっ飛んできた。
「よう、憲坊。ずいぶん見ないうちにでかくなったな」
彼は俺のことを親しみをこめて『憲坊』と呼ぶ。多分、生まれたときからずっとだ。
「大げさですよ、何十年も会ってないわけじゃないのに。二十歳過ぎてそんなに大きくなるわけないでしょ」
「おい憲坊、お前、なんで花束なんか持って歩いてんだ? キザったらしいなぁ。一丁前にどこぞの女にプロポーズでもしに行くのか?」
「あいにく、プロポーズする相手もいませんよ。花屋の美希さんからもらったんです。帰ってきた記念だって」
「だよなぁ。まぁ、そんなことだろうと思ったよ」
吉川さんはサンタクロース顔負けの突き出た腹を揺らして、呵呵と笑った。
うちの父親とは幼馴染で、体格も性格も正反対の、よきライバルだったらしい。勉強もスポーツも散々張り合ってきたというのに、六十を目前にしていまだに将棋で競い合っている。二人は市内の将棋クラブで時折向かいあうのだ。
正誤表を渡すと、ろくに目を通すこともなく、俺にこう言ってきた。
「どうだい、久しぶりの北海道は」
「寒いですね」
率直に言うと、表のほうを見て、しんみり言った。
「うちの商店街は特に寒々しいがね。昔はたくさんの人が歩いていたもんだけど」
「父もそんなことを言いますけど、俺には想像もつきませんね」
「そうかぁ。今の若いもんは無理もないわな。そこの『ボヌール』だって、来月には撤退するんだぞ」
『ボヌール』とは、俺が中学生のときにできたスーパーだ。かつて商店街を脅かした存在も、今では虫の息らしい。
「あのスーパー、なくなっちゃうんですか。世知辛いですね」
自分はほとんど利用したこともないし、商店街にとって目の上のたんこぶだったスーパーだ。だけど、それでもショックだった。スーパーでさえ生き残れないなら、この商店街が賑わうのはもっと難しい。咄嗟に浮かんだのはそんな絶望だった。
「不景気のせいもあるんだろうけど、寂しいもんだ。昔はさ、この辺りが街の中心だったんだ。映画館もあったんだぞ」
「え、そうなんですか?」
「知らないだろ。テレビが普及する前だからな」
いつの時代だろう。ぽかんとすると、吉川さんが苦笑した。
「お前、駅前を見たか?」
「あ、はい。帰ってきたときに」
高瀬駅はこの商店街から徒歩十五分くらいのところにある。昔はあの辺りには何もなかったが、この六年の間に大型百貨店や全国チェーンの店舗が並んでいて驚いた。
「向こうに人が集まるようになってな、この頃はすっかり駅が街の中心になって苦労するよ」
なるほど、それでますます商店街が寂れていたわけだ。
「ところで吉川さん、今日はカレーパンあります?」
この人はうまく話をすり替えないと、延々喋り続ける。それをよく知る俺は、いそいそとトレイを手にした。
「うん? あぁ、あるぞ」
「じゃ、いただいていきます」
「お、ありがとな。お前の親父は『パンなんぞスカスカで食った気がしねぇ』とかぬかすが、憲坊は昔っからうちのパンを好いてくれて、嬉しいよ」
父親が頑なに米にこだわるのは、吉川さんと散々張り合った結果、素直に食べる気になれないのかもしれない。
店を一周すると、俺のトレイはカレーパン、クロワッサン、フランスパン、そして食パンで一杯になった。
「吉川さんのカレーパンは絶品ですよね」
「はっはっは、褒めてもなんも出ないぞ」
そんなつもりで言ったんじゃないが、吉川さんは言葉とは裏腹に、レーズンとくるみのパンをそっとサービスしてくれた。
「あの正誤表、あとはどこに届けるんだ?」
「えっと、大野さんと亮のところでおしまいです」
「そうか、お疲れさん。大野さんに会ったら、休憩時間にナポリタン食いに行くって伝えてくれ」
「わかりました」
「知ってるか? あそこの鉄板に乗ったナポリタンは最高だぞ」
「へぇ」
「それじゃあ、よろしくな」
パンをサービスしてくれたことに礼を言い、俺は店を出た。
届け先の中で、うちの店から一番遠いところにあるのが、大野さんの経営する喫茶店だ。ビルの二階にあり、商店街を見下ろせるレトロな純喫茶だった。
狭くて急な階段を上がって扉を開けると、呼び鈴の軽やかな音色が響いた。
「いらっしゃいませ」
そう言って顔を上げた大野さんは、俺を見るなりただでさえ細い目をもっと糸のようにさせて微笑んだ。
「やぁ、憲史君か。元気だったかい?」
「おかげさまで。お久しぶりです」
大野さんは髪も口ひげも真っ白な老紳士だ。物腰柔らかで、ゆったりと話すのは昔から変わらない。
正誤表を渡すと、「ありがとうね」と礼を言い、窓際の席を手で示した。
