ほろ苦いビール
店じまいをした亮と一緒に出かけたのは、八時を過ぎた頃だった。
高瀬市の飲屋街は新陽通り商店街から歩いて五分という場所にある。
英知の店で飲むのは、この日で二度目。東京から戻ってきたとき三人で飲んだのは、彼の店だったからだ。いわゆるオーセンティックなバーというやつで、中通りのビルの二階にある。立地的には目立たないけれどセンスがいい、隠れ家的な印象だ。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれた英知は、白いワイシャツに黒いベストと蝶ネクタイ、サロン、そして革靴という、いかにもバーテンダーらしいいでたちだった。いつもはセットなんかしない髪も、ワックスで整えられている。
彼の店はこぢんまりとしていて、七人ほどが座れるL字型のカウンターと、テーブル席が一つあるだけ。内装は白い塗り壁と木材の色合いが調和して、落ち着いた雰囲気だ。
「よう、景気はどうだ」
亮が湯気の立つおしぼりで手を拭きながら言う。英知は冗談めかして答えた。
「正直、よくはないかな。だから、たくさん飲んでいってね」
すると、亮が俺の肩にぽん、と手を置いた。
「だってよ。今日はたらふく飲め」
「お前んとこのバイト代しか収入がないんだぞ、俺は」
「大丈夫、今日は俺のおごりだ」
英知が言葉にはしなかったが、『おや』という顔をした。俺も思わず眉根を寄せる。
「おい、亮」
「うん?」
「お前、俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
「なんでわかるの?」
亮はぎょっとしているが、カウンターの向こうでは、英知が肩を揺らして笑っていた。
亮が誰かにおごるときは、わざわざ「おごりだ」なんて口に出さない。いつも、気づかれないようにさりげなく会計を済ませておくんだ。
それなのに、こうして宣言するっていうことは、俺に申し訳ないという気持ちや、お願いしたいことがあって、あとから「だから、あのときおごって機嫌取りしたのか」と思われたくないからだ。前回こうしておごられたときは、俺が貸した服にコーヒーのシミを作ったんだっけ。
「あのな、何年の付き合いだと思ってんだ」
とりあえずビールで乾杯し、一息ついたところで亮が切り出す。
「しょうがない、白状しよう」
「うん」
「バイトが一人見つかってな、来週からは土日だけの勤務でもいいか?」
正直に言うと、少し残念だった。書店の仕事は単調だけど、嫌いじゃない。それに、週に二日の勤務では収入が心もとなかった。
けれど、バイトが見つかったのは喜ばしいことだし、土日だけでも雇い続けてくれるんだから、感謝こそすれ文句など言えるわけがない。
「もちろんだよ。バイトが見つかってよかったじゃないか」
なるべく明るい声で言いながら、笑みを浮かべて見せた。
「それに、もともと、新しいバイトが決まるまでって話だったじゃないか」
「うん、でも急な話で申し訳なくてさ」
「そんな気を遣うなよ。雇ってくれるだけでありがたいんだから。それより、どんな人なんだ?」
「女の人だよ。歳は俺らより四つ上かな」
「へえ」
そこで会話が途切れた。俺が「で?」と続きを促すと、亮がきょとんとする。
「で? って、何が?」
「それだけ? 他には?」
「あぁ、そうだな。真面目そうで、柔らかい雰囲気で、お前の好みのタイプだ」
「マジか。独身か?」
「そうらしいな」
一瞬わくわくしたが、すぐに「いや、期待しない」と肩を落とした。
英知が首を傾げる。
「憲史、どうしたの?」
「女はしばらくいい。懲りた」
美月さんの顔が、グラスに映って消えた。スタジオを辞めるとき、彼女は残念そうな顔をした。俺がスタジオを離れることを惜しいと思ってくれたのか、それとも失恋程度で故郷に逃げ帰る俺を残念に思ったのか。それを確かめる勇気もなかった。
まだ彼女の声が恋しい。最初から俺の手の中にはいなかった人だ。だけど、それでも、あの肌の温もりを失った虚しさは俺の胸に残っていた。
三人で飲んだとき、俺は亮と英知に美月さんとの不倫を話していた。二人はすぐにそのことに思い当たったらしい。英知は「あぁ」と呟き、亮のほうは「しょうがない奴だな」と、眉をしかめた。
「新しい恋が一番手っ取り早いと思うんだがな」
