第10話 無粋ぐらいがちょうどいい

 月の兎の部屋は静まり返っていた。

 明かりもまったくついていなかったが、人がいる気配はあった。それにわずかな衣擦きぬずれの音と、耳を澄ませば、ささやくような低い声が聞こえた。


「もし」


 先ほどのことがあるせいか、思ったより小さな声になる。

 返事はない。


 早く、早くしないと、さっきの女の人が本当に首切っちゃうよ。

 気が急いた。あの女の人の目は明らかに常軌じょうきを逸していた。


 月の兎が遅ければ、本当に首を切ってしまいかねない勢いだった。夜叉のような女が首を切って果てている姿など、恐ろしすぎて想像しただけで卒倒しそうである。

 腕に鳥肌が立ち始める。もう一度呼ぼうかとも思ったが、また聞こえない可能性もある。


 こうしている間にも、女の人が首筋に刃を――。

 すずはほとんど反射的に障子に手を掛けた。


 暗がりの中、白っぽいものがぼんやりと浮かび上がる。ゆうらり、ゆうらりとした動きは、まるで幽霊があの世へと誘っているかのようである。

 だが不思議と怖いとは思わなかった。むしろ惹き寄せられるように目を凝らす。


 廊下の八間はちけんの明かりに照らされ、その姿が明らかになった。

 すずの喉が締め付けられたように、きゅうっと鳴った。


 それは全裸の女と、真っ白な床着一枚となった月の兎であった。月の兎は床着を太ももの辺りまでめくり上げ、全裸の女の上にのしかかっている。


「う、わ……」


 目が月の兎に――そのたくましい太ももに釘づけになる。ふいに足から力が抜け、すずはへたりとその場に座り込んだ。

 時刻にすればほんの一瞬のはずが、数刻にも感じられた。


「おい、閉めろ」


 月の兎が低い声で言う。


「こ、これは粗相そそうを!」


 すずは慌てて障子を勢いよく閉めた。


 まぶたの裏に、暗闇に浮かぶ床着姿の月の兎が焼き付いて離れない。

 父親以外で男の人の生の肌を見たのは初めてだった。しかもそれが大見世の男娼とくれば、もはやこの世のものとは思えない神々しさである。


 背骨を雷で貫かれたような、しびれるような衝撃があった。

 立ち上がろうにも腰が抜けてしまったのか、うまく立ち上がれなかった。


 ここは男吉原。男娼が暗い部屋ですることは決まっている。驚く方がおかしいのだ。

 それでもすずには刺激が強すぎた。男娼の美しさばかりに気を取られ、舞い上がる日々を過ごしていたせいで、肝心の部分のことがすっかり頭から抜け飛んでいたのである。


 放心したようにすずがぼんやりしていると、部屋の障子が再び開いた。

 部屋の前にすずがへたり込んでいるのを見ると、月の兎は呆れたようにため息をついた。


「ったく、おまえも無粋ぶすいな奴だな」


「あ、その……」


「俺たちが部屋に入ってるときはちゃんと声ぐらい掛けろ」


「か、掛けたよ! 掛けたけど返事がなかったから……」


「ならもうちょい大きな声で掛けろ。それで何の用だったんだ」


 月の兎に問われ、重大なことを思い出す。

 すずが夜叉女のことを言うと、月の兎の顔はみるみる苦くなった。


「……おまえ言ってこい」


「え?」


「だからもう少し待ってろって言ってこい。で、誰か空いてる奴を名代として行かせろ」


「冗談でしょ!? そんなことしたら、私が殺されちゃうよ! ううん、それよりもあの女の人が首切ってるかもしれない……!」


「あいつは酔うと、いつも首切る首切るって言うんだよ。草刈りじゃあるめえし」


「そ、そんな冗談言ってる場合じゃないってば」


「いいから行ってこいって」


「嫌だよ!」


 すずと月の兎が部屋の前で押し問答をしていると、部屋の中から女が甘えた声を出す。


「ちょっとー月の兎。早く続きしてよー」


「ほら、客が呼んでんだ」


 部屋に戻ろうとする月の兎の床着のすそを、むんずと掴む。


「月の兎のお客さんでしょ。月の兎が行ってよ」


 月の兎が舌打ちをする。


「俺を誰だと思ってんだ。昼三男娼だぜ。で、おまえは?」


「……飯炊き女」


「だろ。俺の言うことを聞け。それにおまえには貸しがあるんだからな」


「貸し?」


「食あたりの一件をうまく片付けてやったのは俺だぜ」


「それずるい!」


「ほお、上等じゃねえか。なら食あたりの犯人がおまえだって、おやじさんにばらしてもいいんだな? 河岸見世の鉄砲女郎行きだぜ」


 すずはぐうっと黙り込む。


 なんて卑怯ひきょうな奴だろう。それを言い出されたら、すずに勝ち目などないのだ。

 月の兎はふてぶてしく勝ち誇った顔ですずを見下ろしている。


「……わかった」


 屈辱にまみれた返事である。


「よぉし。じゃあさっさと行ってこい」


 月の兎は満足そうに頷くと、部屋に入り、ぴしゃりと障子を後ろ手で閉めた。

 



「美しい顔なのに腹は真っ黒なんて、たちが悪いにもほどがある!」


 食あたりの件をかばってもらったときは、実は腹黒じゃなかったのかもしれないと思ったすずだったが、いまや月の兎への評価は滝のように急降下中である。


 月の兎への怒りを原動力に、廊下を踏み鳴らして廻し部屋と逆戻りするも、部屋が近づくにつれ怖気おじけの方が強くなってくる。


「もう首切ってたらどうしよう……」


 部屋の前まで来たところで、ぞくっと寒気がし、いますぐ回れ右をしたい衝動に駆られる。


「大丈夫。切ってない切ってない。草刈りじゃないんだから」


 呪文のように月の兎の言葉を唱えながら、障子越しに声をかける。


「あ、あのう……」


 今度は向こうから障子を開けてこなかった。


 仕方なくすずの方から障子を開ける。暗闇の奥の方にいるらしい夜叉女が、わずかにこちらを振り返る。どうやら首は無事につながっているらしい。


 首なし死体を見なくて済んだことにひとまず安堵しつつ、月の兎からの伝言を告げる。


「月の兎がもう少し待っていてほしい、と……」


 沈黙――。空恐ろしいほどの静けさ。


 金縛りにでもあったように動けなくなったすずは、夜叉女がぐるりと体を反転させるのを見た。


 そして次の瞬間――。


 四つんいになった夜叉女が物凄い勢いで眼前に迫った。

 その凄まじい顔面に、発狂しそうな恐怖が体中を突き抜けた。


「ぎゃああああああ――……」

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