Climate 2 特有気象現象で強面体育教師を懲らしめちゃえっ!
午前八時二五分頃、豊根塚高校一年三組の教室。英晴の座席に、
「ぃよう、ひではる」
彼の中学時代からの数少ない親友、鍋本朋也がほぼいつも通りの時刻に登校して来て近寄って来た。丸顔で目は細め、背丈は一六九センチと普通だが、ぽっちゃり体格な子だ。
「おはよう朋也(ともや)」
英晴は昨夕から今朝にかけての出来事のわだかまりを残しつつも、明るい声で挨拶を返してあげた。中学入学当時、朋也の出席番号は今学年同様、英晴のすぐ前だった。そのことと互いにアニメ好きだったことがきっかけで入学式の日から自然に話し合う機会が出来、お互い仲良くなったわけだ。
「朋也、智晴は俺とUSJでデートしたがってくるんだけど、朋也が代わりにしてやってくれないか?」
「ノーサンキュー。リアル妹は勘弁だ。ひではるのリアル妹、アイドル声優としても通用するくらい顔はかわいいんだが」
そんな会話を弾ませている時、
「おはよう朋也くん」
「……おっ、おはよう」
雪乃に明るい声で挨拶された朋也は思わず目を逸らしてしまった。彼は雪乃に限らず、三次元のリアルな女の子がよほど年上でもない限り苦手なのだ。かわいい女の子に話しかけられると緊張してしまうのは物心ついた頃かららしい。その性格が、彼が二次元美少女の世界にのめり込むようになった原因ではないかと英晴は推測している。
「やぁ、おはよう」
ほどなく英晴のすぐ後ろの席の男子生徒も登校してくる。英晴にとっての親友は朋也と彼くらいなものだ。
「しゅうへい、数Aと英語の宿題写させてくれへん? 分からんのばっかでほとんど白紙やねん」
朋也はにこやかな表情でお願いしてみた。
「はいはい。喜んでぇ~」
修平は快く応じ、自力で仕上げた宿題プリントを貸してあげた。
「サーンキュ」
「修平、いい加減甘やかし過ぎは良くないぞ」
こうしたやり取りを今までに数え切れないほど見て来た英晴は若干呆れ気味。同じ幼小中出身のため修平のことは昔からよく知っている。つまり雪乃にとっても古い顔馴染みというわけだ。
「今回も全部正解っぽいの埋まっとるし。おれもしゅうへいみたいな天才的頭脳が欲しいわ~。吸収っ!」
朋也は修平の頭を両サイドから強く押さえ付けた。
「あべべべ、鍋本君、痛いので止めてくれたまえええぇぇ~。僕は天才ではないですよぉん。僕でも北野とか星光とか灘とかの最上位校に進んでいたら、並以下の成績になっていたことでしょうしぃぃぃ~」
修平は首をブンブン振り動かし抵抗する。
「しゅうへい、明らかにトップ維持のためにこの高校進みやがったな。卑怯なやつめ。期末では、どれか一科目だけでも勝ってみせるぜ」
そう宣言し、朋也は手を離してあげた。修平のフルネームは北之坊修平。公立中学入学当時から今に至るまで校内テストの総合得点で学年トップを取り続けている秀才君である。坊っちゃん刈り、四角い眼鏡、丸顔。まさに絵に描いたようながり勉くんな風貌な彼は、背丈は一五六センチと高一男子にしては低く、学年男子ワーストクラスだ。
「修平くん、期末も学年トップ取れるように頑張ってね」
雪乃はほんわか顔でエールを送る。
「はっ、はいぃ。頑張りますぅ」
修平は俯き加減で緊張気味に反応した。彼も朋也ほど重症ではないが、物心ついた頃から三次元のリアルな女の子を苦手としていて、小四の頃にはすでに二次元美少女の世界にどっぷり嵌っていた。しかしながら、修平がそういった趣味を持っていることは、英晴は中一で修平と小三以来の同じクラスになるまで気付かなかったのだ。
どうしようかな?
英晴は昨日の出来事を朋也と修平には話そうかな、と思った。けれど、やはり信じてもらえるわけは無いだろうと感じ、黙っておくことに決めた。
八時半の、朝のSHR開始を告げるチャイムが鳴ってほどなく、
「皆さん、おはようございます」
クラス担任で英語科の播野先生がやって来た。背丈は一五〇センチちょっと。面長ぱっちり瞳。ほんのり栗色なミディアムボブヘア。二九歳の実年齢よりも若く見え、女子大生っぽさもまだ感じられるそんな彼女はいつも通り出席を取り、諸連絡を伝えて一時限目の授業が組まれてあるクラスへ移動していった。
このクラスの今日の一時限目は家庭科。一年生が今学習しているのは保育の分野だ。
「このページを捲ると可愛らしい厚紙工作が迫り出してくる飛び出す絵本、皆さんも幼い頃に楽しんだと思います。遊び心があって懐かしいでしょ?」
小顔でぱっちり瞳、ほんのり茶色な髪をフリルボブにし、お淑やかそうな感じの四十代女性教科担任はそれを教卓から、クラスメート達に向けて見せた。
あのぬいぐるみ、厚紙工作どころか、生身の人間になったんだけど……。
「西風君、どうかしましたか?」
「……あっ、いっ、いえ、なんでも」
英晴はロダンの『考える人』のような格好をしていたため、教科担任に心配されてしまった。英晴の席は教卓に近いため目立ちやすいのだ。
二時限目は四組との合同体育。今日は男女ともグラウンドで行われることになっていて男子はサッカー、女子はテニスだ。体操服は今日から完全夏用。男女とも同じ柄で、学年色黄色のラインと校章の付いた白地半袖クルーネックシャツと、青色ハーフパンツだ。
「なあ、ひではる、しゅうへい。おれ、今日買いたいCDあるから帰りに梅田のメイト寄ろうぜ」
「いいですねえ」
「智晴も学校帰りにたまに友達と梅田とかポンバシ寄ってるみたいだけど、今日は部活あるみたいだしたぶん遭わないだろうから俺も付き合うよ」
朋也、修平、英晴。他男子が準備運動の腕立て伏せをしている最中、
「先生、光久さんが倒れましたっ!」
女子生徒の一人の叫び声が。
「えっ!」
英晴は思わず声を漏らす。そして視線を女子のいる方へと向けた。
本当に、雪乃がうつ伏せ状態で倒れこんでしまっていた。
準備運動として一周二百メートルのトラックを走っている最中だったらしい。
「熱中症?」
「ユキノン、大丈夫? 頭打ってない?」
「ゆきのちゃん、しっかりして!」
「貧血っぽいね」
雪乃のすぐ近くにいたクラスメート達を中心にざわつく。その声が十数メートル離れた英晴の耳元にもしっかり届いていた。
「ひではる、見に行ってあげた方がいいんじゃねえか?」
「西風君、これは緊急事態ですよん」
朋也と修平からにやけ顔でそう言われると、
「そっ、そうだな」
英晴は急いで背丈一八〇センチを越え筋骨隆々、強面な男子体育担当教師、鬼追(きおい)先生のもとへ向かい、
「先生、ちょっと、雪乃ちゃんの様子、見に行って来ます」
こう伝えて、雪乃のもとへ駆け寄った。
「ゆっ、雪乃ちゃん」
英晴は雪乃の顔色を心配そうに見つめる。いつもはきれいなピンク色をしている唇が、白っぽく変色していた。頬も青白くなっていた。
「あっ……英晴くん」
雪乃は幸いすぐに意識を取り戻した。
「大丈夫?」
英晴は心配そうに話しかけてあげる。
「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから」
雪乃はこう答えて、ゆっくりと立ち上がった。
「よっ、よかったぁ。でも、保健室には行った方がいいよ」
英晴は強く勧める。
「保健委員さん、光久さんを保健室へ連れて行ってあげてね」
女子体育教師はこう呼びかけた。
「その子今日欠席です」
すると女子の一人が叫んだ。
「あらまっ」
女子体育教師は苦笑いする。まだ出欠確認をする前だったので気付けなかったのだ。
「そうだっ! 西風くんが連れて行ってあげて」
別の女子から頼まれる。
「おっ、俺が、連れて行くの?」
「もっちろん。きみの彼女でしょ?」
「いや、そうじゃ、ないんだけど」
「いいから、いいから」
その子に背中を押された。
「頑張ってね!」
女子体育教師からもエールを送られる。
「あの、雪乃ちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」
英晴は緊張気味に、雪乃に話しかける。
「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうよ」
雪乃は元気なさそうな声で伝えた。
「しっかり掴まってね」
英晴は雪乃の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。
「ごめんね、英晴くん」
雪乃は申し訳なさそうに礼を言い、英晴の両肩にしがみ付いた。
「――っしょ」
英晴は一呼吸置いてから雪乃の体をふわりと浮かせる。
おっ、重いっ!
