第11話 飼い猫はきちんとしつけて下さい

「あっはは、なんだその面」


 すずの顔を見るなり、腹を抱えて笑い出したのは月の兎である。


 夜叉女との一件があった翌朝だった。夜明け前に客を帰した男娼たちは大抵二度寝の床につき、一人で爆睡した後、明四ツ頃に起き出してくる。


 すずたち奉公人はとっくに働いている刻である。

 男娼たちの朝餉あさげを並べていたすずは、恨みのこもった目で月の兎を見た。


「引っ掻かれた」


「どこの猫ちゃんに引っ掻かれたって?」


 起床後の入浴を済ませた夕顔が、さっぱりとした顔で広間へとやってきた。


「月の兎の飼い猫」


 そう答えるすずの顔には、見事なまでの爪痕つめあとが左右の頬に幾筋も走っている。まさに猫が両手を広げて跳びかかってきたような有様である。


「そりゃ災難だったなー」


 まったく感情のこもっていない声で宿木が言う。起き抜けのくせに、下級男娼たちのために並べた飯台の上の漬物をひょいとつまむ。


 漬物を奪われた男娼がしゅんと肩を落とした。男吉原はとにかく序列が厳しいのだ。上の位の男娼に文句を言うことは許されない。

 すずはすかさず宿木の手をはたいた。


「痛て」


 その手から落ちた漬物を男娼に返しつつ、すずが軽く睨むと、宿木はつまらなさそうにそっぽを向いた。


「災難どころじゃないよ」


「逃げ足のとろい奴だな。さっさと逃げりゃよかったじゃねえか」


「逃げる? あの妖怪みたいな人からどうやって逃げるの」


 とても逃げる余裕などなかった。すずがそう言うと、宿木がにやりと笑った。


「そういうときはこう言えばいいんだ。『月の兎、どうもあなたに会うのが恥ずかしいみたいで。月の兎の部屋まで迎えに行ってもらえませんか。きっと喜びます』ってな」


「おいこら宿木。んなことしたら、俺の部屋が血みどろになるじゃねえか」


「いいじゃん、血みどろ。いかにも男吉原って感じで」


 宿木は楽しそうだったが、夕顔は嫌そうに眉をしかめた。


「血の臭い、嫌いなんだよね」


 朝から血生臭い話をされながらも、下級男娼たちは気にすることなく、朝餉にがっついている。男吉原でこの手の話は日常茶飯事らしい。


「とにかく、私はもう絶対にあの女の人の相手はしないから!」


 すずはそう断言する。


「おまえに拒否権はねえ」


 月の兎は空いている席にどっかり腰を下ろし、足を組む。その拍子に着流しのすそがめくれて、ほどよく筋肉のついたふくらはぎが目に入った。

 その瞬間、昨夜のことが生々しく思い出された。


 月の兎も夕顔も宿木も、みんなああいうことをしているのだ。そう思うと、彼らの顔をまともに見られない。


 だって想像すると、想像すると……。


 みるみる顔に熱が集まっていくのがわかる。


「すずちゃん、どうしたの? 顔赤いよ」


「どれ?」


 夕顔と月の兎にしげしげと見つめられ、すずの緊張はますます上りつめていく。


「その顔はいやらしいことを考えてる顔だね」


 宿木がにやにやと笑う。


「ち、ちが」


 慌てて否定するも、宿木はより一層悪鬼のような笑みを深めていく。


「いーや。男娼の勘を舐めてもらっちゃ困るね。それは間違いなくスケベな顔だよ」


「違うってば!」


「へえ、すずちゃんもそういうこと考えるんだ。可愛いな。今日あたり俺が色々教えてあげようか?」


 そう言って顔を近づけてくる夕顔の行為は、ほとんど暴力に近い。


「ああ、思い出した!」


 と、急に月の兎が声を上げた。

 すずはぎくりとなる。まずい。このままでは昨夜の、月の兎の部屋を覗いてしまったことが、みんなにバレる。そうなったらもっとからかわれるに違いない。


「いやあれは」


「今日は髪結いの日じゃねえか。早く支度しねえと」


 月の兎の言葉で、夕顔と宿木のいたずらっぽい笑いが引っ込む。


「ああ、そういえばそうだね」


「俺もそろそろ切るか」


 あっという間に現実に帰っていく二人を見送りながら、すずが意外な面持ちで月の兎を見ると、月の兎が二本の指を立てていた。


 どういう意味かといぶかしんでいると、月の兎が声に出さずに唇を動かす。


 か、し、に、こ、め。――貸し二個目。


 げっ、と声に出したすずに意地悪そうな笑みを残して、月の兎はひらひらと手を振りながら内湯の方へと歩いて行った。

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