第二章 男吉原って大変

第8話 張見世に酔う

 大見世『葵屋あおいや』が食あたりに見舞われた話は、瞬く間に男吉原中に広がっていった。

 もともとが噂に何十枚もの尾ひれがつくのが当たり前の男吉原である。

 商売敵の見世が腹いせに毒を仕込んだだの、男娼に冷たくあしらわれた行商人が恨みに思って傷んだ食材を売りつけただの、果ては男娼同士の小競り合い説まで出てくる始末だった。


「悪いね、あたしが寝込んだばかりに」


 申し訳なさそうに謝るのはおせんである。


「いいのよお、私もついうっかりしちゃって。やっぱり慣れないことはするもんじゃないわねぇ」


 甚五郎が手をひらひらと振ってみせる。

 月の兎が考え出した甚五郎身代わり作戦は、おおむねうまくいった。

 甚五郎は楼主又六にこっぴどく注意を受けたものの、暇を出されることも遣手職やりてしょくを下ろされることもなく、一連の話にすずの名が出ることもなかった。


 後日、すずが平謝りに行くと、甚五郎は豪快に笑って許してくれた。

 いったい月の兎がなんと言って甚五郎の了承を得たのかは謎のままだったが、頬を赤らめる甚五郎の様子に、すずはそれ以上訊くのを止めた。


 世の中、知らなくていいことは山ほどある。それが男吉原ともなれば、知って得することの方が少ないかもしれないのだ。



 そうして葵屋の臨時休業が明けた日の夕刻――。

 若い衆が内所の縁起棚に掛けられた鈴をジャランジャランと鳴らした。

 通称『おふれ』と呼ばれ、妓楼の営業と張見世の開始を告げる合図である。


 二階からぞろぞろと男娼たちが下りてきては、張見世に出ていく。

 その中に夕顔と宿木の顔を見つけて、すずは小さく歓声を上げた。


「わあぁ」


 しっかりと化粧を施し、華やかな着物に身を包んだ二人はやはり別格だった。歩き方からして他の男娼とは一線を画している。

 通り過ぎ様、夕顔の優し気な視線がふいっと、すずへと向けられる。


「行ってくるね」


 ふんわりと優しく微笑まれ、すずはうっとりと頷いた。


「張見世見物とはずいぶんと良いご身分だな」


 皮肉たっぷりの台詞を吐いて、宿木が通り過ぎていく。

 宿木が張見世に入ったのを確認してから、すずはぼやいた。


「あんな嫌味な奴を買う人なんているのかしら」


「あら、ああ見えて宿木ちゃんにご執心しゅうしんな女人は多いのよお」


 いつの間にかそばにやってきていた甚五郎が答える。


「へえ」


 もっともすずとて、初めて見たときは、宿木の放つ危うい魅力に惹きつけられた。

 だが数日一緒に過ごせば、その本性も知れるというものだ。

 すずがそう言うと、甚五郎はふふっと笑った。


「すずちゃんもまだまだねえ。人間、数日一緒に過ごしただけでわかることなんて上っ面だけよ。たとえ何十年一緒に居たとしても、相手の全てなんてわかるわけないんだから」


 子供扱いされるのは嫌だったが、不思議と甚五郎が言うと、しみじみと伝わってくる。


「そう言えば月の兎は?」


「ああ、月の兎ちゃんは大体いつも最後に来るのよ。なにせうちの看板男娼だからねえ。色々と準備にも時間が掛かっちゃって」


 甚五郎がそう言ったときだった。視界の端に赤がよぎる。


「あ……」


 階段の方を見上げると、ちょうど月の兎が下りてくるところだった。

 豪奢ごうしゃな紅の打掛うちかけを肩から落ちないすれすれのところで羽織った姿は、まさに豪華絢爛ごうかけんらん、大見世の看板男娼たるにふさわしい出で立ちだった。

 片方の耳の横に打掛と揃いの色のかんざしを交差させるように二本し、もともと見目の良い顔を化粧で華やかに彩った月の兎は、ぞくりとするほど艶っぽい。


 すずは思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 あんな美しい男娼に迫られたら、どれほどの至福だろう。