途端にそう感じたが、もちろん黙っておいた。
「英晴くん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」
「べつにいいよ、気にしないで」
なっ、なんか、胸が。雪乃ちゃん、いつの間に、こんなに大きく……。
むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。
雪乃のおっぱいの感触が薄い夏用体操服越しに、英晴の背中に伝わってくるのだ。
急ごう!
なんとなく罪悪感に駆られた英晴は早足で歩こうとする。けれども足がふらついてしまい結局ゆっくりペースに。今いる場所から保健室までは、距離にして五〇メートルちょっと離れていた。英晴は雪乃を落とさないように、慎重に歩き進んでいく。
無事辿り着くと、
「失礼、します。樽谷先生、あの、この子が、体育の授業中に、貧血で、倒れました」
やや息を切らしながら保健室の、グラウンド側の扉をそっと引いて小声で叫び、雪乃を背負ったまま中へ入った。
「樽谷先生、失礼しまーす」
雪乃は元気無さそうに挨拶する。
「いらっしゃい」
養護教諭、樽谷先生は二人を笑顔で迎えてくれた。ぱっちり瞳に卵顔。さらさらした黒髪は黄色いりぼんでポニーテールに束ねている、三〇歳くらいの女性だ。
今保健室には、この三人以外には誰もいないようだった。
「じゃ、下ろすよ」
「ありがとう」
英晴は、雪乃をソファの前にそっと下ろしてあげた。
雪乃はソファにぺたりと座り込む。
「光久さん、これをどうぞ」
樽谷先生は、保健室内にある冷蔵庫から貧血に効く栄養ドリンクを取り出し、雪乃に差し出した。
「ありがとうございます」
雪乃はぺこりと一礼してから丁重に受け取る。瓶の蓋を開けると、ちびちびゆっくりとしたペースで飲み干していった。
「光久さん、今日は早退した方がいいわね」
「いえ、私、少し休めば大丈夫ですよ」
雪乃は元気そうな声で答えてみるが、
「ダメだよ雪乃ちゃん、無理しちゃ。今日は早退した方がいいよ」
英晴も樽谷先生と同意見だ。
「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」
雪乃は困惑顔になる。
「俺が取ってあげるから、心配しないで」
「大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だって。俺、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」
「本当?」
「うん、本当」
「西風君、心配されてるのね」
樽谷先生はにこっと微笑む。
「まあ、俺、普段授業中寝てしまうことが多いですし」
英晴は照れ笑いする。
「二人ともとても仲良いわね。光久さんは、貧血になったのは今回が初めてかな?」
「はい。私、この間の中間テスト期間中は睡眠時間削って勉強してて、水泳の授業も近いからダイエットしようと思って、ここ一週間は朝食もほとんど食べてなかったからかな?」
雪乃は照れ気味に打ち明けた。
「原因は非常に良く分かりました。光久さん、朝食を抜くのはダメよ。保健や家庭科の授業でも小学生の頃から再三言われてるでしょ」
樽谷先生は爽やか笑顔で忠告する。
「はい、今後は気を付けます」
雪乃はてへっと笑った。
「光久さんの身体測定のデータ見ると標準体重よりちょっと少ないから、少々増えたってダイエットはする必要ないからね。敏感になり過ぎて太ってないのにダイエットしようとする子が本当に多くて……」
樽谷先生はパソコン画面を見つめながら、ため息まじりに助言した。この学校の生徒達全員の身体測定データが、専用ソフトに保存されてあるのだ。
「すごい! データベース化されてるんだ」
英晴は興味を示し、画面に顔を近づけた。
「あんっ、英晴くん。私の見ちゃダメェッ!」
雪乃はとっさに英晴の両目を覆う。
「あっ、ごっ、ごめん雪乃ちゃん」
英晴が謝罪すると、雪乃はすぐに手を放してくれた。
「西風君、女の子はお友達同士でも体重を知られたくないものなのよ」
樽谷先生は英晴が目を覆われている間にデータ画面を閉じてあげた。
「ごめんね雪乃ちゃん、俺、もう戻らなきゃ」
英晴は雪乃に頭を下げて謝り、保健室から出て行く。
その頃。英晴のお部屋では、
「ヒデハルくん、あの女の子ととても仲良さそうだね。きっとガールフレンドだね」
「アタシもそう思うぜ。交尾はもう済ませたのかな?」
「英晴お兄ちゃん、現実世界にもいたんだ。意外だね。クラス内での階級低そうなのに」
「英晴君、異性交遊関係についてはリア充なのね。現実世界にもいるのにわたくし達のことを気に入って下さったなんて、Muchas gracias.」
「ミナは、ただの幼馴染だと思うのですが……クラスに一人くらいいる、どんな冴えない男の子にも、たとえ正直気味悪いタイプであっても嫌がらず温かく接してくれる、心優しい女の子という感じがしますね」
気候擬人化キャラ達が人間化してベッドの上に座り込んで、テレビを眺めていた。
英晴の学校での様子を、モニター越しに観察していたのだ。
「それにしてもこのグッズはファンシーだね。上空からの映像だけじゃなく建物内部の映像まで見れるなんて」
カナートはとある加工品に大いに感心する。
「これさえあれば、地球上の任意の地点のライブ映像を映し出すことが出来るよ。ストリートビューと、衛星カメラの合体版かな? これは智晴ちゃんの考えた架空アイテムよ」
クスコは自慢げに語る。学習机の本立てに置かれていた地球儀と、テレビ端子とが一本の水色ケーブルで繋がれていたのだ。
「ド○えもんのひみつ道具みたーい。あたしにはそんな能力設定されてないよ。いいなぁ」
テラロッサは羨ましがった。クスコは智晴の考えた空想アイテムを召喚出来る能力があるようなのだ。
「あっ、あのう、いいんでしょうか? 盗撮なんかして?」
フィヨルドは困惑顔でクスコに問いかけてみる。
「……法律的に、良くないとはわたくしも思いますけど、その、英晴君の学校での様子が気になってしまって」
クスコは少し俯き加減になり、バツの悪そうに言い訳した直後、
ドスドスドス。と廊下を歩く足音が五人の耳元に飛び込んで来た。
「ヒデハルくんのウンムが来るようだね。みんなぬいぐるみになるか隠れて!」
カナートは注意を促し、テレビの電源も切った。彼女を先頭に他の四人も素早く対応する設定資料集に飛び込む。本来ぬいぐるみなこの五人は、二次元イラスト化することも出来るようなのだ。一番動作の遅かったフィヨルドが設定資料集内に引っ込んでから約二秒後に、扉がガチャリと開かれ、母が英晴のお部屋に足を踏み入れて来た。
「英晴ったら、こんなに散らかしちゃって。変なコードまであるし……これ、英晴が気に入ってる智晴作のイラスト集ね。これも散らかしちゃって。もっと大事に扱わなきゃ」
母はため息まじりながらもちょっぴり嬉しそうに告げながら、床に散らばっていた設定資料集を学習机の上に積み重ね、掃除機をかけて部屋から出ていった。
「ウンム、重ねたら出にくくなっちゃうよ。ラバースアリック?」
一階へ降りていったことが確認出来ると、カナートは設定資料集内からぴょこっと飛び出し再び人間化する。そして他の気候の設定資料集をベッドの上に一冊ずつ並べてあげた。
すると他の四人もすぐに飛び出し人間化した。
「なまら重たかったです。多少変身に時間がかかりますがぬいぐるみに戻るべきでしたね」
フィヨルドはホッとした表情で告げた。彼女が一番下になっていたのだ。
「いや、ぬいぐるみ化してたらさっきのは間に合わなかったと思うぜ。Mas・ヒデハルのイブ、よりによって一番重たそうなMbak(ンバッ)・カナートを一番上にしていくとはね」
「ワッ、ワタシ、そんなに重たくないよ。太ってないよ」
セルバに指摘され、カナートはむすぅっとなった。
「ラクダの瘤ん中みたいに脂肪いっぱいって設定になってるくせに」
「そんな設定ないもん!」
カナートはそう主張して、セルバの髪の毛を引っ張る。
「いたたたたたっ、やったな、Mbak・カナート」
セルバはカナートのほっぺたをつねる。
「二人とも、興奮状態になるとより一層周囲の気温を上げちゃう設定になってるんだから、しょうもないことでケンカは止めましょうね」