「せっかくだから、何かご馳走しよう。いつもの席にお座りよ」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。何がいい? クリームソーダ?」
あまりの懐かしさに頬が緩んでしまった。
子どもの頃、連休になるとクラスメイトが遊園地や映画、旅行を楽しんでいるというのに、父親が店から離れない我が家では、どこにも遠出したことがなかった。
母親はそんな俺を不憫に思っていたらしく、夏休みと冬休みに、この喫茶店に俺を連れてきて好きなものを飲ませてくれた。そして俺が頼むのは、決まってクリームソーダだった。
高校生になると、母親とではなく亮や英知とここに来ていたが、彼らがコーヒーを頼む中で、俺だけは必ずクリームソーダを頼んでいた。
「懐かしいなぁ」
しかし、あいにくの二日酔いでクリームソーダより味噌汁のほうが恋しい。もしくはもっと爽やかなやつだ。
「あの、クリームソーダじゃなくて、レモンスカッシュでもいいですか?」
それはクリームソーダに目を輝かせる俺の向かいで、母親がいつも飲んでいたものだった。大野さんもそれを覚えていたらしく、「やっぱり親子だな。好みが似てるね」と、笑った。
窓際の席に腰を落ち着けると、赤いビロードのふかふかした感触が昔のままでなんだか嬉しかった。
さっき吉川さんとあんな話をしたせいか、窓から見える商店街はなんだか灰色に見えた。シャッターとアスファルトの色がやけに目がつくからかもしれない。店内にはチャイコフスキーの『花のワルツ』が優雅に流れていたが、ちっとも軽やかな気分にはなれなかった。
「お待たせしました」
大野さんがレモンスカッシュを置いて、俺の真向かいに浅く腰を下ろした。他に客もいないせいだろう。
「いただきます」
ストローをさして吸い上げると、炭酸の刺激が喉を駆け抜け、レモンの香りが口いっぱいに広がる。思わず「はぁ」と、気の抜けた声が漏れた。
「五臓六腑に染み渡りますね」
「なんだかお酒の感想みたいだね」
「二日酔いなんですよ」
大野さんはふふっと穏やかに笑う。
「亮君と英知君と飲んだのかい?」
「はい」
「君たち三人が学生服でいつも一緒に楽しそうにしていたのを思い出すよ。憲史君が東京に行っている間、やっぱり三人揃わないと寂しい気がしたもんだ」
そう言ってもらえると、なんだか嬉しい。思わず口元が緩んでしまい、慌てて唇を噛んだ。だって、照れくさいじゃないか。
すると、大野さんが「へぇ」と目を丸くした。
「憲史君はお父さんに似てきたね。お母さん似かなと思ってたけど」
「え、なに?」
「今の、お父さんにそっくり。親子で変なところが似たね」
今のって何だろう? そんなことを言われても、自分じゃよくわからない。大野さんはきょとんとした俺に微笑んだ。
「お父さんは商店街の役員をよくやってくれてるよ。本当に助かってるんだ」
そう言って、彼は窓の外に目をやった。
「今の商店街は、役員の活動もなかなか難しいんだよ。人もいないけど、店も集まらなくてね、空き店舗に助成金があるくらいだ」
「助成金?」
「そう、市と商工会議所が連携してね」
「へぇ」
「どうだい、憲史君も何か店を開業してみたら?」
「えぇ? 俺、なんもできないっすよ」
「東京ではカメラマンだったんだっけ? お父さんは頼もしい後継を持ったな」
「いや、まだ先のことは考えてないんですけど」
「そうなの? じゃあ、こっちでは別の仕事を?」
「いや、まぁ、まだわからないですけど」
なんとも情けない返事しかできない。
「できればカメラマンの仕事はしたいけど、うちには父親がいるし、求人も高瀬市ではないんですよ。札幌まで行けばあるけど」
そこで言葉を切り、思わず口ごもった。自分が『けど』ばっかり言ってると気づき、顔が赤くなる。そして最後の『けど』は蚊の鳴くような声で口にした。
「けど、もう少しここにいたいんです」
どんなに寂れても、どんなに悲しい別れや変化があっても、俺はこの商店街が名残惜しい。新しい何かを始める前に、もう少しこのままで懐かしさに浸っていたい。そう思ったが、口にするのはとてもじゃないが恥ずかしかった。そのまま黙りこくっていると、大野さんが「そうか」と深く頷いた。
「僕としてはせっかく高瀬に戻ってきたんだから、この商店街にずっといてほしいけどね。若い人の姿が見えるだけで、なんだか嬉しいから」
「そういうもんですか」
「そういうもんさ」
俺はレモンスカッシュを飲み干すと、吉川さんがナポリタンを食べに来るという伝言を済まし、店を出た。
階段を降りて商店街に立つ。なんだか誰もいない通路がやけにがらんとして見えた。
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