第12話 うら屋は千里を見通す

 あたたかな陽光が降り注ぐ昼下がり。明九ツをむかえた男吉原では昼見世が始まっていた。


 自由時間をごろごろと過ごしていた男娼たちが二階から下りてきては、ぞろぞろと張見世の中に入っていく光景ももう見慣れたものである。


「それじゃあ、あたしは買い出しに行ってくるよ」


 おせんが濡れた手を手拭いで拭きながら、下駄を突っかける。


「はーい。いってらっしゃい」


 返事をしつつ、すずも軽衫袴かるさんはかまに飛んだ水を払った。

 洗い物も終え、これで夜まではすずの自由時間である。


 うららかな日差しにつられるように、入口の暖簾のれんをくぐって外に出る。

 見世の前の通りはちらちらと人が通るものの、客らしい客は歩いていない。


 夜見世と比べ、昼見世は大体いつもこんなものだった。やはり男吉原の本番は欲がうずきだし、妖艶な雰囲気が立ち込める夜なのだ。


 張見世の中を見ると、月の兎と宿木が他の男娼を交え、カルタに興じていた。


 当然、通りからその様子は丸見えである。客の視線を感じながらのカルタ故、月の兎も素の顔ではなく、男娼としての顔で優美に遊んでいる。その姿からは到底普段の顔は想像できない。

 いったい誰が麗しく澄ました顔立ちの男娼が、「べらんめえ調」で話すなど思うだろうか。


 と、その化けぶりに半ば感心していたすずは、夕顔が一人、格子の隅にいることに気が付いた。


 何をしているのかと近づいてみれば、一人の女と話している。

 どうも客ではなさそうだった。


 夕顔は格子の隙間から手を出し、女がその手をまじまじと見つめているのである。

 女は夕顔の手を裏にしたり表にしたりすると、考え込むようにあごに手をやった。


「どうかな」


 どこか不安そうな夕顔の声。

 いつにないその様子に、すずは思わず声を掛けていた。


「どうしたの?」


 夕顔が困ったように笑う。


「うら屋さんだよ」


「うら屋って……手相を見てもらってるの?」


 夕顔が頷く。


 女吉原に易者えきしゃがいることは知っていたが、男吉原でも占いが流行っているとは知らなかった。

 ましてや夕顔のような落ち着いた男娼が手相や易を信じているのが、なんとなく意外だった。


 すずがそう言うと、夕顔の方も不思議そうな顔をする。


「そう? 結構、当たるんだよ」


「どうせ当たるも八卦はっけ、当たらぬも八卦さ」


 宿木の茶々に苦笑を浮かべながら、夕顔が格子越しにすずを見る。


「すずちゃんも占ってもらう?」


「え、私は別に……」


 いいや、そう言おうとしたとき、手相占いの女がハッとしたように夕顔を見た。


「金運に凶の相が出ています」


 夕顔の顔がさっと曇る。


「ど、どのくらい……?」


「これは……すごい。大凶と言ってもいいでしょう」


 みるみる悲壮な顔つきになっていく夕顔があまりにも可哀想で、咄嗟に割って入る。


「ちょっとそんな適当な」


「いいえ、これは事実です。お気の毒ですが、現実を受け入れなさい」


 淡々と宣告する手相占いの女は、すずから見ればいかにも胡散臭いが、夕顔はすっかり信じ切っているようで、がっくりと肩を落とし、張見世の奥の方へと戻っていく。


 その日は一日中どんよりとした空気をまとっていた夕顔だが、翌日になるともうすっかり忘れたかのように昼見世に出ていた。

 心配したすずとしては損した気分だったが、やはり夕顔は微笑みをたたえている方が似合う。


 相変わらず暇そうな雰囲気の昼見世を覗きながらそんなことを思っていると、夕顔が総籬そうまがきの方に寄っていくのが見えた。


 総籬の外の床机には、呉服屋の女が目にも鮮やかな反物を広げている。

 その華やかさは妓楼の華をぎゅっと凝縮したように魅力的で、すずの足も自然とそちらへと向いた。


「わぁ、きれい!」


「そうでしょう。うちの反物は上質な糸を使ってますからね」


 妙齢の呉服屋の女がしなを作って笑う。


 呉服屋にとって男吉原の男娼たちは大の得意先である。美しく高級な反物を持参しては、男娼に売込みをかけるのだ。


 男娼としても着物は商売道具であると同時に、眺める楽しみの一つだった。

 みな反物を買って着物を新調したいが、いかんせん高いのである。そうおいそれと手を出せるものではない。必然的に頻繁に反物を買えるのは、客から多額の祝儀を引き出せる高級男娼だけとなる。


 呉服屋が来たとして集まってきた男娼たちが指をくわえて反物を見つめる傍ら、月の兎が夕焼けの色を切り取ったような反物を注文する。


「帯はそっちの反物で」


 気前よくぽんぽんと注文する月の兎に、呉服屋の女は喜色満面である。


「信じられない……」


 すずには夢のまた夢の話である。


「俺も買おう」


 反物の色を見比べていた夕顔が、呉服屋の女に声を掛ける。


「それとこれと、あとそっちのも」


 そのあまりの買いっぷりにすずが言葉を失っていると、立って見ていた宿木が呆れ声を出す。


「夕顔は反物に目がないんだよ」


「それにしてもこれは……」


 いったいいくらになるのか、すずには想像もつかない。


「月の兎さん、夕顔さん。いつも毎度ありがとうございますぅ」


 呉服屋の女がこれ以上ないというほどの笑顔でそろばんを弾く。


 と、張見世の前の通りを、少女のあどけない声が響いた。


「たまぁご、たまぁご」


 男吉原と女吉原ならではの玉子売りである。玉子は高価な食材であり、庶民には縁遠い食べ物だったが、ここ男吉原ではある理由からよく売れるのだ。


「夕顔さん」


 玉子売りの少女が狙いすましたように夕顔に呼びかける。


「ああ、やえちゃん」


 夕顔がにこやかな笑みを浮かべて、格子へと近づく。


「たまご、いかがですか?」


「うーん、どうしよう」


「今日のもすごくおいしいですよ。それに」


 玉子売りの少女は内緒話でも打ち明けるかのように、格子に口を近づける。


「精が出ますよ。夕顔さんには特別にお安くしちゃいますから」


 にっこりと笑う玉子売りの少女。


「じゃあ、もらおうかな」


 夕顔が若い者を呼び、玉子を買うように言いつけたとき、小間物こまものを売る行商人が通りがかった。


「葵屋さんとこの男娼方。紅はどうだい?」


 数人の男娼たちが集まっていくが、夕顔は見向きもしない。


「夕顔って反物は好きだけど、紅には興味ないのかな」


「いや、あいつの場合は」


 月の兎が何か言いかけたときである。

 うら若い女の声が前の通りを横切っていく。


「べにぃ、おしろぉい」


「おきくちゃん、こっちこっち」


 夕顔が呼び止める。


「あらあ、夕顔さん。紅、買ってくれるの?」


「うん、紅がもうなくなっちゃってね。一つ買おうと思ってたんだ」


 夕顔が再び若い者を呼びつける。

 唖然とするすずに、月の兎が言いかけていた言葉の続きを教えてくれる。


「夕顔は男からは絶対に買わない。そして女の行商相手には滅法弱い」


 開いた口がふさがらないとはこのことである。

 すずはそこで昨日の占いを思い出した。


『金運に大凶の相が出ています』


 なんとなく嫌な予感がした。


「ね、ねえ夕顔。あんなに買っちゃって、お金大丈夫なの……?」


「うん。平気だよ?」


「そいつの平気はあてにならないぞ」


 宿木が張見世の中から突っ込む。


「ま、まさか行商で女の人が来る度に買ってるわけじゃ……」


 空恐ろしくなって聞けば、夕顔は少し気まずそうに頬をかく。


「いやほら、彼女たちだって生活掛かってるし。あっちの子のは買って、こっちは買わないじゃ可哀想だからね」


「そんなこと言ったら、道を歩くすべての子のを買うことになるじゃない。必要じゃないものは要りませんって言わなきゃ」


「要らないわけじゃないんだよ。いつかは使うわけだし。それを要らないっていうのは悪いから」


「悪くないよ、それ……」


 途方もない相手と話していることに気づき、すずはどっぷりとため息をついた。


「夕顔さん」


 再びの呼びかけに、夕顔が口を開くより先にすずが反応する。


「もう要りません!」


「あ、いえ……。すでに先ほど反物を買うとおっしゃって頂いたので」


 見れば呉服屋の女が困ったような笑みを浮かべていた。


「反物ね。うん、買うよ」


「それが……妓楼の番頭さんに、夕顔さんのお金が足りないと言われてしまいまして」


 夕顔の美しい微笑みが、氷の彫像のようにぴしりと固まる。

 すずは手相占いの真価を思い知ったのだった。

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