クスコは優しくなだめてあげた。
「だってセルバちゃんがぁー」
カナートはつねられながら言い訳する。
「アタシ、Mbak・カナートに温度では勝てねえけど湿度では圧勝出来るぜ」
セルバは髪の毛を引っ張られながら対抗する。
「そんなの、ワタシの乾燥体質で相殺出来るよ」
カナートは得意顔で主張する。
この部屋の室温はますます上がり、四〇℃以上にまで達していた。
「なまら暑苦しいですぅ~」
フィヨルドは純白ブラ&ショーツ姿で英晴のベッドにうつ伏せ状態でぐったりしていた。
「暑ぅ~い。真夏の昼間の重慶以上だよ。フィヨルドお姉ちゃん大丈夫?」
テラロッサは萌えアニメキャライラストのうちわを二柄手に取ると右手で自分に、左手でフィヨルドに向けてパタパタ仰ぐ。
「二人とも、いい加減にしなさい。わたくし達、熱中症になっちゃうじゃない」
クスコは不愉快そうな表情を浮かべ、二人の頭を今しがた自分用の設定資料集から取り出したケーナと呼ばれる縦笛楽器でコツンッと叩いた。
「いたぁ~っい。分かったよ、やめるよMbak・クスコ」
「ワタシも大人気なかったな」
すると二人はすぐにケンカをやめてくれた。クスコのことを恐れているようだ。
「涼しくなって来てよかったです」
最高45℃まで上がった室温も一気に20℃近く下がり、フィヨルドはホッと一安心する。
「セルバお姉ちゃん、カナートお姉ちゃん。英晴お兄ちゃんのその後を見た方が面白いよ」
テラロッサの手によってまたテレビが付けられると、気候擬人化キャラ達は再びモニター画面に食い入る。
「こら西風。ぼけーっと突っ立っとらんとボール奪いにもっと積極的に動かんかいっ!」
ちょうど英晴は鬼追先生に授業態度のことで説教されていた。
「ヒデハルくんはヒデハルくんなりに頑張ってるのに、あの先生はアル=シャイターンだね。お仕置きしちゃえっ!」
カナートはにやけ顔でそう呟くと、モニター画面に向かって両手をかざす。
『あちちっ! 何やこの風? いたっ! 砂まで飛んで来よったぞ』
鬼追先生はびくりと反応して後ろを振り向いた。
「いい気味だね。サハラ砂漠の熱風、ハムシン攻撃。リビアではギブリ、ヨーロッパ側ではシロッコと呼ばれてる季節風だよ」
カナートは得意げにほくそ笑む。
「次あたしがやるぅ。くらえっ! 梅雨のしとしと長雨♪」
「アタシのスコール攻撃ならもっとでかいダメージ与えられるぜ」
画面に向かってテラロッサは右手をかざし、セルバはフゥゥゥーッと息を吹きかけた。
『なんでわしんとこだけ雨が?』
鬼追先生はずぶ濡れに。
『なんかちょっと息苦しなって来たわ~』
ほどなく鬼追先生の周囲一メートル以内だけ気圧が急低下した。クスコが手をかざして攻撃を加えたのだ。
「標高四千メートル級の気圧に平然と耐えてるなんて、体育教師だけにタフね。フィヨルドちゃん、ブリザード攻撃でとどめ差しちゃって。得意技でしょ?」
「あの、クスコさん、かわいそうなので、ミナには、出来ないです」
「あらら。心優しいわね」
「フィヨルドちゃん体温はすごく低いけど心は温かだね」
「あたしが台風攻撃でとどめ差すよ。セルバお姉ちゃん、台風ちょうだい♪」
「Baik.」
セルバは快く右手のひらを天井に向け、自然界では定義的にも起こり得ない超ミニ台風を発生させる。雲量はどんどん増え、十秒ほどで直径約五〇センチ、中心付近の最大瞬間風速八〇メートル以上にまで発達させた。
「温くてなまら不快な風ですね」
その端よりも離れた場所にいる他のみんなにも強風が届いた。黙読中だった智晴所有の青年コミックのページがバサバサ捲られ、髪も大きくなびいたフィヨルドはけっこう迷惑がる。
「完成させたよ。Si・テラロッサ。手を出して」
「ありがとうセルバお姉ちゃん」
セルバが手渡した瞬間に一気に衰え直径三〇センチ程度に。
テラロッサはそれを画面内の鬼追先生に向かって投げつけた。
『突風まで吹いてきよった』
鬼追先生にピンポイントで雨風がより一層強くなる。
「このおじちゃん、最大瞬間風速五〇メートル以上の風にも吹き飛ばされずに耐えれてるぅ。すごぉーい!」
「温帯のSi・テラロッサは最盛期レベルはやっぱ維持出来ねえか」
「うん、これくらいが限界だよ」
「あいつ頑丈だし、アタシの本気、最大瞬間風速百メートル以上の台風攻撃最盛期のまま食らわそうかな」
「セルバちゃん、ワタシも本気出せば極々狭い範囲だけどその風速に匹敵する竜巻を発生させられるよ」
「Mbak・カナート、さすがだな」
「セルバさん、カナートさん、さすがにその規模の気象現象はあの頑丈なお方に対してでも危険過ぎると思いますし、周りにいる子達や建物にも甚大な影響が及ぶかもなので絶対やめるべきです」
フィヨルドは困惑顔で注意する。
「それもそうだな。じゃあやめておこっと」
セルバはてへっと笑った。
「フィヨルドちゃんの言う通りだね。テラロッサちゃんの台風攻撃でもあの先生けっこうダメージ受けてるっぽいよ。もうこの辺で許してあげよう。もう一回ハムシン食らわせて服乾かしてあげなきゃね。それっ♪」
『あちちちっ! さっきからいったい何やねん?』
ともあれ英晴はあれ以降は、散々な目に遭わされた鬼追先生から注意されること無く体育の授業を終え、続いて三時限目現代社会の授業が始まる。
眠いけど、なんとか取らなきゃ、雪乃ちゃんに迷惑掛けちゃう。
雪乃のために一生懸命シャーペンを走らせノートを取る英晴の姿に、
「英晴さん、きちんと約束を果たそうとなまら頑張ってますね。さすが智晴さんのстарший братなだけはありますね」
フィヨルド達は感心させられた。
*
この日の放課後。英晴、朋也、修平の帰宅部三人組は体育の授業中に打ち合わせた通り解散後すぐ、午後三時四〇分頃には学校を出て徒歩で最寄りの阪急電鉄駅へやって来た。
切符を買い改札を抜けホームへ上がり、ほどなくしてやって来た阪急宝塚線急行に乗り込んで、揺られること約12分。終点の梅田駅で降りた三人は人ごみを掻き分け改札口を出て、お目当てのアニメグッズ専門店へ立ち寄った。
発売中または近日発売予定のアニメソングBGMなどが流れる、賑やかな店内。
彼らと同い年くらいの子達が他にも大勢いた。
「あっ! これ、M○Sで今放送中のやつだ。ブルーレイのCM流してる」
英晴は店内設置の小型テレビに目を留めた。
「おれ、このアニメのブルーレイめっちゃ集めたい。でも三話収録で八〇〇〇とかじゃ手が出んわー」
「僕達高校生にとっては高過ぎるよね」
「同意。おれ、このフィグマもめっちゃ欲しい。けど四五〇〇円もするんか。やっぱ高いなぁ。これまで買ったら今月分の小遣いすっからかんや」
朋也は商品の箱を手に取り、全方向からじっくり観察し始める。
「買おう!」
約五秒後、魅力にあっさり負け、購入することに決めた。
「鍋本君、清水の舞台から飛び降りましたねぇ。僕も欲しいグッズがあるのだよん。あのクリアファイル」
「おれも他にもあるぜ」
「朋也、修平。衝動買いは程ほどにした方がいいぞ」
英晴が爽やか笑顔で助言すると、
「ひではるんち、こういうグッズ類リアル妹が買い集めてくれてるからいいよなぁ」
「僕もあんな感じのリアル妹さんなら欲しいですよん」
羨ましがられてしまう。
「まあ確かに智晴のおかげで俺はアニメグッズ購入費ほとんど使わずに済んでるけど。俺が欲しかったこの下敷きも買ってくれてたし」
萌え四コマ漫画原作アニメのキャラ集合下敷きを手に取り、英晴は苦笑い。
そんな様子を英晴のお部屋から、
「ヒデハルくんったら、あんなテンプレートで量産型のアニメ美少女キャラに鼻の下伸ばしちゃって」
「アニメ美少女はプロのキャラクターデザイナーさんの造形。わたくし達をデザインしてくれた智晴ちゃんは所詮アマチュアだから、容姿で劣っちゃうのは仕方ないわ。だからわたくし達は内面で魅力を出さなきゃね」
カナートとクスコはちょっぴり嫉妬心を抱きつつモニター越しに眺めていたのだった。
☆
夕方六時ちょっと過ぎ。
「ただいまー」
「おかえり英晴、お部屋はもっときれいにしなさいね」
「分かってるって母さん」
英晴は途中、雪乃のおウチに寄りノートと今日配布されたプリント類と、近所のスーパーに寄り道して買った抹茶シュークリームといちご大福を届けて自宅に帰って来た。
手洗い、うがいを済ませて二階に上がり、
人間化して、ないよな? 今朝はぬいぐるみのままだったし。
恐る恐る自室の扉を開くと、
「マルハバ! ヒデハルくん」
「Selamat datang kembali.Mas・ヒデハル」
「Moi! С приездом! 英晴さん」
「おかえり、英晴お兄ちゃん」
「Hola! 英晴君」
気候擬人化キャラ達が爽やかな表情で出迎えてくれた。
「……夢じゃ、無かったのか。昨日の、出来事は……」
英晴は顔を強張らせる。
「だから現実だって。Mas・ヒデハル、もう認めちゃいなよ。アタシ達はキャラデザのMbak・チハルの空想と現実の二面性を持っているのだ」
セルバが肩をポンポンッと叩いてくる。
「わっ、分かった。認めるよ、もう」
英晴はついに観念してしまった。その方が精神的にずっと楽だと感じたからだ。
「ヒデハルくん、リアルな素敵なガールフレンドがいるんだね。ユキノちゃんっていう」
カナートににやけ顔で言われ、
「なんで知ってるの!?」
英晴は当然のように驚く。雪乃のことはこの五人に一度も話したことはないからだ。
「これでヒデハルくんの学校生活を覗いてたんだよ」
カナートはテレビ画面を指し示す。英晴の通う学校校舎の映像が映し出されていた。
「何これ?」
英晴はケーブルの方にも目を向けた。
「このケーブルは、地球上のどの地点からでもライブ映像を映し出すことが出来る智晴ちゃんの空想アイテムよ」
クスコはどや顔で得意げに説明する。
「智晴の空想アイテムまで物質化出来るって、どういう原理で、こんなことが?」
英晴はかなり驚いている様子だった。気候擬人化キャラ達がぬいぐるみから最初に人間化した時と同じくらいに。
「それが、わたくしにもよく分からないの。智晴ちゃんの強い空想力と妄想力が成しえた奇跡としか言いようがないわ」
クスコは照れ笑いする。
「……これ、非常にやばくないか? 盗撮だろ」
「英晴さんもそう思いますよね?」
フィヨルドは同意を求めてくる。
「そっ、そりゃそうだろ」
「Mas・ヒデハル、これでMbak・ユキノって子のおウチ内部も見られるぜ」
セルバはそう伝えるとリモコンボタンを操作し、映像を切り替えた。
「こっ、これは――」
英晴は思わず顔を画面に近づけた。雪乃のお部屋の一角の映像が映し出されたのだ。
ピンク地白水玉模様のカーテンで、水色のカーペット。窓際に観葉植物。学習机の周りにはケーキ、ドーナッツ、アイスクリーム、いちご、みかん、バナナなんかを模ったスイーツ&フルーツアクセサリーやオルゴール、着せ替え人形。ゴマフアザラシ、モモンガ、コアラなどの動物やゆるキャラの可愛らしいぬいぐるみなんかがたくさん飾られてある、じつに女の子らしいお部屋だった。何度か雪乃のお部屋を訪れたことのある英晴には特に目新しくは映らなかったが、こんな視点で観察したのはもちろん初めてのことだ。
「Mas・ヒデハル、好きな女の子がおウチでどんな風にして過ごしてるか知りたいでしょ?」
セルバはにやっと微笑む。
「ダメダメダメ!」
英晴は冷静に判断する。
「あっ、ユキノちゃんっていう子、今から降水をもたらすみたいだよ」
カナートは画面を食い入るように見つめる。
「どわあああああああっ、ダッ、ダメダメダメッ。法律的に」
「ヒデハルくん、見たくないの? 高校生くらいの男の子って、こういうのにすごく興味があるかと」
「ない、ない、ない、なぁーっい!」
英晴は慌ててテレビの電源を切った。また映像が切り替わり、トイレで下着を脱ぎ下ろしている雪乃の姿が映し出されていたのだ。雪乃の穿いていた水玉模様のショーツを、英晴はほんの一瞬見てしまった。
「あーん、もっと観測したかったのにぃ」
「アタシもーっ。降水量気になるよね」
カナートとセルバはふくれっ面で駄々をこねる。
「これは、プライバシーの侵害だよ」
「ペルドン英晴君、わたくし達、世界の人々の暮らしと環境について好奇心旺盛な設定になってるもので。これからは必要最低限の生活面だけを観測するようにするね」
英晴に困惑顔で注意され、クスコはスペイン語も交えて申し訳なさそうに謝る。
「いやぁ、全く見なくていいんだけど」
英晴は対応に困ってしまう。
「ヒデハルくんのお部屋の環境、もっと知りたい欲求に負けて勝手に調べさせてもらったよ。面白いコミックやラノベ、けっこう持ってるね。ワタシもコミックやラノベ大好きだよ」
「Mas・ヒデハルって、リアルな女の子の裸が載ってるエッチな本は一冊も持ってないんだな。ベッドの下も綿密に調べたんだけど、収納ケースが置いてあって、中に服とアニソンCDとゲームが入ってただけだし。男子中高生必須のアレする時に使うビジュアルは二次元の女の子のみってわけだな」
「ヒデハルくんはチハルちゃんと同じく健全だね。いい子いい子」
セルバとカナートは機嫌良さそうに話しかけてくる。
「あのう、あんまり俺の部屋、荒らさないでね」
英晴は悲しげな表情で注意しておく。
「英晴お兄ちゃん、このテレビ、テレビ番組は見れなかったよ。どのチャンネルに変えても受信出来ませんって出た。これじゃあド○えもんもクレ○ンしんちゃんもちび○る子ちゃんもサ○エさんも妖怪○ッチも見れないよう」
テラロッサは英晴の袖をぐいぐい引っ張りながら不満そうに伝えた。
「そりゃあ放送用のアンテナ繋いでないからね。このテレビはDVD・ブルーレイ視聴とテレビゲーム専用なんだ。繋ぐのは大学合格してからって母さんと約束してる」
英晴は素の表情で伝える。
「それじゃ英晴お兄ちゃん、お勉強頑張らなきゃいけないね」
「うっ、うん」
テラロッサににっこり笑顔上目遣いで言われ、英晴はちょっぴり照れくさがる。
まあ、テレビ番組見れない現状でも特に不満はないんだけど……リビングで見ても母さん特に何も言わないし。
「Mas・ヒデハル、Mbak・ユキノ今からお風呂に入るみたいだぜ」
セルバは英晴が他の事に意識が移っていたのをいいことにまたテレビをつけ、雪乃のおウチ内部を観察していた。
「うわっ、こらこらっ、ダメだろ」
今度は雪乃が脱衣場で服を脱いでいる様子が映し出されていた。雪乃のブラジャー姿を一瞬見てしまった英晴は慌てて主電源を消し、セルバの頭をパシンッと叩く。
「いたたたっ、ひどいよMas・ヒデハル」
セルバが頭を押さえながらそう言った直後、
「英晴ぅー、ご飯よぉー。今日西風先生、職員会議で遅くなるからいらないって。智晴も七時半頃になるって」
一階から母の呼ぶ声が聞こえてくる。
「分かったーっ。すぐ行くよ」
英晴は大声で返事をしたのち、
「雪乃ちゃんがお風呂入ってるとこ、絶対覗いちゃダメだよ」
カナートの方を向いてこう念を押し、部屋から出ていった。
「男の子からそんなこと注意されるって、変な気分だよね」
カナートはにこっと微笑む。
「これはチャーンス! Mbak・ユキノの入浴シーン、思う存分覗くぞーっ」
セルバは嬉しそうに叫んでテレビをつけ、雪乃のおウチの浴室を映し出した。
ちょうど雪乃が風呂イスに腰掛け、長い髪の毛をシャンプーでこすっている最中だった。
「おう、Mbak・ユキノ下の毛がけっこうもっさり生えてジャングルになりかけてるじゃん。Mas・ヒデハルはまだステップだったぜ。アタシは砂砂漠だけどな」
「雪乃お姉ちゃん、おっぱい大きいね」
「ナイスバディだね、ユキノちゃん」
「羨ましいわぁ~」
テラロッサとカナートとクスコも画面に食い入る。雪乃は自分の体をバスタオルで隠すことなく全裸姿だったのだ。
「皆さん、やめた方がいいですよ」
フィヨルドは困惑顔で再度注意するも、
「大丈夫だってMbak・フィヨルド。Mbak・フィヨルドもいっしょに見ようぜ」
「フィヨルドちゃん、同性なのだからよろしいでしょ?」
「今ちょうど体洗ってるいいところなのに。ワタシは浸かる時は塩をいっぱい入れて死海状態で入るのが一番落ち着くなぁ」
「フィヨルドお姉ちゃん、眺めてると雪乃お姉ちゃんといっしょにお風呂入ってる気分になれるよ」
他の四人はこう言い訳して尚も画面に集中する。
「ねえ、皆さん……今すぐ、そういうдурак(ドゥラーク)なことはやめなさい!」
フィヨルドは眉をへの字に曲げて、なかなか流暢なロシア語も交えて少し強めに言った。
すると次の瞬間、
「ごっ、ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいフィヨルドお姉ちゃん」
「ひいいいいいいい、ミンタマーフMbak・フィヨルド」
「ロシエント!」
「アッ、アナアーシファ。ベバフシード」
他の四人は皆びくびく震えながら慌てて謝った。セルバはとっさにテレビの電源を消す。テラロッサは泣き出してしまった。フィヨルドの顔が今しがた、ノルウェーの画家テオドール・キッテルセン(1857―1914)によって描かれた『森のトロール』の顔に急変化したのだ。しかも元の顔の大きさの五倍くらいまでふくれ上がっていた。フィヨルドの顔はそれから瞬く間に何事も無かったかのように元の可愛らしいお顔へと戻った。
「ミナは、怒りがある程度上昇すると、こんな風になっちゃう設定になってるんです。英晴さんには絶対こんな醜い姿見られたくないです。穴があったら入りたいよぅ」
フィヨルドはとても照れくさそうに、顔を真っ赤に火照らせながら呟いた。
「「「「…………」」」」
フィヨルドの恐ろしい風貌を見てしまった四人は、すっかり反省したようである。
それから四〇分ほどのち、
「覗かなかった?」
夕食を取り、風呂にも入り終えた英晴が自室に戻って来た。
「あの、英晴さん。この人達、みんなで雪乃さんのお風呂、覗いてましたよ」
フィヨルドは困惑顔で、四人を指し示しながら告げ口する。
「やっぱり……」
英晴はムスッとなった。
「Mas・ヒデハル、すまんね。もう金輪際やらねえから。たとえ裾礁が環礁になるくらい長い時間が経とうとも」
「アナアーシファ、ヒデハルくん。ユキノちゃんがオアシスに浸かるところ、どうしても見たくって」
「英晴君、もう二度とやらないから。わたくし、次こういうことしたらわが身を生贄に捧げるわ」
「英晴お兄ちゃん、ごめんなさーい」
四人は英晴の方を向いて深々と頭を下げた。
「英晴さん、ご覧の通り皆さんは大いに反省しているので、許してあげて下さい」
フィヨルドは英晴の目を見つめながら頼み込む。
「まっ、まあ、いいけど。今後は、絶対やらないでね」
英晴はこう忠告して学習机の前に立った。
「そういえば、つい十分くらい前、智晴ちゃんが帰って来てこのお部屋に来て何かゴソゴソしてたわよ。わたくし達は直前にぬいぐるみに戻って無事人間化した姿を見られずに済んだわ。よく見えなかったけど本棚からマンガを何冊か持って行ったような」
クスコからの伝言に、
「智晴に俺の部屋勝手に物色されて、マンガとか持っていかれるのはいつものことだよ。なるべくやめて欲しいと思ってるけど」
英晴はやや呆れ顔で反応し、学習机に貼られた時間割表を眺めながら明日行われる授業の教科書・副教材、ノートを通学鞄に詰めていく。その最中に、英晴のスマホ着信音が鳴り響いた。今放送中の深夜アニメのED主題歌だった。電話がかかって来たのだ。
「雪乃ちゃんからか」
番号を確認すると英晴はこう呟いてベッドに腰掛け、通話アイコンをタップする。
「もしもし」
『あっ、英晴くん。ノートとプリントと、シュークリームといちご大福も届けてくれてありがとう。すごく嬉しかったよ♪』
「どういたしまして。体は、大丈夫?」
『うん、おウチ帰ったあといっぱい休んだからもう平気。すっかり元気になったよ。あのね、英晴くん、すごく言い辛いんだけど……全部同じ色で書かれてるから、どこが要点なのか分かりにくいよ。字も、読みにくくて』
「ごめん、雪乃ちゃん。俺の、書き方、良くなかったね」
英晴は電話越しにぺこぺこ謝る。
『いいの、いいの。英晴くんが、一生懸命取ってくれたことが良く分かるから。気にしないでね』
雪乃は慰めてくれた。
「本当に、ごめんね。あっ、あと、連絡だけど、時間割変更で、明日も家庭科があるよ。六時限目に。帰りのホームルームで担任が言ってた」
『あの、そのことは家庭科の授業でも連絡してたよ。中間で抜けた分の埋め合わせって』
「えっ! そうなの?」
『英晴くん、聞いてなかったの?』
「うっ、うん。考え事してて」
『英晴くん、授業中は集中して先生のお話聞かなきゃダメだよ。テストに出る大事なポイントもお話ししてくれるからね』
「分かった。次からは気をつけるよ。じゃっ、じゃあ俺、そろそろ切るね」
『あっ、待って英晴くん』
「なっ、何?」
英晴はぴくっと反応した。
『今から智晴ちゃん作の気候擬人化ぬいぐるみとイラスト見に行くね』
「えっ! それは、ちょっと。今日はおウチでじっくり休んだ方が」
『もう平気だよ。それじゃ、今から行くねー』
そう伝えられ、電話を切られてしまった。
「ヒデハルくん、今のが、ガールフレンドのユキノちゃんだね?」
「うわっ!!」
英晴はかなり驚く。すぐ横にカナートがいたからだ。
「ガールフレンドじゃなくて、幼馴染だよ」
「幼馴染なんですか! フィヨルドちゃんの予想通りだね。あのぅ、幼馴染ということは、いっしょにお風呂に入ったこともあるよね?」
カナートはにやけ顔でさらに質問してくる。
「ないよ」
英晴は俯き加減で即答した。
「怪しい」
カナートは顔をぐぐっと近づけてくる。
「あの、今から雪乃ちゃん来るから、みんなはぬいぐるみに戻ってて。人間化した姿見られたら説明に困るし」
「オーケイ」
「Хорошо.」
「英晴お兄ちゃん、人間の姿見られないようにぬいぐるみに戻っておくね」
「今んところはそうした方が良さそうだな」
「わたくしは人間での姿を見られても問題ないと思うけど……」
気候擬人化キャラ達は快くぬいぐるみ姿に。セルバとクスコは元の状態とは違う服装だったものの、ぬいぐるみ化したと同時に元の服装に戻っていた。
それから一分も経たないうちに、
「英晴くん、こんばんは」
雪乃がこの部屋を訪れて来た。
「……いらっしゃい」
英晴は緊張気味に招き入れる。
「英晴くん、智晴ちゃん作の気候擬人化ぬ……あっ、これだね。実物はよりかわいく見えるね」
雪乃はベッド上に置かれてあった五体のぬいぐるみを楽しそうにじっくり眺め、
「みんな今にも動き出しそうな躍動感を感じるよ」
こんな感想を抱いた。
「俺も、同じように感じたよ」
英晴は全身から冷や汗が流れ出ていた。
「あの、英晴くん」
「なっ、何?」
「その……今度の土曜、明後日だけど、いっしょにショッピングに行こう」
「えっ!」
雪乃からの突然の発言に、英晴はどきっとした。
「あの、今日の、お礼がしたくて……」
「あっ、そっ、そう。それじゃ、いっ、いいけど」
デートの誘いなんじゃないのか? これ。
英晴はやや躊躇う気持ちがありながらも、一応引き受けた。
「ありがとう。英晴くん、これも見せてね」
雪乃は続いて学習机上に置かれてあった設定資料集を拾い上げ、一冊ずつパラパラ捲って眺めたのち、
「イラストの方もすごく気に入ったよ。それじゃ、また明日ね。英晴くん、おやすみー」
満足げにこの部屋から出て行ってくれた。
「おやすみ」
英晴はホッとした気分で見送る。
「智晴ちゃん、気候の擬人化ぬいぐるみとイラスト、特徴も忠実に捉えられていてとても素晴らしかったよ」
「サンキュ♪」
雪乃が目下ダイニングで夕食中の智晴にもご挨拶して、玄関から外へ出て行ったのが確認出来ると、
「Mbak・ユキノ、かわいいだけじゃなく性格もめっちゃ良さそうだな」
「雪乃さんは純真無垢なお方のようですね」
「あんなかわいい子と親しく出来てるなんて、ヒデハルくんは幸せ者だね」
「あたしのお姉ちゃんに欲しいなぁ♪」
「英晴君、他の男の子に奪われないようにしなきゃダメよ」
気候擬人化キャラ達は人間の姿へ。
「みんな、ぬいぐるみに戻っててくれてありがとう」
「ヒデハルくん、今からユキノちゃんとのデートプラン考えようよ」
カナートは顔をぐぐっと近づけてくる。
「べつにそれは、考えなくても……誘って来たのは雪乃ちゃんの方だし」
「それはダメだよヒデハルくん、ユキノちゃんに嫌われちゃうよ」
「あっ、あのさ、クスコちゃん。昨日、地図帳から民族衣装を取り出してたけど、他の教材からも、写真や図に載ってるやつを取り出せるの?」
英晴は話題を切り替えようと、クスコの方に話しかけた。
「もちろん出来るわよ。ちょっと教科書借りるね」
そう自信たっぷりに言うとクスコは、化学基礎の教科書カラー口絵を開いて手を突っ込んだ。そして中から、金の延べ
「うわっ、Mbak・クスコすげえ。本物だ」
「クスコお姉ちゃんすごーい!」
「クスコちゃん、マジシャンみたーい」
セルバ、テラロッサ、カナートはパチパチ大きく拍手する。
「あれ? でも中の写真はそのままだ」
英晴は不思議そうにその教科書を見つめる。
「わたくしが取り出したものは、コピーされたものだからよ。何度でも複製出来るの。続いて英語の教科書から、登場人物のボブ君を取り出してみせましょう」
クスコは得意げな表情で、今度は英文読解用の教科書に手を突っ込む。
数秒後、
「Ouch!」
中から男性の叫び声がした。次の瞬間、クリーム色の髪の毛が飛び出て来た。
クスコがさらに引っ張り上げると顔、首、胴体、足も姿を現す。
クスコは本当にボブ(Bob)という登場人物を取り出して来たのだ。
「What‘s happen? Where’s here? Why am I here?」
引っ張り出されたボブは周囲をきょろきょろ見渡す。彼はとてもびっくりしている様子で、かなり戸惑ってもいた。
「やっぱ英語か」
英晴は冷静に突っ込む。彼はあの光景を先に目にしているので、もはやこんなことが起こってもあまり驚かなかった。
「大丈夫だよ。ボブはきっとこのテキストの範囲を超える用法は使用してこないから。英語の得意な日本人高校生よりもボキャブラリーは少ないと思うよ」
カナートは推察する。
「Who are you?」
ボブは気候擬人化キャラ達と、英晴のいる方に目を向ける。
「やっほー、Mas・ボブ。アタシの名前はセルバというのだ。英語だとI am Selva.かな?」
「ボブおじちゃん、はじめまして。あたしの名前はテラロッサです。小学四年生、九歳です。趣味はお絵描き、特に好きな食べ物は日本料理と中華料理と地中海料理です」
セルバとテラロッサは嬉しそうに自己紹介した。
「テラロッサちゃん、ボブは老けて見えるけど、ワタシやヒデハルくんと同級生ってことになってるよ。おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んであげた方がベターかも」
カナートは笑顔で伝える。
「そっか。ごめんね、ボブお兄ちゃん」
「Oh! very cuty girl! I‘m very happy to meet you.」
上背一八〇センチくらいあるボブは中腰姿勢でテラロッサの顔を眺めながらそう叫び、目を大きく開いた。
「カナートお姉ちゃん、ボブお兄ちゃんさっき何って言ったの?」
テラロッサは興味津々に尋ねる。
「とてもかわいい女の子だね、キミと会えてボクはとても幸せだよ。だって」
カナートはにこにこしながら教えてあげた。
「わぁーっ、嬉しいなーっ! あたしも幸せーっ♪」
テラロッサは満面の笑みを浮かべる。
「Terra rossa,I fell in love with you at first sight.Shall we dance and s○x?」
ボブはこう告白すると突然、テラロッサにガバッと抱きついた。
「……いっ、いやあああっ。こっ、怖ぁい、このおじちゃん」
押し込まれ壁際に追い込まれたテラロッサは途端に怯え出す。
ボブにほっぺたをぐりぐり引っ付けられて、さらには耳元にフゥーッと息を吹きかけられたのだ。
「おい、何してるんだよ」
「ボブ君、テラロッサちゃん嫌がってるからやめなさい!」
英晴とクスコは慌ててボブの背後に詰め寄る。
「Get out of the way!」
「きゃぁんっ!」
「いてっ、強いな、こいつ」
瞬間、ボブに蹴り飛ばされてしまった。クスコはしりもちをついたさい、けっこう可愛らしい悲鳴を上げた。
「Bob,Stop body contact to Terra rossa at once!」
カナートは強い口調で注意した。
「No way!」
けれどもボブは聞き耳持たず。
「In place of Terra rossa,Hug me!」
「I’m not interested in middle age‘s woman like you at all.You are,so to speak,ugly fat pig.」
ボブは腐った生魚でも見るかのような目つきで、命令して来たカナートに向かって言い放つ。
「まあ、なんですってぇぇぇっ! 失礼ね、このロリコン。おまえのような年増には全く興味ないね。おまえはいわば、醜い太った豚だ、だって。ワタシをあんな不浄な生き物と同一視するなんて。I‘m pissed off! I‘m as old as you! My birthday may be later than you!」
カナートは怒りの表情でボブを睨み付ける。
「I‘ll marry Terra rossa in the near future.If the sun were to rise in the west,I wouldn’t change my mind.」
ボブはスキンシップをやめようとはしない。
「やめてやめてやめてぇぇぇぇぇぇぇ~」
テラロッサは大声で泣き叫ぶ。
「ボクは近い将来、テラロッサと結婚するんだ。仮に太陽が西から昇っても、ボクは決心を変えないよ。ですってぇぇぇーっ。Pervet! Fuck you! Peice of shit! You are scum!」
カナートの怒りはさらに増した。
「あっ、あのうボブさん。テラロッサさんとても怖がっているので……」
フィヨルドも彼の暴挙を止めさせようと説得に加わる。
「Really? Terra rossa,please don‘t be afraid to me.If you marry me,I‘ll buy anything you want to.」
ボブは一応、日本語も理解出来ているようだった。彼はテラロッサに優しく微笑みかける。
「ボブおじちゃん、早くやめてぇぇぇぇぇぇぇーっ!」
しかし逆効果。テラロッサはますます大泣きしてしまった。
「Why?」
ボブはハハハッと陽気に笑いながら問いかけ、再びテラロッサに頬を引っ付ける。
「ロリコンのMas・ボブ、Si・テラロッサいじめちゃダメだぞ」
セルバはこう注意すると直径三十センチくらいのココヤシの実に変身し、ボブの脳天にゴンッと直撃させた。
「Ouch!」
ボブに衝撃が走る。両目が☆になった。
「引っ込め! 引っ込め!」
セルバは元の姿に戻ると英語の教科書を素早く拾い上げ彼のいたページを開く。そしてボブの脳天に押し付け、中へ戻してあげた。
「あぁん、すごく怖かったよぉぉぉ~。ありがとう、セルバお姉ちゃぁぁぁーん」
テラロッサはえんえん泣きながら礼を言い、セルバにぎゅぅっとしがみ付く。
「サマサマ♪」
セルバは上機嫌なにこにこ顔だ。
「ボブって子、何がBob is the kindest boy in our class.よ。教科書の本文と全然違うじゃない。To tell the truth,Bob is not only Lolita complex,but also crazy.」
カナートは、まだぷっくりふくれていた。
「カナートちゃん、英語けっこう話せるのね」
クスコは感心気味に呟く。
「そりゃあオーストラリアやアメリカにも砂漠あるし。エアーズロックの東に広がるシンプソン砂漠とか、コヨーテなんかが生息してデスバレーやラスベガスがあるモハーヴェ砂漠とか。よく考えたらアメリカ合衆国は凄いよね。世界の気候が全て揃ってるし。ワタシ、ボブ君みたいなラム肉食系の男の子は苦手だな。ヒデハルくんみたいなモロヘイヤ食系がいい♪」
カナートはそう告げて、英晴の手をぎゅっと握り締めた。
「えっ、あっ、あの……」
英晴の頬は唐辛子の実のごとく赤くなる。
「ヒデハルくん、照れてる。かわいい」
カナートはにこっと微笑みかけた。
「そっ、そんなことないって」
英晴は必死に否定しようとする。
「英晴君、しぐさでバレバレよ。あの、英語の教科書にもう一人出てくるイギリス人男の子キャラ、トム君も引っ張り出してみようかしら? handsome boyって書かれてあるから」
クスコは微笑みながら問いかける。
「クスコお姉ちゃん、もう止めてっ! また変なおじちゃんだったら嫌だよぉ~」
テラロッサはげんなりとした表情で伝えた。
「この教科書に出てくる女の子、メアリーとスージーはきっとボブに悲しい目に遭わされてるわ」
カナートはため息まじりに告げる。
「ボブ君も二次元平面上では本文通りのいい子かもしれないわよ。現実の女の子はオタクを嫌う酷い子が多いのと同じようにね」
「俺は雪乃ちゃんは二次元からそのまま飛び出したような子だと思うよ。あの、俺、トイレ行ってくるね」
英晴はそう伝えると部屋から出て、一階にあるトイレへ向かっていった。
トイレの扉を閉めようとしたら、
「待ってヒデハルくん!」
「わたくしもシェルパ風にお供しまーす♪」
カナートとクスコに阻止され、中に入り込まれてしまった。
「なんでついて来たんだよ? 父さんと母さんと智晴に見つかったら面倒なことになるだろ」
英晴は当然のように困惑する。
「だってわたくしも降水もたらしたくなったんだもん」
「ワタシも久し振りに降水来たよ。ヒデハルくんが行く時にいっしょに済ませておいた方がご家族に見つかりにくいかなっと思って。イラストに載ってるワタシんちのトイレで済ませることも可能なんだけどね」
クスコとカナートはにっこり笑顔で主張する。
「だったらそうしてくれよ」
「ヒデハルくんちのおトイレの方が多機能で使いやすいと思って。実際使いやすそうだからこっち選んで正解だったよ」
「いや、不正解だろ。急にめちゃくちゃ暑苦しくなって来た」
「ワタシもクスコちゃん体質のせいで息苦しいよ。ヒデハルくん、早く済ませなきゃ」
「わたくし達は五人いっしょに近くにいることで英晴君達や、わたくし達にとっても快適な環境になるって設定になってるからね。暑い、暑い」
「ワタシ一人だけだと本気出せば室温50℃以上まで上げられるよ♪ 逆にマイナス40℃未満の酷寒にもね。砂漠気候は寒暖差が非常に激しいのだよ」
「……仕方ない、こんな環境下に長時間いたら絶対体調崩れるし。二人とも、俺の方見ないでね」
英晴はこの子達出て行ってくれそうにないなと諦め、尿意にも耐え切れなくなって、やむを得ずパジャマズボンとトランクスをいっしょに脱ぎ下ろし、男の象徴を露出させると便器に狙いを定めた。
「英晴君、ちっちゃいね。毛もほとんど生えてないし、高校生のものに見えないわ」
「だから見るなって」
クスコが英晴の男の象徴を覗き込んでくる。くすっと笑われた。
「ごめん、ごめん。ちょっと気になっちゃって」
「ヒデハルくんの幼馴染の、ユキノちゃんの方がアンダーヘア濃かったよ。女の子に負けて悔しくないの?」
「そういうのを競ってどうするんだよ? 二人とも、性格に智晴の変態成分も入ってるな」
カナートにも覗き込まれ、英晴はかなり不愉快になる。彼はいよいよ用を足し始めた。
「英晴お兄ちゃんのおしっこの勢いは、降水量にしたらどれくらいになるのかな?」
「うっ、うわあああああっ!」
いきなり真横から、いつの間にか入って来たテラロッサにも覗かれ英晴はびくーっと反応する。
「ひゃぁんっ!」
狙いが外れ、テラロッサのお顔にビチャッと引っ掛けてしまった。
「ごっ、ごめんテラロッサちゃん」
英晴は慌てて大変申し訳なさそうに謝罪する。
「いいの、いいの。あたし、今朝英晴お兄ちゃんにいっぱいかけちゃったし。これでおあいこになるね」
テラロッサはてへっと笑う。
「目には目を、歯には歯を、のハンムラビ法典みたいだね」
カナートはすかさず笑顔で突っ込んだ。
「……」
英晴は顔を真っ赤にさせながら残りの分も出し、なんとか用を足し終えた。レバーを引いて水をジャーッと流す。
「俺、手を洗ってくるから。テラロッサちゃんも、お顔洗った方がいいよ」
「気を遣ってくれてありがとう。英晴お兄ちゃん」
テラロッサは嬉しそうににっこり微笑む。
「三人とも、少しだけここで待っててね」
英晴は注意を促した。両親に姿を見られたらかなり厄介なことになると感じたからだ。
洗面所は幸い、トイレのすぐ隣にある。移動距離はごく僅かだ。
母さんと父さんも智晴も、今いないな。
トイレから廊下に出た英晴は注意深く、周囲をきょろきょろと見渡し洗面所も確認した。
安全確認が出来るとトイレに戻り、テラロッサの手を引いて連れ出す。
そしてすばやく洗面所へ誘導した。
「早く顔洗い済ませてね」
「うん!」
テラロッサは水道の蛇口を捻り、水を出すと両手に掬ってお顔にパシャッとかける。
「水冷たくて気持ちいい♪」
この作業をさらに二回繰り返し無事、顔を洗い終えた。
「お顔拭いてあげるね」
英晴は手拭いをテラロッサのお顔に押し当て、なでるようにしてあげた。
「ありがとう、英晴お兄ちゃん。優しいね」
「どういたしまして。あの、テラロッサちゃん。声が大きいよ。見つからないように部屋に戻ってね」
「うん」
英晴からの指示にテラロッサは小声でそう答えて、足音を立てないように廊下を歩き、一段五秒くらいのペースでゆっくりと階段を上がっていく。
「あら英晴」
「かっ、母さぁん!?」
リビングの方から母が突然現れ、英晴はびくーっ! と反応した。
「どうしたの? 英晴」
母の方も少しびっくりしていた。
「何でもない。いきなり現れたから驚いただけ。母さんは、何しに来たの?」
「西風先生にちょっと用事があるのよ」
母はそう言いながら英晴の前を通り過ぎ、階段の方へ近づいていった。
えっ!
英晴は焦りの表情を浮かべる。
さらに間が悪いことに、
トス、トス、トス。父が二階の廊下を歩く音まで聞こえて来た。
ひっ、非常にまずいぞ、これは。なんでこんなあまりにタイミング良く。
英晴の心拍数は急上昇する。
どっ、どうしよう。英晴お兄ちゃんのお父さんとお母さんが両側からあたしに近づいてくる。台風の目にいる気分だよぉ。
テラロッサも予想外の事態にかなり焦っていた。
こうなったら――。
ふと、テラロッサはこの窮地を乗り切るグッドアイディアが浮かんだ。すぐに実践する。
「西風先生、ちょっとパソコン借りるわね」
「うん。分かった」
あっ、あれ? 見つからなかったのか?
英晴は両親が何事も無かったかのように階段ですれ違ったことに、当然のように不思議がる。
父さん、トイレには、まだ行くなよ。
英晴の願いが届いたのか、父はリビングへ。
ほどなくしてテレビの音声が聞こえて来た。
よぉし、父さんしばらく動かないな。
そう確信した英晴は階段を見に行った。
「英晴お兄ちゃん、あたしもう少しで見つかるところだったよ」
「うをわっ!」
英晴は思わず仰け反る。階段から転げ落ちそうになった。
突如、壁からテラロッサが姿をにゅっと現したのだ。
「そんな所に隠れてたのか」
「アマガエルさんみたいに周囲の色に合わせて擬態してたの。だから英晴お兄ちゃんのお母さんにもお父さんにも、あたしの存在が認識されなかったの」
テラロッサは満面の笑みで嬉しそうに伝える。
「そっか。そんな能力も使えるんだね。とにかく見つからなくて良かったね」
「うん! セルバお姉ちゃんの擬態はもっと上手いよ。じゃあ英晴お兄ちゃん。戻っておくね」
テラロッサが自室に戻ったことが確認出来、
「セェーフ」
とりあえず一安心した英晴は、カナートとクスコを迎えに行くため再びトイレの方へ。
「あっ、あの」
ドアノブに手をかけ、扉を開けた。その瞬間、
「ひゃん! もう、ヒデハルくん。ノックくらいしてね。エチケットだよ」
カナートに悲鳴を上げられた。
「あっ、ごっ、ごめんっ!」
英晴は慌てて謝り扉を閉めた。
カナートが便座に腰掛けて気持ち良さそうに用を足している最中に出くわしてしまったのだ。恥部はとっさに両手で覆われたため見えなかったが、カナートが穿いていたサボテン柄のショーツは英晴の目にしっかりと焼き付いてしまった。
やってしまった。でも、悪いのはカナートちゃんの方だよ。あの子達だって俺のトイレ覗き込んで来たし。
英晴は自分は悪くないと思いながら自室へ向かって階段を上っていく。
「あっ、英晴お兄さん。今から『ウルビーノのヴィーナス』のポーズでヌードモデルしてくれへん?」
途中で智晴とばったり遭遇してしまった。
「アホか」
英晴は呆れ顔で言い、智晴とすれ違う。
「冗談やって♪ うち、今から放尿してくるから、覗いたら嫌よ」
「智晴っ、トイレなら、たった今父さんが入ったぞ」
「そうなんや。ほなもうしばらくしてから行くわ~」
智晴はそう伝えて自室に戻ってくれた。
危ねえーっ!
とっさについた嘘が功を奏し、ホッと一安心した英晴が自室の扉を開くと、フィヨルドは英晴の所有するマンガを読み、セルバとテラロッサは携帯型ゲームで遊んでいた。
「ちょっと寒いな。あのう、もう一度言うけど、あまり俺の部屋を荒らさないでね」
英晴が優しく注意すると、
「Извините.(イズヴィニーチェ)英晴さん。すぐに元の位置へ戻します」
「了解、Mas・ヒデハル」
「英晴お兄ちゃん、すぐにお片づけするね」
三人とも快く応じてくれた。
「ありがとう。大事に扱ってくれるんだったら俺の所有物好きに使ってもいいよ」
英晴は快く条件付きでこんな許可を出すと、
「英晴さん、Большое спасибо.(バリショーエ スパシーバ)」
「英晴お兄ちゃん、大事に使うね」
「壊したり破いたり濡らしたりしないように丁寧に扱うぜ」
三人はまた取り出して、さっきと同じような状態でくつろぎ始めたのだった。
めっちゃ良い子達だな。
英晴はそう思いながら朗らかな気分で椅子に腰掛けた直後、
「ヒデハルくぅーん」
「もう、英晴君ったら。シャイな男の子ね」
部屋の扉がガチャッと開かれ、戻って来たカナートとクスコから声をかけられた。
「ごっ、ごめんなさぁーっい」
英晴は反射的に謝る。
「ヒデハルくん、覗かれたこと、ワタシは全然気にしてないよ」
カナートは頬をピンク色に染めながら自分の気持ちを伝える。
「わたくしもカナートちゃんのあとに済ませたわよ。カナートちゃんの体温で便座熱くなったせいでお尻ちょっと火傷しちゃったわ。英晴君、なんで逃げたのかな? 男の子ならこういうシチュエーション大喜びすると思ったのに」
クスコは不思議そうに尋ねて来た。
「ギャルゲーの世界じゃないんだから」
英晴は困惑顔ですかさず突っ込む。
「Mas・ヒデハル、アタシ達はみんな普通に排泄行為をするからね。人間状態時は現実の女の子と生物学的特徴がほとんど同じだから。おしっこする量はアタシが一番多いぜ。あとSi・テラロッサ以外は月一、数日に渡って血液が子宮から体外に排出される現象も起きるぜ。現実の人間の女の子で言うとアノ日のことだよ。Mas・ヒデハル、このことを正式名称で何と言うかもちろん知ってるよね? 保健の授業とかで習ったでしょ?」
セルバは少し照れくさそうに訊く。
「……さてと、勉強始めなくちゃ」
英晴は俯き加減に呟き、数学の問題を解き始める。
「ヒデハルくん真面目だね」
「俺の通ってる高校、進学校だから予習復習しっかりしないとすぐについていけなくなっちゃうから」
「あたし、これから英晴お兄ちゃんとテレビゲームで遊びたいのに」
テラロッサは不満そうに呟く。
「テラロッサさん、学生の本分は勉学に励むことって妹さんの智晴さんも言っていることですし、勉強中は邪魔しないようにしてあげましょうね」
「はーい」
「ごめんね、みんな。平日は特に勉強忙しいから」
英晴は申し訳なさそうに伝えた直後、
「英晴お兄さん、マンガ返しに来たよ」
智晴にノックもなしに入り込まれてしまった。
「智晴、勉強の邪魔だからそれ置いたら早く出て行って」
「分かったわ」
気候擬人化キャラ達は目にも留まらぬ速さでぬいぐるみに戻り、間一髪、人間化した姿は見られずに済んだ。
智晴がこの部屋から出て行ってから三十秒ほどして、みんな一斉に人間化してくる。
「智晴ちゃんのお部屋って、一般人には耐えられない雰囲気ね」
「チハルちゃんのお部屋は妹だけど姉クメーネだね。人間が定住出来ないアネクメーネになぞらえて」
「Mbak・チハルの部屋の気候区分は変帯だな」
「智晴それ自虐気味に言ってたよ」
思わず笑ってしまった英晴は、勉強を再開。
「クスコちゃん、お尻大丈夫? スカートとパンツ脱がすね」
「大丈夫よカナートちゃん。ちょっとヒリヒリするくらいだから」
「クスコちゃんのお尻、ちょっと赤くなっちゃってるね。アナアーシファ、クスコちゃん、痛い思いさせちゃって」
「気にしないで。高山病に罹るより遥かに症状軽いから」
「クスコお姉ちゃんのお尻、ニホンザルさんのお尻ほどは赤くないよ」
「Mbak・カナート、Mbak・クスコのお尻を焼畑にしちゃったんだな」
「クスコさん、冷やしますね」
「スルパイキ、フィヨルドちゃん、ひゃんっ! 冷た過ぎるわ。今度は凍傷になっちゃう」
「イズヴィニーチェ、クスコさん」
クスコはケチュア語でお礼を言い、フィヨルドにお尻に両手をじかに当ててもらった。
「……」
すぐ後方で起きているこんな状況から、英晴は集中力を削がれるのだった。
それでもその後カナート達が気を遣って各自、英晴の所有するマンガや雑誌、携帯型ゲームなどで楽しんで静かに過ごしてくれると、
なんかいつも以上に勉強が捗る。頭が冴えてる気がする。室温が快適な環境になってるからだな。
英晴は普段よりも集中して勉強に励むことが出来た。
☆
まもなく日付が変わる頃、
「英晴お兄ちゃん、あたし、もう眠いから、寝るね」
「ミナも眠いので寝ます。仮に白夜であっても深夜まで起きているのは辛いです。スパコイナイノーチ。ヒュヴァーウオタ。グナット」
「アタシも眠くなって来たぜ。メガネザルみたいに夜行性じゃないからな。Mas・ヒデハル、あとは頑張ってね。スラマッティドゥール」
睡魔に負けたフィヨルドはぬいぐるみ化し、テラロッサとセルバは対応の設定資料集内にイラスト化して就寝。
「二次元化も出来るなんて、智晴ますます凄いな」
まだ勉強を頑張っている英晴は感心気味に見送る。
「英晴君、夏にぴったりの夜食よ。元気が出るわよ」
クスコは英晴のために学習机の上に、あるメニューを置いてくれた。メキシコ料理の代表、タコスだった。
「ありがとうクスコちゃん。俺これ好きだよ。これも地図帳から取り出したんだね」
「その通りよ。食べ物だって取り出せるの。ちなみにメキシコシティは高山気候の代表的な都市の一つよ」
「ヒデハルくん、これ食べて一息つこう!」
「じゃあ、いただきます」
英語の復習中だった英晴は一旦シャーペンを置き、とうもろこし粉で作った薄焼きパン《トルティーヤ》の部分を手で掴んで挟まれた牛肉のサイコロステーキ、玉葱、トマト、コリアンダーなどの具といっしょに口に運び入れた。
「本物みたいだな。サルサもたっぷりかかっててめっちゃ美味い♪」
そして満足げに一気に平らげていく。
「ヒデハルくん、お口直しのナツメヤシだよ」
カナートは重量にして約十キロ、千個ほどの果実が詰まった一房丸ごと机の上に置いた。
「ありがたいけど、そのままじゃ食べられないよ」
英晴はちょっぴり困ってしまう。
「アナアーシファ」
カナートはてへっと笑った。
「カナートちゃんも物を取り出せる能力持ってたんだね」
「取り出したんじゃなくて召喚したんだよ。気候に関するアイテムを召喚出来る能力はみんな持ってるよ」
「わたくしも、アルパカとかを召喚出来るわ。こんな風に」
「うわっ!」
クスコが手をグーの形から広げると、英晴のお部屋に一頭のアルパカが現れた。
「これ、本物だよな?」
英晴は恐る恐るアルパカの背中に手を触れると、アルパカはくるっと体の向きを変えて英晴の方を振り向いた。
フェェェェェ~♪ と鳴き声も上げる。
「本物みたいだな。獣臭さも漂ってるし」
英晴は驚き顔を浮かべつつ、ハハッと笑う。
「本物よ。唾吐かれないうちに片づけておくわね」
クスコは微笑み顔で言い、アルパカの頭にそっと手を触れるとアルパカの姿は一瞬で消滅した。
「智晴、こんな設定も作ってたのか」
英晴は強く感心する。
「ヒデハルくん、これもどうぞ。エジプトのお茶だよ」
カナートはナツメヤシの実を消したあと、グラスに注がれたカルカデと呼ばれるエジプト風ハイビスカスティーを召喚した。
「ありがとう。おう、初めて体験した味だけど、けっこう美味いな」
英晴はルビー色のそれを飲み干して一息つくと再びシャーペンを手に取り、英文読解の演習問題を解いていく。五人全員人間化していたさっきと比べて暑くてちょっと息苦しくなり、集中力が削がれたためか、その後は十分程度で家庭学習をやめた。
英晴が歯磨きとトイレを済ませて来て時刻は午前0時半過ぎ。
「ティスバフアラヘール! ヒデハルくん」
「英晴君、Buenas noches.Allin tuta.無理し過ぎないようにね。今日は二次元化して寝るわ」
カナートとクスコが設定資料集内に飛び込んでイラスト化するのを見送って、
「おやすみー」
英晴は楽しげな気分でお布団に潜り込む。
あの子達、顔もしぐさも声もすごく萌えるな。智晴凄過ぎだろ。
英晴はより一層妹への尊敬度が増したようだ。彼が眠り付いてから数分のち、
「英晴さんの寝顔、なまらめんこいです」
眼鏡を外したフィヨルドは人間化して、英晴の寝顔を覗き込むとまたぬいぐるみへ戻っていったのだった。
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