肩をすくめる亮を軽く睨む。
「他人事だからそんなこと言えるんだ。そんな簡単に割り切れない程度には好きだったんだよ。そういうお前は、俺が東京に行っている間、浮いた話の一つもなかったのか」
「そうだなぁ、ないなぁ」
「なんだよ、じゃあ英知は?」
「僕もないなぁ」
のらりくらりとかわされ、思わず唇を尖らせた。
「なんか、俺一人で話題提供して損した気分」
思えば学生時代から、二人とも恋愛の話は滅多にしない。誰かと付き合っても、馴れ初めや惚気話を自分から話そうとしないんだ。秘密主義というか、なんでも話してしまう俺とは対照的だった。
「なぁ、亮はどんな女がいいんだ?」
「そうだなぁ、V・I・ウォーショースキーみたいな女なら抱きたいな」
亮は愛用の手巻き煙草を手に、惚けるように呟いた。
「誰だ、それ?」
「いい女だぜ」
「ふぅん。ハリウッド女優?」
「いや、もっと手が届かない」
そこで英知が小さく笑って口を挟んだ。
「煙草嫌いだもんね、彼女」
亮がにやりとし、紫煙を吐いた。六年前は覚えたてだった煙草も、今ではすっかり慣れた手つきで燻らせている。
「じゃ、ダメじゃん」
「まぁ、俺のことよりお前は自分のことを考えてろ」
「そうするよ」
「平日のバイトから解放されるんだから、ハローワークにも通いやすくなるだろ」
ぐっと言葉に詰まる。今まで亮のバイトを言い訳にして職探しを怠けていたんだ。
でも、生活や貯金のことを考えると、そうは言ってられない。
わかっちゃいる。なんとかしなきゃって焦りだけが増していく。けれど、新しいステップに踏み出す勇気が持てない。
そのとき、英知がこう切り出した。
「それじゃあ、今度は僕の店でバイトしない?」
「え?」
「平日の夜、週に三日くらい来てくれるとこっちも助かるんだ」
「でも、この前飲んだとき、この店を切り盛りするのに一人で十分って言ってたのに。それに俺、カクテルなんて作れないしさ、足手まといになるだろ」
同情されたのだろうか。そう思った途端、情けなくなった。しかし、英知はそんな俺を見透かしたようで、慌てて「いやいや」と首を振った。
「実は僕、手荒れがひどくなっちゃってね。洗い物だけでもしてくれると助かるんだ。それに、忙しい時間帯はお通しを出したり、お客さんの相手をしてくれるだけでありがたいんだ」
そして、こう続ける。
「もっとも、そんなに賃金は出せないけど、就職活動にもお金はかかるでしょ?」
「お、おう。じゃ、お願いするよ」
「よかった。よろしくね」
英知はどことなくホッとした顔で笑う。すると、亮が俺のほうを見て、苦笑した。
「憲史は写真館を継がないのか?」
「まだ考えてないよ。親父は現役だし。第一、家を出て好き勝手してたのに、戻ったからってすぐ手伝いをするのも虫がいいだろ」
反抗していた過去がある分、余計に素直になれない。
「そうか。でもさ、そろそろ店を手伝ってもいいと思うけどね。お前だっていつかは継ごうって考えがあるから、東京でカメラマンになったんだろ?」
俺は飲みかけたビールをカウンターに置き、小さなため息を漏らした。
「本当のこと言うとさ、その気はなかったんだ」
「じゃあ、なんで写真の仕事にしたんだよ」
「実家が写真館ですって言ったら、採用されやすいかなって思って」
「それだけ?」
亮が呆れ顔になった。
「そう、それだけ。で、美月さんが採用してくれて、カメラって結構面白いって知ったの」
英知が「へぇ」と眉を上げた。
「憲史、東京でどんな写真撮ってたの?」
「どんなって、普通の記念写真だよ」
亮が煙草の灰を落としながら口を開いた。
「画像、ないの? 俺も見たいな」
「あぁ、何枚かある」
携帯電話を取り出し、美月さんのスタジオのホームページを検索した。トップページには許可をくれたお客さんの写真が掲載されていて、その中には俺が撮ったものもあるんだ。
「これと、これ。あと、この写真も俺が撮ったやつ」
電話を渡して見せると、亮と英知が画面を覗きこんで「へぇ」とか「おお」とか、声を漏らしている。入学や結婚の記念写真で、お客さんはもちろん、美月さんも気に入ってくれた出来栄えの作品だった。
亮はしばらく食い入るように見ていたが、そのうち何やら電話を操作し出した。
「お、この写真、いいね。これ誰?」