 毎夜のように訪れて湯水ゆみずのように金を使ってしまうのもわかる気がした。


 月の兎はすずを一瞥いちべつすることなく通り過ぎると、張見世の中央にぽっかりと空けられた場所へと腰を下ろした。両隣には夕顔と宿木が座を占めている。


「張見世の着座は階級順なのよお」


 甚五郎がそう教えてくれた。

 中央に最高位の男娼が座り、その左右に階級順の男娼が座る。見れば、三人の座っている場所には毛氈もうせんが敷かれていた。


「つまり月の兎が一番で、次が夕顔と宿木ってこと?」


「そうそう。あの三人がうちの屋台骨だわねえ。妓楼の稼ぎの半分はあの子たちなんじゃないかしら」


「道理でみんな顔が好いわけだ」


 すずが納得していると、甚五郎は見世の外の方を指さした。


「せっかくなんだから外の格子側から見てきてご覧なさいな。圧巻よぉ」


 甚五郎に言われ、すずはまがきの方から格子側へと移動する。

 真っ赤な格子の向こう、張見世の中に見目の好い男娼たちがずらり勢ぞろい――。

 あまりの眩さに、くらりと眩暈がした。

 その場で叫び出したい衝動を必死に抑え、甚五郎の元に駆け戻る。


「良いっ! ものすごく良い!」


「でしょう!」


「うん、もう最っ高! なにこれ天国……?」


「ああ、わかってくれる子が来てくれて嬉しいわあ。おせんちゃんはそっけないんだもの」


「なんで!? 私、鼻血出そうなのに」


 すずと甚五郎が興奮の絶頂とばかりに騒いでいると、広間の奥から当のおせんが出てきた。


「またやってるの? 甚五郎さんもほんと物好き……」


「おせんちゃん!」


 飛びつかん勢いで迫ったすずに、おせんがぎょっとして後ずさる。


「な、なに」


「この眼福天国の良さ、わかるよね?」


「え、まさか、すずも甚五郎さん寄りなわけ? うわ、勘弁してよ」


 おせんが嫌そうに顔をしかめる。


「だってこれぞ男吉原の醍醐味だいごみでしょ。しかも大見世」


「ただ男たちが箱詰めになってるだけじゃない」


 おせんの反応は淡泊かつ、身もふたもない。


「ねー。だから言ったでしょう。おせんちゃんに共感を求めても無駄なのよお……」


 甚五郎が残念そうに肩を落とす。

 と、にぎやかな清掻すががきに引き寄せられるように、そぞろ歩きをしていた女たちが張見世に集まり始めた。


 清掻の三味線を弾くのは内芸者である。清掻の弾き方は妓楼によって微妙な違いがあり、葵屋の場合は本調子という弾き方を少し変えた独特のものだった。

 そのお囃子はやしの音色を聞きつけたのか、葵屋の張見世の前はあっという間に見立てをする女たちで埋め尽くされた。


「ほら見て。どれもきれいな子ばっかり」


「本当。あの子も可愛いけど、こっちも捨てがたいわ」


 張見世に居並ぶ男娼を見るのはやはり楽しいものらしい。

 どの女も食い入るように格子に張りつき、中を覗き込んでいる。


「お姉さん、お姉さん。そこのきれいなお姉さん」


 どこか聞いたことのある甘ったるい声が聞こえ、妓夫台ぎゆうだいのそばで隠れて様子を見ていたすずは、ひょっこりと顔を出した。

 見ると、月の兎が格子越しに一人の女と顔を寄せ合っている。


「ねえ、これ」


 月の兎が煙管きせるを格子越しに手渡す。それはさっきまで月の兎がくゆらせていたものだ。

 女が嬉しそうに顔を赤らめる。

 それもそうだろう。月の兎ほどの容姿を持つ男娼に吸いつけ煙草で誘われたのだ。


「えぇ? どうしようかしら。あなた、おいくらなの?」


「金三分」


「き、金三分……」


 女の顔が若干引きつった。


「だめ? 無理そう? ならしょうがないよね……。お姉さん、すごく僕の好みだったからつい声を掛けちゃって」


 そう言って月の兎はしょんぼりと元の場所へと戻っていく。


「ま、待って待って! 買わないとは言ってないでしょ。ま、迷ってたのよ。ほら、隣の子と」


 女が差し示すのは宿木である。


「へえ?」


 宿木が楽しそうに口端をゆがめた。

 張見世の中に置かれた大行灯おおあんどんの明かりが、月の兎と宿木を照らした。うっすらと白粉おしろいを塗った二人の首筋が明かりに映え、見る者を惑わす妖艶ようえんさを放つ。


「ひどいなあ。僕なら絶対お姉さんを満足させてあげられるのに」


「言っておくけど俺も金三分だから。払えないならやめといた方がいいよ」


 月の兎が傷ついたというふうに言えば、宿木は相手を思いやるような優しい眼差しをする。

 妓夫台の影ですずは目を白黒させていた。


「なに、あれ……別人?」


「あれ、すずさん。初めて見るんでしたっけ? あれが二人の男娼としての顔ですよ」


 妓夫台に座っていた見世番の若い者が平然と言う。


「うそ……。いつもと全然違う」


「まあ男娼ですからね」


「それにしたって……」


 すずが信じられないとばかりに目を戻せば、月の兎が女にいたずらっぽい視線を送っている。

 どうやら客に選ばれたのは月の兎らしい。

 女はそそくさと妓夫台にやってくると、見世番の若い者に指名をする。


「へい、御意ぎょいに叶いましたのをお出し申しましょう。ささっ、まずはおあがりなされまし」


 愛想を張りつけた見世番の若い者が、中へと案内をする。

 女が土間どま履物はきものを脱いで上がると、すぐさま別の若い者が履物を下足箱げそくばこにしまった。


「月の兎さん、お支度したくぅー」


 見世番の若い者の呼びかけで、月の兎が張見世から出てくる。

 その顔には先ほどの甘えた素振りは微塵みじんもない。


「で、引付座敷ひきつけざしき?」


「いや、どうも床急とこいそぎのようでして」


 月の兎と妓夫台の若い者が話していると、奥からすかさず甚五郎がやってきた。


「いまの、初会でしょう? うーん、持ってそうな気はするんだけど」


「金払いは良さそうじゃねえか。一丁軽く落としてきちまうわ」


「そう? まあ月の兎ちゃんのお金に対する嗅覚は素晴らしいからねえ。お任せするわ」


「あいよ」


 打掛を引きずりながら階段を上って行く月の兎の背中を見送りながら、すずは驚嘆きょうたんのため息をついた。

 どうすればあんなふうに、ころころと雰囲気を変えられるのだろうか。

 それができるのが男娼と言われればそれまでだが、すずには到底真似できない振る舞いである。


「すずちゃん、そこに居ちゃまずいわ。見てるなら妓夫台の影に」


 甚五郎の言葉に、すずは慌てて妓夫台の影へと戻る。


「宿木さん、お支度ぅー」


 見世番の若い者がそう告げると、宿木が気怠けだるそうな様子で張見世から出てきた。


「あーあ。また来たよ、あの半可通はんかつう


 うんざりと言うように重い足取りで宿木が二階へと上がっていく。

 半可通とは一見物知りを装い、聞きかじりの浅い知識を自慢してくる客のことである。


「あんな嫌そうな顔してても様になるのが、宿木ちゃんのすごいところよねぇ」


 しみじみと甚五郎が呟く。


「確かに……」


 むしろ宿木は憂いを帯びた表情や、嫌そうな顔をしているときの方が、妙にそそられるものがあるのだ。


 あとは夕顔か。そう思いつつ、すずが張見世の方を見ると、すでに夕顔は一人の女と格子を挟んで話しているところだった。


「うんうん。そうだよね。大丈夫。俺でよければ慰めてあげるよ」


 夕顔が菩薩ぼさつのような顔でささやけば、女は酒に酔ったかのように小さく頷き、ふらりと妓夫台へやってきた。


 うわ、魔性……。

 すずは心の中で唸った。


 一度夕顔の優しい糸に絡みつかれると、相手は決して自分からその糸を振りほどけなくなるのだろう。

 夕顔という男娼は、思わず覗き込みたくなる澄んだ水面を見ているようで、その実、透明度の高い底なし沼なのだ。


 女は若い者に案内されていそいそと引付座敷へと歩いていった。

 ゆったりと張見世から出てきた夕顔に、甚五郎がほくほく顔で駆け寄る。


「夕顔ちゃん。いまの女人、最近旦那を亡くした大店おおだな後家ごけよお」


「なるほどね。誰かにすがりたくてたまらないって顔して道を歩いてたから、声を掛けたんだけど」


「んもう。相変わらず良い嗅覚してるんだから!」


「……ほんと。夕顔に顔見られるのが怖くなった」


「ふふっ。すずちゃんはそんな顔してないから平気だよ」


 どこまでも優しい微笑みを浮かべ、夕顔は二階へと上がって行ったのだった。

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