第1章 感傷的な帰郷
故郷の今
「憲史、いつまで寝てるの!」
勢いよく布団を剥ぎ取られて飛び起き、あまりの寒さに身震いした。目の前には母親が鬼の形相で立っている。
「何すんだよ」
「何すんだよじゃないよ、起きな!」
彼女は北海道弁丸出しの早口で「もう十時だべさ。お父さん出かけるから店番よろしくって言ってたしょ」と、文句を言いながらカーテンを開ける。
一気に差し込んだ眩しさに目を細めていたが、思わず「げぇ」と声が漏れた。窓の外には一晩で積もった雪がこんもりとしていた。
「なんだよ、これ。何センチ積もったんだ?」
「二十センチくらいじゃない? 早く雪かきして。したっけ、お母さんたち出かけてくるから」
「俺一人で雪かきかよ。どこ行くんだよ」
「文句言うなら食費くらい払いなさいよ」
ぴしゃりと言い放ち、母親は行き先を告げないまま出て行った。
大きなため息を漏らしてから、ピーナッツバターを塗ったトーストで腹ごしらえをし、ダウンコートに手袋、長靴という装備で雪かきを始める。スコップを手にするなんて六年ぶりだが、幸い雪は軽くて楽だった。
周囲が順調に片付いてきた頃、俺はふと『甲斐写真館』と書かれた店の看板を仰ぎ見た。端には小さな氷柱がぶら下がっている。
「帰ってきたんだなぁ」
実家のある北海道高瀬市に戻ってもう一ヶ月もたつのに、いまだにそんなことを思う。二月が一番雪の多い時期だって忘れていたくらいには、北海道から離れていたんだから。
高瀬市は札幌市近郊にある街だ。残念なことに特に名物もないし、知名度もない。札幌市にほど近く、自衛隊の駐屯地や工業団地があるものの、賑わいには乏しいベッドタウンという印象だ。
俺の実家は写真館で、高瀬市の新陽通り商店街にある。祖父の代から続く店のショーウィンドウには見知らぬ家族の記念写真がたくさん飾ってあった。写真の現像やフィルム、アルバムなどの販売、依頼があれば証明写真や記念写真を撮るのが仕事だ。年賀状プリントなんかもしている。
父親の代になって、もともと地味だった写真館はますます寂れてしまったように思う。そりゃそうだ、わざわざ写真館に来なくても写真はデータで管理し、自分でプリントできちゃうデジタル化のご時世なんだから。
それでも彼はかたつむりのようにのんびり構え、店を守っている。
「親父、どこに行ったんだろ?」
思わずぼやいたのは、父親が店を抜け出すなんて滅多にないことだからだ。
「本当、親父は何考えてんだか」
早口で勝気な母親と対照的に、父親は無口でおっとりしている。定休日だって黙々と趣味の将棋を楽しみ、将棋以外の用事で外出することはあまりない。
年明けに俺が実家に戻ってきたとき、「今まで東京で何をやってきたんだ」だの「これからどうすんの」と母親がひとしきり騒ぎ立てたあとで、父親はぽつりとこう言った。
「お疲れさん」
それを聞いた母親はぐっと押し黙り、これ見よがしにため息をついて言った。
「さっさと新しい仕事見つけなさいね」
その瞬間、今まで尻に敷かれていると思っていた父親が、実は母親より強いことに、この歳になって初めて気づいた。
美月さんの嘘を見抜けなかった俺は、単なる間抜けじゃない。表情や言葉の裏に隠されたものに気づかない、相手に向き合えない自己中心的な間抜けだ。だって、自分の家族のことすら何も見えていないんだから。
正直なところ、俺が家を出たのは、父親のようになりたくなかったからだ。この写真館が時代に取り残されて廃れていくのをただ待つようで、日々カウンターに座るだけの彼が情けなかった。母親の後ろでじっとしている猫背の冴えない様子を見下していたことは口には出さないものの、反抗期になると態度に出ていたから、本人も気づいていただろう。
なのに、俺を迎え入れてくれたのはほかならぬ父親だった。そのことで俺は本当に情けないのは自分だったと気づき、恥ずかしくてたまらなかった。
俺に「お疲れさん」と言った彼は、馬鹿にするわけでもなく、慰めるわけでもなかった。ただ、そこには労わりだけがあったんだ。
この六年間、父親は俺をどんな風に思い出していたんだろう。そんなことを考えてやるせなくなったときだった。
「憲史!」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、はす向かいの店舗から一人の男が歩いてきた。
奥田書店の店主で幼馴染の奥田亮だった。涼しげな目に黒縁眼鏡をかけ、細身ながら筋肉質なのは六年前と変わっていない。俺と同い年で、保育園から高校まで一緒だった腐れ縁だ。
「おはよう」
眼鏡の奥でかすかに微笑み、亮がうっすら伸びたヒゲをこする。
「相変わらず朝弱いな。まだ雪かきしてたのか」
「お前だって寝坊したんだろ?」
「なんでだよ、とっくに店を開けてるよ」
