第6話 美しさの臨時休業

 その日の夕刻、事件は起きた。

 夜見世が始まる暮六ツ少し前のことである。


 すずは昼餉ひるげの片づけをしながら、簡単な夜食を作っていた。

 宴席に運ぶ見映えのいい料理は、妓楼で作るのではなく、台屋と呼ばれる仕出し料理屋から取り寄せるのである。


 そのためすずが作るのは、もっぱら食いっぱぐれた男娼たちの夜食ということになる。

 夜食といっても昼餉の残りの冷や飯と漬物といった程度なので、すずの仕事はないに等しい。


 必然、時間を持て余すことになる。


 すずは手早く片付けを終えると、おせんの様子を見に、飯炊き女にあてがわれた部屋へと向かった。昼間はなんだかんだと忙しくて、結局おせんの看病は甚五郎に任せっきりになってしまった。

 奉公人たちの部屋が並ぶ薄暗い廊下を歩きながら、すずはふとあることに気づいた。


「なんか……人が少ないな」


 夜見世が始まる前は準備やらなにやらでもっと騒がしいものかと思っていたが、妓楼全体がやけに静かなのだ。

 男吉原の日常を知らないすずには、これが普通なのかそうでないのか、判断がつかない。


 なんとなく違和感を覚えつつも、こんなものかと思い直す。

 部屋ではおせんが軽やかな寝息を立てて眠っていた。どうやらだいぶ良くなったらしい。

 ほっと安堵しつつ、起こさないように再び静かに障子を閉める。

 廊下を戻り、二階へと通じる階段の前を通ったときだった。


 物凄い勢いで階段を駆け下りてきた者がいた。血相を変えた月の兎である。


「どけ、邪魔だ!」


 階段下にいたすずを弾き飛ばすようにして廊下を駆け抜けて行く。


「え、なに! なにごと!?」


 着飾った月の兎の背に訊くも返事はなく、そのまま廊下の角を曲がってしまった。

 明らかに尋常ではない様子である。

 とにかく後を追おうとしたすずだったが、階段から降りてきた宿木の姿に足を止める。


「宿木! なにかあったの? いま月の兎がすごく慌ててあっちに」


元凶げんきょうがいやがった……」


「ゲンキョウ?」


 穏便ならざる言葉に、すずは首をかしげる。


「ああ、元凶だ、元凶。おまえのせいで……うっ」


 言いかけた宿木が口元を押さえる。その顔色がみるみる真っ青になっていく。


「だめだ……気持ち悪ぃ」


 そう言うと、ふらふらと月の兎が消えた方へと歩いて行く。


「いったい何なの……?」


 謎が深まる。取り残されたすずは途方に暮れた。

 夕顔ならまともに説明してくれるかもしれないと、すずは階段に足を向けた。


「すず」


 声に振り向くと、土気色つちけいろの顔をした月の兎が幽鬼ゆうきのように立っていた。


「上に行くのはやめとけ。阿鼻叫喚あびきょうかん地獄絵図じごくえずが広がってるぞ」


「……いったい何があったの? というより大丈夫……?」


「大丈夫に見えるか?」


 力無く問われ、すずは首を横に振った。どう見ても死期を迎えた者にしか見えない。


「宿木が元凶は私だって言ってたけど、それってどういう……」


「元凶な。確かにおまえが元凶だわ」


 月の兎が顔をしかめて腹をさする。ぎゅるると情けない音が鳴った。

 そこで、ふと思い当たる。と同時に血の気が引いた。


「ま、まさか……」


「ああ、そのまさかだ。食あたりだよ」


「うそ……」


 呆然となった。思考が停止する。


「やってくれたよな、おまえ。葵屋全滅じゃねえか。夕顔なんか完全に寝込んじまったし、甚五郎も上から下からで使い物にならねえ」


 月の兎の言葉が右から左へと抜けていく。頭の中が真っ白だった。


 食材の傷み具合には気を付けたし、生で出したものはない。火加減も十分だったはず。いったい何が。調理方法と食材を一つずつ思い出していく。


 味噌汁には大根と馬連薯ばれんしょ……馬連薯?


