第5話 朝餉がこんなに美しくていいのでしょうか

 できあがった朝餉あさげを運ぶのは、若い衆の仕事である。

 次々に台所から消えていく朝餉を見送りながら、すずは額の汗を拭った。


「や、やりきった……!」


 得も言われぬ達成感があった。右も左もわからない場所で一人でやり遂げたのだ。感動もひとしおである。

 すずは自分用にとっておいたご飯を食べ、味噌汁をすすった。あれだけ急いで作った割に味もちゃんとしている。

 あとは味付けが彼らの口に合うかどうかが心配だった。


『まあ、そういうわけで期待してるから』


 宿木の意地の悪そうな声が、耳の奥でよみがえる。


「この味で犬のえさとは言われないよね……」


 彼らの求めている味がどの程度のものを指しているのか、すずには検討もつかない。

 月の兎たちの反応が知りたかった。


 ――行ってみるか。


 すずは残りの朝餉を一気にき込むと、勢いよく立ち上がった。


 板の間を通って広間の前に来ると、下級男娼たちが細長い飯台はんだいに向かって、一心不乱に朝餉を食べていた。そこには雑談もなければ、はしが止まる間というものもない。

 みなが黙々と食べることだけに専念している光景に、すずは一瞬恐怖を覚えた。


 もしかして不味まずかったから、みんな無言で、さっさと食べ終わろうとしているのだろうか。怖い想像を振り払うように、すずは広間から目をそらし、二階に通じる階段を上った。

 月の兎たち昼三男娼はそれぞれ自室を持っており、そこで食事をすることが許されている。


 初めて立ち入る二階は、とにかく部屋だらけであった。階段を上った先では三方、四方に廊下が通じており、その両脇にずらりと部屋が並んでいる。宴会用の表座敷おもてざしきに、引付座敷ひきつけざしき、男娼たちの部屋と、二階は妓楼で華が咲く場所なのだ。

 これが夜であればさぞ賑やかな場所なのだろうが、朝はどの部屋もしんと静まり返っている。


 これでは肝心の月の兎たちの部屋がどこにあるのかもわからない。

 すずがため息をつきながら諦めて階段に戻ろうとしたところで、奥の方の部屋から声が上がった。


「お、うめーっ」

「あの声……月の兎?」


 すずは声のした方へと廊下を小走りに駆ける。

 確かこの辺りだったはず、と奥から二番目の部屋の前で耳をすませば、続いて宿木の笑い声が聞こえた。


「こりゃおどした甲斐かいがあったわ」

「ここか!」


 すずが勢いよく障子を開けると、月の兎と夕顔、宿木が朝餉の載った台を囲んでいた。


「うおっ」


 月の兎がきれいな顔に似合わない声を上げる。


「あれ、すずちゃん? どうしたの、こんなところまで」


 夕顔がのんびりとした口調で訊いてくる。


「あ、えっと……その」


 顔立ちの美しい男娼というのは、もはやそこに存在するだけで破壊力がある。それが三人もいて、しかも一斉に注目されたのだから堪らない。

 言葉を見失っておたおたするすずを尻目に、月の兎がしたり顔を浮かべた。


「ははーん。さてはおまえ、俺たちに飯の感想を聞きに来たんだろ」


「うっ」


「当たったみたいだぞ、月の兎」


 宿木もにやにやと笑いだす。

 ずばり図星なのだが、なんとも居たたまれない。すずは逃げ出したい衝動に駆られた。


「へ、部屋を間違えたようで……」


 くるりときびすを返そうとしたところで、後ろから腕を引っ張られた。


「うわあっ!」


 間の抜けた悲鳴と共に、すずは月の兎の横に尻もちをついた。


「おっと力入れすぎたわ」


 まるで悪びれた様子もなく、月の兎が笑う。


「月の兎。いつも言っているだろう」


 夕顔が厳しい表情で、月の兎を睨む。

 ――女の人には優しくしろって

 すずは心の中で夕顔が続けるだろう言葉を唱えた。ふん、怒られちゃえ。


「飯のときは静かに食べろって」

「え……そっち?」


 すずは素っ頓狂すっとんきょうな声を出した。とんでもない肩透かしである。


「そっち? って他にどっちが?」


 とぼけているのか、本気なんだか、夕顔はいまいち読めない。


「と、とにかく私はこの辺で」


 これ以上ここに居てもロクな目に遭わない。すずの直感はそう告げている。じんじんと痛いお尻をさすりながら立ち上がろうとすると、月の兎に止められた。


「そんなに急いで戻らなくてもいいじゃねえか。感想、聞きてえんだろ」


「いや、でもみんなの食事の邪魔をしちゃ」


「別に邪魔じゃないよ」


「ほらな、夕顔もこう言ってんだ」


「むしろぎゃーぎゃー騒ぐ方が邪魔」


「……はい」


 こうなってはもう逃げられない。すずは覚悟を決めたとばかりに、正座で座った。

 妓楼の朝餉はご飯と味噌汁、それに漬物だけである。

 これほど質素極まりない品目でも、彼らが食べていると、自分が作ったものとは思えないほど豪華なもののように見えてくる。


 ご飯をつかむ箸の動きからして、余裕と優雅さにあふれているのだ。


 月の兎がゆったりと漬物を口に運んでいく。化粧を施していない素のままの唇がすっと開かれ、真っ白な歯がちらりと見えた。漬物を咀嚼そしゃくする小気味良い音が響き、ごくりと飲み込む度に、喉ぼとけが上下する。


 その隣では夕顔が味噌汁をすすっているのだが、これまた優美なことこの上ない。

 夕顔が軽く上向いてお椀を傾けると、きれいなあごの線が浮かび上がり、一口一口ゆっくりと汁が飲み干されていく。


 うっとりするほど美しい朝餉の光景である。


 ――ああ、幸せ。


 すずは恍惚こうこつとして、自分が作った食事が美しい男娼たちに食べられていく様に見入っていた。


 飯炊き女は決して社会的地位が高いわけではない。どちらかと言えば、底辺の方に近いだろう。


 だが、男吉原の飯炊き女となれば、少し事情が変わってくるのだ。

 きらびやかで華やかな男娼たちは、町娘や百姓の娘にとって憧れの存在。その見目麗しい男娼たちに囲まれて生活できる飯炊き女は、いわば密かな憧れの職種なのである。


 そのせいか男吉原の飯炊き女の倍率は高く、しかも大抵は町娘が選ばれることが多いため、百姓のすずが飯炊き女になれたのは、仏に微笑まれたような幸運だった。

 百姓の娘として過ごしていれば、一生お目にかかることなどなかったはずの男娼たち。それをこんな間近で見られるのだ。これを幸せと言わずして、なんと言う。


「食いにくい」


 ぼそっと宿木が呟いた。


「え、なに?」


「だから食いにくい」


「もしかしてまずかった……?」


 一番聞きたくない言葉を聞いた気がして、すずは恐るおそる尋ねた。


「違う。そうじゃなくてこっち見すぎ」


 顔が赤くなるのがわかった。


「ご、ごめん!」


 慌てて視線を落とす。

 再び部屋に静寂が戻り、三人の食べるひそやかな音だけが響く。

 しばらく沈黙が続いた後、食べ終わった月の兎が箸を台の上にかちゃんと置いた。


「……しょせん俺たちは見世物小屋の動物さ」


 聞こえるか聞こえないかの小さな声。

 その声はどこか投げやりで、やりきれない諦念に満ちていた――。

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