「そのツラでか。ヒゲを剃れ、ヒゲを。配達があるのに、無精髭で行く奴がいるか。お前は昔からそういうところに無頓着すぎる」
「はいはい、相変わらずそういうところは几帳面だな」
この商店街ではほとんどの店が、住居を別の場所に構えている。けれど、俺や亮の家はいわゆる店舗併用住宅で、物心ついたときから商店街で遊んだり一緒に登校するのは、俺たちにとって自然なことだった。
東京に行くとき、彼は「おう、いってらっしゃい」とだけ言った。そして帰ってきたときの第一声は、やはり同じように淡々とした「おう、おかえり」だった。そういうところが、少し俺の父親に似ている。
亮は昔から冷静で、声を荒らげることもない。けれど、実際は熱い性格で、友達想いの男だ。
そんな彼は、帰ってきた俺にこんな助け舟を出した。
「仕事見つかるまで、うちで店番のバイトしない? この前、急にバイトさんが辞めちゃってさ。せめて俺が配達に行って、事務仕事を片付ける間だけでいいんだ」
俺は二つ返事で引き受け、午後の一時から五時まで幼馴染に雇われることになったのだ。
カメラマンの仕事なんて、この街ではなかなか見つからない。
かといって、何もしないでいると両親にあわせる顔もないし、「このままでいいのか」という不安や焦りに押し潰されそうだったから、亮の誘いは内心嬉しかった。持つべきものは友だ。
「それよりさ、今日のバイト、ちょっと遅れるかも」
「どうした? なんかあった?」
「親父が出かけてて店番しなきゃいけないんだけど、何時に帰ってくるか聞き忘れちゃって」
「へぇ、珍しい」と、亮も父親の出不精をよく知っているだけに、意外そうだ。
「しょうがないな。親父さんが戻ってきてからでいいよ」
そう言って、彼は「あれっ」と目を丸くした。
「もう帰ってきたじゃん」
彼が顎で示した先を見ると、父親が一人、こちらに歩いてくるところだった。
「親父、もう帰ってきたの?」
俺が尋ねると、彼は首を横に振った。
「お前にこれを渡し忘れたんだ」
彼が差し出したのは、小さな鍵だった。
「なにこれ?」
「店のレジの鍵。これがなきゃ店が開けられんだろ」
「あぁ。親父、何時に戻るんだ?」
「わからん」
「それじゃ困るよ。亮んとこの店番もあるんだから」
「昼までには母さんだけでも戻ることにするよ。じゃ、向こうで母さんが車で待ってるから」
無愛想な父親はほとんど表情を変えずに話し終えると、亮に「よう」と声をかけて、踵を返した。
見慣れているはずの猫背に、ぎくりとし、思わず手の中の鍵を握りしめてしまった。
「なぁ、亮」
「うん?」
「うちの親父って、あんなに小さかったっけ?」
半ば呆然として呟く。もともと食べても太れない体質で痩せていたが、なんだかこの六年の間にますます縮んでしまったように思う。まるで鶏ガラが歩いているみたいだ。その足取りも危なっかしい。
すると、亮が小さく微笑んだ。
「お前の親父さんは、体は小さくてもでっかい人だぜ」
「でっかい?」
「お前は気づいてないだろうけどな。本当、お前は昔から鈍いんだ」
以前の俺ならムッとしていたかもしれないが、今は何も口答えする気になれなかった。亮はそんな俺の肩をぽんと叩く。
「まぁ、とにかく今日もよろしくな」
「あ、あぁ」
亮はさっさと店に向かって歩いていく。軒先には『奥田書店』という文字の入ったワゴンが横づけされていた。亮の愛車であり、配達の相棒だ。もっとも、彼が大きな車に乗るのは配達のためだけではなく、チェロを運ぶからだった。
亮はスポーツが好きそうな外見なのに、根っからのインドア派で休みの日は読書をするか手巻き煙草を吸うか、チェロを弾いている。
彼の父親は長年、地元の交響楽団でヴァイオリンを弾いていた。その影響でチェロを始めたように記憶している。今では亮も交響楽団の団員だ。
けれど、亮の父親は俺たちが高校生のときに事故で死んでしまった。それで、亮は高校卒業と同時に書店を継いだんだ。
勉強せずに読書ばかりしていた彼は、理系はからきしでも古典や英語が得意だった。彼にそのつもりがあれば大学にも進学できたはずだ。
東京に行く前、俺は彼に言った。
「お前は、この商店街から出てみたいと思ったことはないのか?」
今思えば、酷なことを訊いたものだ。出て行きたくても、亮の優しい性格なら、母親を置いていけるはずもない。
あのときは単に不思議だったんだ。そして、少し苛立ちのようなものもあった。
だって、亮は俺より体格もよく、才気もある。その気になればなんでも手に入る男なのに、どうして俺の父親のように何もしないんだともどかしく思っていた。
けれど、彼は静かにこう言ったんだ。
「しょうがないさ。ここが俺の居場所だって思うのに、どこに行けっていうんだよ」
