第9話 色に狂う女

 暮五ツになる頃には張見世の中から半分ほどの男娼が消え、妓楼の二階からは宴会の賑やかな音が響いていた。

 幇間ほうかんや芸者が宴席を盛り上げる音に混じって、忙しそうな廻し方の声が一階まで聞こえてくる。


「おい、田中様のところに誰か一人つけとけ」


「へい」


「それと三木様がとこでお待ちだ。すぐに菖蒲しょうぶを呼んでこい。あ、そこのお前。武田様のところに名代みょうだいをつけるんだ」


「へい!」


 廻し方の指示を受けて、若い者が二階の廊下をバタバタと走る。

 座敷や男娼の部屋がある二階全般を取り仕切るのが廻し方の仕事である。


 初会の客と引付座敷で対面するときは遣手の甚五郎が同席するが、そうでない場合はほとんどがこの廻し方に任されているのだ。


「ふう。今日はいつにも増して忙しいわねえ」


 悪酔いした客をなだめに行っていた甚五郎が、ため息とともに広間へと戻ってきた。

 すずはと言えば、台屋の料理を宴席に運ぶ手伝いをするなどしていたが、あらかたの料理を運び終え、少し前に広間に戻っていた。


「甚五郎さん、お疲れさま」


 ちょうどれていたお茶を甚五郎に手渡す。


「ありがとう。もう目が回りそうよお」


「いつもこうなのかと思った」


「さすがにここまで忙しいのは久方ぶりよお。臨時休業してた分、お客さんの熱の入れようがすごいったらないわ。お見舞いとか言いながら、男娼たちに無茶なことばっかり言うんだから」


 甚五郎は腹立だしそうにそう言うと、ずずずっとお茶をすすった。

 と、階段の方から一人の若い者が駆け下りてきた。


「甚五郎さん、甚五郎さん。廻し方が手が足りないから、誰か一人寄越してほしいって」


「あらあ、しょうがないわねえ」


 どっこいしょ、と腰を浮かせかけた甚五郎を、すずは手で押しとどめた。


「私が行くよ。甚五郎さんは休んでて」


「でもいいの? 二階は結構大変よお」


「平気、平気。夜見世の二階がどんな感じなのか見てみたいし」


 すずがそう言うと、甚五郎は心配そうな複雑そうな、何とも形容しがたい表情を浮かべた。

 すずはそれを遠慮と受け止めた。


 まだ何か言いたそうにしている甚五郎を強引に座らせ、意気揚々と二階へと向かったのだった。

 そこで男吉原の洗礼を浴びることになるとは露知らず――。



 二階は客の機嫌を取る男娼の笑い声や、女性客たちの甲高い嬌声きょうせいに満ちていた。

 あちこちの部屋の障子には酔って騒ぐ影がゆらゆらと映り、表座敷では派手なドンチャン騒ぎが繰り広げられていた。


 酔客や男娼、若い者が行きかう廊下で、すずは廻し方を探してきょろきょろと辺りを見回した。


「おっと、助っ人はすずさんか」


 廻し方の方がすずに気づいたらしい。人を避けるようにしてすずの方に来ると、申し訳なさそうに頭をがりがりと掻いた。


「早速で悪いが、井上様って客のところに行ってほしいんだ。月の兎の客なんだが、前の客がなかなか解放してくれないみたいでな」


「もう少しで来ますって伝えればいいの?」


「ああ、それでいい」


 それぐらいなら簡単だ。すずは一つ返事で部屋へと向かう。

 井上様という客がいるのは、廻し部屋と呼ばれる部屋らしい。男娼の部屋がふさがっているときに、客を一時的に寝かせておく部屋である。


 二階を満たす宴席の熱気は凄まじく、酒など一滴も飲んでいないすずまでもが、酔っぱらったような心地だった。

 どこかふわふわと浮ついた気分で、廻し部屋までやってきたすずは、障子の前に膝をついた。


「もし、井上様。失礼いたし」


 そう言って、すすっと障子しょうじを引いた瞬間である。

 部屋の中から障子が勢いよく引き開けられたかと思うと、物凄い力で襟首えりくびを掴まれ、部屋に引きずり込まれた。


「うわああ、なに、なに!?」


 思わず叫ぶも、騒がしい妓楼の中では針が落ちた程度の音でしかない。


「あんた……女?」


 どすの利いた声が暗がりに響く。


「ひっ!」


 地獄の底の夜叉に引きずり込まれた。すずはそう思った。

 眼前には血走った目をぎょろつかせた女が、今しがた地獄から這いずり出てきた鬼のような形相で、すずを睨みつけていた。


「お、女です……」


 恐怖のあまり蚊の鳴くようなか細い声しか出ない。


「なんで葵屋に女がいるのよ! え、月の兎は! 月の兎はどこよ!」


 女の息はひどく酒臭かった。相当に酔っているらしい。


「私は飯炊き女で、月の兎はもうすぐ」


 来ます、そう告げるより早く、パァンッという乾いた音が響いた。


 頬に衝撃――。


 次いでカッと熱を持ったような痛みがきた。


「え……」


 反射的に頬を押さえる。どうやら頬を張られたらしい。

 訳がわからなかった。すずにはいきなり叩かれる理由なんてないのだ。


 だが、女は歯をきだすように怒鳴り散らしてくる。


「月の兎ですってぇえ! あんた何様のつもりよ。たかが飯炊き女の分際で月の兎の名前を呼ぶんじゃないわよ。ああ、汚らわしい。なんて汚いもの触っちゃったのかしら」


 女は犬の糞でも触ってしまったかのように布団の端に、手をなすりつける。

 もはやすずに言葉はない。唖然あぜんとするばかりである。


 次に何を言えばいいのか。何を言ったところで通じそうもないし、下手をすればまた叩かれかねない。このまま黙って逃げ出したかった。

 しかし廻し方の使いで来た手前、そうするわけにもいかない。


「わ、私はこれで……」


 すずが恐る恐るそう告げると、ぐいっと髪を引っ張られた。


「お待ちよ!」


 酔っているせいか、およそ容赦ようしゃというものがない。


「痛い痛い!」


 たまらず悲鳴を上げた。


「いい、もし月の兎がすぐに来なかったら、私、ここで首切って死んでやるから! そう月の兎に伝えなさい!」


「わかりました。伝えます伝えます!」


 何度も頷くとようやく女の手がゆるみ、すずは転がるようにして廊下へと逃れた。間髪入れず、地獄の門を閉じるように素早く障子を閉める。


 ぴたりと静かになった部屋に、一気に全身から力が抜ける。まだ心の臓が早鐘はやがねを打っていた。


 いったい何が起きたのか。あまりのことに理解が追いつかない。

 あの女の人は本当に客なのだろうか。いやそもそも人間なのだろうか。


 男吉原に来る女の人は余裕とお金をたっぷりと持ち、綺麗に着飾り、華やかに遊んでいくものだとばかり思っていた。


 しかしあれでは生活に逼迫ひっぱくしたすずの家族よりも酷い。いくら酔っていたとはいえ精神的に追い詰められ、分別をなくした様子は品位もなにもあったものではない。


 男娼たちはああいう客も相手にするものなのだろうか。

 月の兎はいったいどうやってあんな女の人と会話をするのだろう。

 尽きない疑問が頭の中をめぐる。


「あ! 月の兎呼ばなきゃ!」


 ふと我に返ったすずはまだ痛む頬と髪を押さえ、月の兎の部屋へと走った。

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