「あ!」


 馬連薯の芽――。

 あの芽には毒があるのだ。いつもなら取り損ねるなんて初歩的な失敗は犯さないが、あのときは初めての場所で、慌てて、一人で作った。思い返してみれば、皮をむいた記憶はあるが、芽を取った覚えがない。


「ど、どうしよう。なんてことを……」


「まったくだぜ。こちとら商売あがったりじゃねえか。おまえ、どう落とし前つけてくれんだよ」


 月の兎がすごむ。

 が、いつもの迫力はまるでない。それどころか腹から不穏な音が響いた。


「くそ、怒鳴ることもできやしねぇ」


 そう言って忌々いまいましそうに腹を押さえた月の兎に、すずの混乱は極致きょくちに達した。


「どうしよう! こんな美しい男娼がお腹を下したり、吐いたりするなんて……ありえない! いやああ、どうしよう。想像したくなぁあい!」


 ばしんっ、と思い切り頭をはたかれた。


「落ち着け馬鹿! 俺たちをなんだと思ってやがる。人間なんだから糞もすれば吐くこともあるだろうが! いや、そうじゃなくて、今日の張見世どうすんだよ。俺もさっきからかわやと布団の往復で、とてもじゃねえが張見世にじっとなんてしてられねえし」


 それに、と言って月の兎がすずを見る。


「……それに?」


 これ以上、どんな悪いことがあるというのだろう。すずは恐怖で体を強張らせた。


「おまえ……間違いなくいとまを出されるぞ」


 ――死刑宣告だった。


 とんでもなくバカでかい鈍器で殴られたような衝撃が、脳髄のうずいを揺さぶる。

 すずは目を白黒させた。口は金魚のようにぱくぱくと開閉を繰り返すばかりで、言葉が出ない。


「今日はもう間違いなく臨時休業だ。そうなりゃ、金にうるさいおやじさんが黙ってるわけがねえ。一日休むだけで妓楼が出す損失がどんだけでかいと思ってんだ。ましてやうちは大見世だぜ。下手すればおまえを河岸見世かしみせに売っぱらった挙句、借金のカタに売り上げ全部巻き上げようとするかもしれねえぞ……って」


 月の兎が慌てふためく。


 初めて事の重大さがわかった。自分がどれだけのことをしてしまったのか。

 体が勝手に震えだし、握りしめた拳の内側で爪が皮膚に食い込む。目にあふれ返った涙が、後から後から頬へとこぼれ落ちていった。


「どうしよう……ッ。どうしたらいいの」


「な、泣くなって!」


「河岸見世の鉄砲女郎なんやだよぉ……」


「だから泣くなって言ってんだろ!」


 そんなことを言われても止まらなかった。これからのことを思うと、怖くてたまらない。鉄砲女郎が辿る悲惨な現実も、無残な最期も、すずは知っているのだ。

 一度ちたが最後、二度と這い上がれないことも。


 拭っても拭っても次々あふれてくる涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。


「ああ、くそ! 俺がなんとかしてやるから!」


 ばしっと両手で頬を挟まれた。

 真正面に月の兎の顔。端正で、熱を帯びた瞳で、今は青白い顔で――。


 一瞬、涙が止まる。


 瞬きを繰り返すとまつげについた涙が小さく弾け、ゆがんで見えていた視界がはっきりと見えた。


 月の兎は苦り切った顔をしていた。


 なんでそんな顔をしているの?

 女を泣かせることに関しては百戦錬磨ひゃくせんれんまの男娼なのに。


「あーあ。そんなこと言っちゃって」


 呆れたような声がしたかと思うと、宿木が廊下から歩いてくる。

 月の兎が慌ててすずの顔から手を離す。


「宿木……その、ごめん。私のせいで」


「まったく酷い目に遭った。厠掃除、おまえがしろよな」


「する! なんでもする!」


「いいなそれ。じゃあ、上の部屋の掃除も頼むわ。酷い有様だからな」


 ついでとばかりに月の兎が言う。

 すずはこくこくと頷いた。反論の余地はない。


「すずちゃん、気を付けた方がいいよ。月の兎と宿木は人使い荒いから」


 いつにも増してゆっくりな動作で、夕顔が階段を下りてくる。


「おー、夕顔。もう寝てなくて平気なのか?」


「このままじゃ干からびるから。すずちゃん、何か飲み物ない? あ、冷たくないやつで。できれば白湯さゆが欲しいな」


 ただでさえ儚げな見た目の夕顔が真っ青な顔で言うものだから、聞いた方は遺言でも言われたかのような錯覚を覚える。


 すずは台所にすっ飛んで行く。


「どっちが人使い荒いんだよ……」


 背後で呟く宿木の声が聞こえた気もするが――。

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