それを聞いて、ますますもどかしさを覚えたものの、何も言えなかった。将来の夢も目標もなく、でも何か大きなことをやり遂げなきゃと焦っている間に、いつの間にか彼は俺が欲しいものを見つけていたんだ。今思えば、あのとき募った苛立ちは嫉妬だったかもしれない。
東京から戻ってきた俺は、去年の秋に亮の母親が他界したことを初めて知った。俺が呑気に美月さんと不倫なんかしている頃、一人っ子の彼は天涯孤独の身になっていたわけだ。
「どうして黙ってたんだよ」
悲しみ半分、怒り半分の俺に、彼は眉を下げた。
「だって、話したってどうしようもないし、お前、泣くから。それに仕事を放り投げてでも帰ってくるって言い出すと思って」
「泣いて悪いかよ、帰ってきて悪いかよ、当たり前だろ!」
亮の母親はあったかい人だった。いつも俺を『憲ちゃん』と呼んで可愛がってくれたものだ。両親に叱られて家を飛び出すたび、頭を撫でて慰めてくれた。そして俺の味方をしつつも、最後にはうまく仲裁してくれた。働き者で朗らかで、笑った顔しか思い出せない。俺はそんな彼女が大好きだった。
「くそ、おばさんの葬式にも出れなかったじゃねぇかよ」
位牌に向かってぼろぼろと涙をこぼし悪態をつく俺に、彼は「ほら、やっぱり泣いた」と、鼻をこすって苦笑した。
「しょうがないさ。誰もがいつかは必ず死ぬんだ」
彼の口癖は『しょうがない』だが、このときばかりは切なく響いた。だって亮が鼻をこするのは、泣くのを我慢している子どもの頃からの癖だって知っていたから。
スコップを雪山に突き刺すと、書店の自動ドアの向こうに本を整理している亮の後ろ姿が見えた。書店の経営だって、そんなに楽じゃないはずだ。なのに俺の面倒を快くみようとするあたり、彼らしい。
それにひきかえ、俺は何をしてるんだ。そう考えた途端、虚しさがじわっと押し寄せた。
それを振り切るように家に入ると、着替えてから店を開けた。シャッターが開いた店内は、光が差し込んだにもかかわらず、しんと静まりかえって薄暗く、寒々しい。
カウンターの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと商店街の通路を眺めた。親父の話では、この商店街も人でごった返していた時代があったらしい。けれど、俺には想像もできない光景だ。
中校生の頃、商店街の先にスーパーができ、ただでさえ少なかった人通りは一気にまばらになった。値段や品揃えで太刀打ちできるわけもなく、経営が悪化し、店を閉める人も出てきていた。
そして東京から戻ってきたとき、久し振りに見た商店街は、驚くほど寂れて見えた。学生時代よりも空き店舗が目立ち、歩いている人はおろか野良猫一匹いる気配がない。これじゃまるで『新陽通り商店街』というより『斜陽通り商店街』だ。
でも、いつかはこんな風に閑散とするだろうってことは、子どもの頃から簡単に予想できた。だって、商店街の誰もが宣伝をするわけでもなく、ただ黙って地道に店を開けているだけ。スーパーができたからって結局はなんの対策もしなかったんだから。
なのに、誰もがことあるごとに、こんな愚痴を言っていた。
「スーパーができてからは、何をしてもダメさ。まず、人がいないんだもん」
それを耳にするたび、憤りに似た苛立ちを感じたものだ。何もしないうちから諦めていたくせに、何を言っているんだろうって。
俺はそんな無気力な商店街に染まりたくなかった。もっとも、俺だって偉そうなことを言える身分じゃない。夢も目標もない、資格もない。けれど、それより怖いのは、彼らのように諦めてばかりの人たちに慣れて世界が狭くなっていくことだったんだ。
それなのに、結局俺は何も切り開くことなく戻ってきた。ただカメラの使い方と不倫を覚えてきただけだった。
情けなくって思わずカウンターに頬杖をつくと、入り口のそばにかけられた写真が目に留まった。
「親父、まだ飾ってたんだ」
それはカワセミが羽を広げている瞬間をとらえたものだった。俺が子どもの頃からずっとそこに飾ってある。野鳥を専門に撮っているカメラマンの作品で、その人は父親の友人だった。記憶はないが、幼かった俺がこの写真をすごく気に入ったため、譲ってくれたらしい。
「この鳥みたいに、憲史君も写真館も大きく羽ばたきますように」などと言っていたそうだ。
確かにいい写真だとは思う。けれど、実際に羽ばたいたのは生活費だけで、俺も店も惨めなもんだ。ずいぶん前にそのカメラマンは亡くなってしまったが、今の俺の姿を見たらさぞかしガッカリするだろう。
「これからどうするかなぁ」
俺のぼやきは、誰もいない店内にやたらと響いて消えた。
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