第7話 助け船はどこから来たの

 白湯さゆを三つ持って戻ったすずに、夕顔が不思議そうに首を傾ける。


「ところで、すずちゃんは平気なの?」


「え?」


「そういやそうだな。おまえは食ってないのか?」


 月の兎に言われ、すずは昼餉のことを思い出す。男娼たちの分を作り終えた後で、自分用にととっておいたものを食べた。味見をしたのだから間違いない。


「食べたよ」


「で、あんただけは平気と。ったく、憎たらしいな。どんな腹してんだよ」


 言われてみれば、すずだけは何ともないのである。腹痛も吐き気も露ほどもない。

 昔からそうなのだ。みなで同じものを食べたはずなのに、すずだけ平気だったことは過去にも何度かある。


 そしてそれにはすず自身、心当たりがあった。


「実は私、山の裾野すそのにある百姓育ちで、小さい頃からよく野草とか落ちてる木の実とか食べてたから」


「うわ、野生育ち」


 宿木がそ《《》》る。


「きっともともとお腹が強いってのもあると思うよ。俺だって一応は山育ちだし」


 夕顔が熱そうに白湯に息を吹きかける。どうやら猫舌らしい。


「俺たちみたいな江戸の華と、山猿みたいなこいつじゃ繊細さが違うんだよ、繊細さが」


「なっ」


 月の兎の言いぐさに、思わず言い返しそうになる。


「あー、腹が痛てえ。また出そうだ」


「……私が悪うございました。あと、そのきれいな顔でそういうこと言わないで」


 顔をしかめるすずの横で、月の兎がしてやったりとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべる。


「え、どういうこと?」


 すずと月の兎のやり取りに、夕顔が口を挟む。


「こいつ、俺たちが汚いことを言うのが嫌らしい。男娼神話」


「なんだそれ」


 呆れかえる宿木の横で、夕顔は可笑しそうに笑みをたたえる。


「あーなんとなくわかるかも。女吉原の花魁がそんな言葉を使ってたら、なんかがっかりする、みたいな感覚でしょ」


「そう! やっぱり夕顔は話がわかる!」


「へー。……今日は吐逆とぎゃくに下痢腹で酷い一日だったなー」


 宿木が無表情でぼやく。


「宿木ってえぐい性格してるよね」


「なんか言った? 俺たちをこんな目に遭わせたのは誰だと思ってるわけ」


 それを言われるとすずとしては、謝るしかない。

 と、外から三味線や太鼓の音が響いてきた。どうやら張見世が開く刻限になってしまったらしい。


「そうだ、どうしよう!」


 いとまの話を思い出し、すずは慌てふためく。このままでは間違いなく河岸見世の鉄砲女郎行きである。


「とにかく見世の外に張り紙を出そう」


 夕顔は内所に行き、筆と紙を持ってくると、見事な達筆で『臨時休業』と書いた。

 張り紙を張って戻ってきたすずは、今後の身の上を考えて改めて泣きそうになった。

 今日の昼餉を作ったのはすずであり、馬連薯ばれんしょの芽を取り除き損ねたのもすずの失敗なのだ。


「うーん、どうしようかねえ」


 夕顔が眉を寄せる。さすがのすずも、いまばかりは見惚れているわけにもいかない。

 とはいえ、妙案がすぐに思いつくはずもないのである。広間に四人で車座になって考え込む。

 腕を組んだまま黙っていた月の兎が、ふいにあぐらを崩して、後ろに重心を掛けた。


「やっぱこれしかないな」


「なにかあるの!?」


 すずはわらにもすがる思いだ。


「甚五郎に罪を被ってもらおう」


 月の兎以外の三人は、がくっと肩を落とした。


「いきなり何を言うかと思えば……。そんなの無理に決まってるだろ。作ったのはすずなんだから」


「だから逆にするんだ。甚五郎は今日なにしてた?」


「えっと、たぶんおせんちゃんの看病をしてたと思うけど」


「ならちょうどいい。今日、おまえは一日おせんの看病をしてた。で、代わりに甚五郎が飯を作った。慣れない飯づくりだったせいで、食あたりが発生した。ほら、これなら不自然じゃねえだろ」