慌てて画面を見ると、オムライスの皿を手に笑っている美月さんが映っていた。細面に長いストレートの黒髪で、薄化粧を好む人だった。
「お前、人のカメラロール、勝手に見るなよ!」
慌てて亮の手から携帯電話を取り返そうとしたが、手で制された。英知がカウンターの向こうから画面を見て、「綺麗な人だね。誰?」と微笑む。
「うるせぇな。これが美月さんだよ」
亮がしげしげと美月さんの画像を見つめている。
「へぇ、なるほど、こりゃ美人だ。でもさ、このオムライス、彼女が作ったの? すごいぐしゃぐしゃなんだけど。見かけによらずワイルドだな」
「悪かったな、俺が作ったんだよ」
「お前が? 料理を? チャーハンも作れなかったのに?」
目を丸くした亮を、軽く睨んだ。
「一人で六年も暮らせば、それくらい作れるようになるだろ」
「ぐしゃぐしゃだけどな」
「うるせぇ」
すると、英知がなだめるようにフォローを入れた。
「でもさ、すごくいい笑顔だよね」
そうさ。悔しいくらい、すごくいい笑顔なんだ。だから振られても画像を削除できずにいる。
しんみりとした気分になって、思わず俯いた。
「美月さんって仕事はできるけど手先は不器用でさ」
壊れた蛇口から水が漏れるように、力なく言葉が出てきた。
「どっちがまともな料理を作れるかって話になって、彼女にオムライスを作ったんだ。見ての通り失敗したけど、美味しいって食べてくれた」
卵は裂けてチキンライスが丸見えだし、味も塩辛くなった。玉ねぎは生だった。
『ほら、絶対私のほうが綺麗に作れるって』
美月さんは俺をからかったあとで、へなちょこオムライスを綺麗に平らげた。
『私、あなたの料理、好きよ』
そう言ってスプーンを置き、優しいキスをくれた。
『あなたが一生懸命なところを見るのが好きだから』
その瞬間、俺は本当の意味で恋に落ちた。最低な話だけど、最初はゲーム感覚だったんだ。
残業が続くと、彼女は俺を食事に連れ出してくれていた。一人暮らしの俺を気遣ってくれたんだと思う。
けど、二人で食事に行くごとに、美月さんは、俺の前で無防備に笑うようになった。会社でも見たことのない、安心しきった顔だった。そしていつしか、彼女の夫婦仲が冷めていると知った。
もしかして、俺のほうが美月さんをたくさん笑顔にできるんじゃないか。そう思うと、彼女が欲しくてたまらなくなった。
だから、俺から仕掛けた。
レストランからの帰り道だった。並んで歩いているとき、わざと立ち止まった。彼女がきょとんとして歩みを止めたところを抱き寄せ、キスをした。美月さんは抵抗せず、ゆっくりと俺の背に手を回した。それが始まりだった。
いつか夫のもとを去って、俺を選んでくれるだろうか。そんな賭けにも似たゲームをしているつもりだった。それなのに、終わってみたら俺の完敗だ。
そう話すと、英知が呆れ顔で言う。
「そういえば、憲史は昔からそういうところがあったね。学校のテストもゲーム感覚だったし。試験範囲から問題を作る教師の心理を読むゲームだって言ってたな」
そう、そんな俺は学校の成績はよかった。けれど実際はやることがバカだし、今では勉強の中身なんて何も覚えてない。
この性格は、真剣に向き合わなければならないものほど茶化してしまう。だから何もこの手に残らない。
「俺、美月さんからたくさん『初めて』をもらったんだ」
今まで付き合ってきた女は、全部向こうから告白してきた。自分が望んだ相手と付き合えたのは、美月さんが初めてだった。それに、初めて尊敬した人だった。写真の魅力を教えてくれた。俺の料理を「美味しい」と完食してくれた。寝顔を愛おしいと思った。いろんな『初めて』をくれた人だった。
「だからかなぁ。しんどいな」
自ら欲して、一度は手にしたものが滑り抜けていく。その寂しさと虚無に視界がぼやけて、慌てて唇を噛んだ。
亮がため息まじりに言った。
「いつになく感傷的だな」
そりゃそうだ。だって、北海道に戻ってきた俺を待っていたのは感傷的なものばかり。
老いた父の後ろ姿。生まれ育った商店街の寂れた様子。大事なことは何も見えず、友達に助けられてばかりの情けない自分。
この日のビールはいつも以上にほろ苦かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます