第13話 花は無言で語る
翌朝のことである。
若い者が高級男娼たちの部屋から食べ終わった台を、次々に運んでくる。
その中に、一つだけほとんど手付かずで戻ってきた台があった。
「あれ、これ誰の?」
「夕顔さんのです」
若い者の答えに、おせんが
「おかしいなあ、これ全部夕顔の好物だったよなあ」
「……おせんちゃん。ちょっとここ任せてもいい?」
「ああ、いいけど。どこ行くんだ」
「ちょっと夕顔のところに」
「それならちょうどいい。これを夕顔に渡しといてくれるか」
そう言っておせんは着物の
質素な作りの櫛ではあったが質は良い。とても飯炊き女が買えるような代物ではなかった。
「どうしたのこれ」
「櫛が壊れて困ってたとき、夕顔が貸してくれたんだよ」
おせんから預かった櫛を持って夕顔の部屋に行くと、
美青年の憂い顔というのはどうしてこうも絵になるのだろう。辺りにはしっとりと濡れたような雰囲気が漂い、まるで雨露にあたった
夕顔が悩ましげに眉を寄せ、ひっそりとため息をつく。
昨日のことがよほど堪えているのだろう。
「はい、これ」
ことさら明るく声を掛ける。
夕顔の優しげな目線がゆったりと、すずへ向けられる。
「おせんちゃんも律儀だな。別に返さなくてもよかったのに」
「借りたって言ってたよ」
「俺はあげたつもりだったよ」
あれほどぽんぽん買う割に本当に執着がないらしい。受け取った櫛を無造作に出格子の上に置いた。
「朝餉ほとんど残してたけど体調悪いの?」
「食欲ないだけ。よくあることだから」
そういう夕顔の顔色はいつにも増して白い気がした。
「……昨日のこと?」
夕顔が困ったように力無く笑う。
「昼三男娼なのに格好悪いところ見られちゃったね」
「格好悪いっていうか、意外だった。夕顔って落ち着いてるし、お金の管理もしっかりしてそう……って」
思ったことをすらすら並べていれば、夕顔がたちまち花のようにしおれていく。
「ごめん! そういうつもりじゃ」
「いいよ。実際その通りだから」
夕顔が、ふうっと深いため息をついた。
部屋に湿った沈黙が落ちる。雨上がりのようなどこか息苦しい空気の濃さがある。
すずが居たたまれない思いで、座った足をもぞもぞ動かしていると、夕顔が再び外へと視線を向ける。
「……反物とかが好きっていうのもあるけど、たぶん俺は女の人が喜ぶのが好きなんだ。嬉しそうに笑う顔、恥ずかしそうにはにかむ顔。商売用の作り笑いでもいいんだ。そういう顔が見たくてつい買ってしまう」
「男娼なのに? 男娼って女の人を良い気分にさせてお金をもらうんでしょ」
女に
「男娼だから、かな」
「男娼だから?」
「俺たち男娼はひと時の甘い夢と色を売ってる。女の人は俺たちの言葉に酔い、
夕顔の澄んだ瞳に影がよぎる。
「それって自由がないってこと……?」
「ううん、そうじゃない。そうじゃなくて……言葉にするのは難しいね。きっと自分でもよくわかってないんだ。無性に女の人の笑った顔が恋しくなって、どんなに大金を払ってでもいいから笑ってくれ、嬉しそうな顔をしてくれって思うんだ」
そういう夕顔の顔は、苦しそうに歪められていた。
胸の奥をぎゅうぅっと
初めての感情に戸惑う。
こういうとき、なんと言えばいいのかわからない。かといって本当に抱きしめるわけにもいかない。
わずかな
「お金……」
「うん?」
「大丈夫なの?」
「どうだろうね」
まるで他人事のような頼りない返事に、すずは脱力しかける。
と同時に密かにあることを決意した。
「ねえその櫛、私がもらってもいい?」
「構わないよ」
夕顔から渡された櫛を握りしめ、すずは勢いよく立ち上がった。部屋を出る手前で立ち止り、くるりと振り返る。
「夕顔、絶対に女吉原に行かない方がいいよ」
夕顔が苦笑する。
「忠告ありがとう」
その翌日、すずは文字通り目が回るほど忙しかった。
飯炊き女としての仕事がない隙間時間を縫って、まだ慣れない男吉原の道を走り回った。
行き先は主に
「えぇ、またツケかい? 葵屋さんとこの男娼はとかく金払いがいいんだけどねえ。夕顔さんはねえ……」
「そこをなんとか!」
「そうは言われてもこっちも商売だからなあ。そうだ、今日一日あんたがうちの使いっ走りになるってのはどうだい? それなら多少は大目に見るよ」
いわば
「うぅ……致し方ない。やります!」
くたくたになるまで走らされ、ようやく解放された後は質屋に向かう。
「この櫛で二分貸してください」
「どれどれ。いやあ、そうは貸せんなあ」
「明日には
「当てがあるのかい? なら一分でどうだ?」
「一分八朱!」
「一分五朱」
「それでいい!」
質屋相手の交渉に変に気疲れしつつ、妓楼に戻ってからは甚五郎の元へと行く。
「あらあ、すずちゃんが前借り? なにか欲しいものでもあるのかしらあ?」
「い、いやちょっと……」
甚五郎の好奇の視線をかわし、なんとか少額の金を借りると、すずはそのまま夕顔の部屋へと向かった。
部屋には月の兎と宿木も転がり込んで、夜見世までの自由時間を過ごしていた。
ごろりと寝転んだ状態で、月の兎が見上げてくる。まだ支度をしていないため、着流し姿で豪快に足を開いている。
「ちょ、足、足!」
慌ててすずが顔の前を手で覆う。
「なんだよ、おまえがいきなり入ってきたんじゃねえか」
月の兎がぶつくさと文句を言いながら、はだけた足を着物で隠した。
「ここでそんなの気にするの、あんたぐらいだよ」
「うそ!? おせんちゃんは?」
「あの子はそういうの気にしないからねえ」
宿木と夕顔の反応に、すずは驚愕する。
もともと男吉原には、特に葵屋には女の数自体が少ないのだが、それでも妙齢の男女が一つ屋根の下で暮らしているのだ。色気溢れる男娼たちの
「慣れだろ」
「おせんなんか、俺たち見ても丸太ぐらいにしか思ってないね」
「ま、丸太……。私、丸太と間違い起こしそう……」
「誰がおめえみてえな奴と間違い起こすんだよ、馬鹿」
月の兎に反論しようと口を開きかけ、本来ここにきた目的を思い出す。
「あ、そうだった。夕顔、はいこれ」
すずに差し出されるがまま受け取った夕顔が、布に包まれたものを見て、きょとんとする。
「なに、これ?」
「だからあちこちにツケがあるんでしょ。これで返して」
男娼三人が揃って目を白黒させる。
「おまえ……これどっから盗んできたんだよ」
「失礼ね! ちゃんと正しく手に入れたお金だってば」
「どうしてすずちゃんが……?」
「どうしてって……夕顔が本当に困ってたから……」
改めて訊かれてもそれ以外に理由が思い当たらない。
すずが答えに窮していると、ぶっ、と宿木が噴き出した。
「い、いや、ははっ。これは傑作!」
宿木につられるように、堪えていたらしい月の兎も腹を抱えて笑い出す。
「だめだ、こりゃ。おも、おもしろすぎて! ひっひっひぃ、笑い死にそうだ!」
畳をばんばん叩いて笑い転げる二人に、すずは混乱するばかりである。
夕顔が気まずそうに部屋の奥の
「なんで!? だって昨日は確かにお金がないって……」
呆気に取られるすずに、まだ笑いが止まらない月の兎が舌を噛みそうになりながら言う。
「俺たちが昼三男娼だって忘れたのか」
「昨日は確かになかったんだけど、今日の昼見世で馴染みの客に来てもらってね。お金がなくなっちゃったって呟いたら」
これ、というように夕顔が金子の包みを持ち上げる。
「う、うそぉ……」
昼間の苦労を思い出して、すずは体中から力が抜けていくのを感じた。
「夕顔の金がない、は万年だから」
宿木がしれっと言う。
「万年? じゃあお金が足りなくなっちゃうのも今回が初めてじゃないの?」
「むしろ日常茶飯事だろ。金がなくなって、飯食わなくなって、儚く今にも消えそうな夕顔を見て、女たちが可哀想! つって湯水のように金を使うのも」
「俺は一言も頂戴って言ってないんだけどね」
悪びれた様子もなくそう宣う夕顔に、すずは男吉原に住む恐ろしさを思い知ったのだった。
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