 自信たっぷりに言い切る月の兎に、夕顔がうなる。


「まあ……一応筋は通ってるけど。それには甚五郎さんにも口裏を合わせてもらわないことには」


「それは俺が話をつける」


 とんとんと話を進めていく月の兎に、すずはおずおずと手を上げた。


「なんだ?」


「あのそれはあまりにも甚五郎さんに悪いというか……。それだと甚五郎さんがおやじさんに怒られちゃうし、代わりに暇なんてことになったら」


「へえ、こんな状態でよくまあ人の心配なんてできるもんだ」


 驚いたように、からかうように、宿木がにやつく。


「甚五郎さんが一回の失敗で暇になることはないと思うよ。あの人はああ見えて、遣手としてかなりの腕前なんだ。あの人がいなくなった方が、よっぽど損失が出るからね」


 夕顔に説明されて、くねくねと話す甚五郎の姿を思い浮かべる。

 人は見かけによらない。すずは胸に教訓を刻み込んだ。


「よし、じゃあこれでいくぞ。おやじさんには俺が話をつけてくる」


 そう言って立ち上がった月の兎のすspを引っ張る。

 すずには一つ聞きたいことがあった。

 月の兎が見下ろしてくる。すずが座っているせいもあるが、月の兎がとても大きく見えた。


「どうして、私のことを助けてくれるの?」


 驚いたように月の兎が目をしばたたかせた。まるで自分でも気づいていなかったことを指摘されたように。


「それは」


 すずを見下ろす月の兎の視線は真っ直ぐで、涼やかな瞳は小さな炎が宿っているように熱い。

 見ていると吸い込まれそうだった。

 刹那、図らずも見つめ合う形になった。


「そりゃ決まってる。あんたが暇になったら、俺たちは連帯責任で三か月も一日一食、麦飯と漬物だけになるからだろ」


 答えたのは月の兎ではなく、宿木だった。


「そう言えばそんな話だったね」


 夕顔がいよいよ顔色の悪さを深めてため息をつく。


「……そういうこと」


 月の兎が言った。

 思い出したように宿木が胸の辺りをさすり始める。


「あー、なんかまた気持ち悪くなってきた」


 そう言って宿木がかわやの方へと消えると、


「俺もそろそろ限界。寝てくるね」


 ふらりと立ち上がった夕顔が、危なっかしい足取りで階段を上って行った。

 急に散会となった広間に、すずと月の兎だけが取り残される。


「じゃあ俺はおやじさんのとこ行くから」

「うん」


 すずは座り込んだまま頷いた。なんとなく立ち上がる気力がなかった。又六たち楼主一家の住居へと歩いて行く月の兎の背中をぼんやりと見つめる。


 食あたりの症状はないのに、ひどく体が重かった。

 料理を作ることはすずにとって、唯一の取り柄だったのだ。吉原で花魁になれるほどの抜きんでた美貌もなければ、嫁にもらってもらえるほど気立ても良くない。

 そのたった一つのどころだった料理さえ失ってしまったいま、すずには自信と呼べるものはなにもなくなってしまった。


 たとえ今回の月の兎の作戦がうまくいったとしても、果たして自分はこれまでのように料理を作れるのだろうか。すずには正直自信がなかった。


 もしまた何かやってしまったら?

 また月の兎たちをこんな目に遭わせてしまったら?


 すずが作った料理のせいで、男娼たちは苦しい思いをすることになったのだ。

 そう思うと料理を作るのが怖かった。

 いっそ河岸見世の鉄砲女郎にちた方が、罪悪感と失敗に怯える毎日より、気持ちとしては楽だったのかもしれない。そうとさえ思えた。


 と、ふらふらと歩いていた月の兎が、ふいに立ち止った。

 どうしたのかと心配になったすずが立ち上がりかけたところで、月の兎が背中を向けたまま、ぼそりと呟いた。


「でも、おまえの飯はうまかった」


 ふっ、と張りつめていた気持ちが緩んだ。感情の嵐が胸の内で巻き起こり、涙となってあふれ出した。一気に目に涙がたまり、鼻水が滝のように流れ落ちる。

 声を上げて泣きそうになった。喉を締めるようにして必死にこらえる。


 優しくされるのは苦手だった。家で優しくされた記憶はほとんどないから、どうしていいのかわからなくなる。たまらなく居心地が悪いのに、それでいてたまらなく嬉しいのだ。


 感情の振れ幅が許容量を超えて、余計に涙が止まらなかった。

 小さくしゃくりあげながら、すずは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。

 たった一言、伝えたい言葉があった。


 これだけはどうしても伝えたい。


「ありがとう――」


 聞こえたのか、聞こえなかったのか、月の兎はゆっくりと角を曲がって行った。

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