第4話 飯炊き女はいつも足りない

「じゃあ、すずちゃんのお部屋に案内するわねえ」


 甚五郎がにこやかに広間の奥の方へと向かう。

 どうやら楼主の部屋や、妓楼で働く者たちの部屋は一階、遣手と男娼たちの部屋が二階にあるらしい。


 広間の脇にある廊下を奥へと進むと、便所と内風呂、行灯部屋などがあり、すずたち奉公人の雑魚寝部屋がいくつも続いていた。天井には八間はちけんが吊るされ、さすがは夜のために作られた妓楼という造りになっていた。


「はい、ここよ」


 甚五郎がある部屋の前で立ち止まる。

 すずが障子に手を伸ばしたそのとき、触れる寸前のところで勢い良く障子が開け放たれた。


「うわっ」


 驚いて反射的に手を引っ込める。


「ん、ああ悪い。驚かせたね」


 秋の空のように、からっとした声だった。

 見れば、すずより少し背の高い少女が、あまり驚いた様子もなく、頭の後ろをいていた。

 若草色の小袖に深緑の帯を締めただけの質素な格好は、見るからに奉公人の出で立ちだった。


「もしかして……もう一人の飯炊き女?」


 すずが問うと、少女は合点したというように相好を崩した。笑うと、口の両端にえくぼができて、愛嬌のある顔になる。


「おぉ! ってことはあんたも!」


「うん、今日から」


「いいねえ、待ってたよ。あいつら馬鹿みたいに飯食うから、一人じゃとてもとても」


「ほんとおせんちゃん、大変だったものねぇ」


 甚五郎がしみじみと噛みしめる様子から、その苦労がしのばれる。


「私はすず。これからよろしくね」


 すずは手を差し出した。


「ああ、こちらこそ。私はおせんだ」


 握り返された手は思った以上に力強く、よく見れば、見た目もどことなく男っぽい。

 まさか少女っぽく見える少年なんてことは……。

 ふとよぎった想像に、すずはちらりと甚五郎を見やった。


「え、なに?」


 甚五郎が不思議そうに見返してくる。


「い、いや……おせんちゃんって、その、飯炊き女、だよね?」


 すずが歯切れ悪く訊くと、おせんはいぶかしむように眉を寄せたかと思うと、一拍の間を置いた後、豪快に笑いだした。


「あ、私が飯炊き男かもって? あっはははっ。ないない。私はこれでもれっきとした女だよ」

「だ、だよね。ごめん、変なこと聞いて」


 恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうだった。


「いいって、いいって。甚五郎さんがいるんだから、そりゃそう思うわ。私も全然女っ気ないしね」

「おせんちゃんも素材はいいのに。もったいないわあ」


 甚五郎がさも惜しそうに、おせんの結い上げられたお団子をつんっとつついた。


「あたしはこれでいいの!」


 そうあっけらかんと断言するおせんの潔さに、すずは嬉しくなった。

 竹を割ったような性格のおせんは、どこか故郷にいた友達に似ており、男吉原に来てから個性的な面々に圧倒されっぱなしだったすずの心を、ほっとさせたのだった。




 引け八ツと言われる大引け、いわゆる男吉原の一日が終わる刻が過ぎ、すずはおせんと並べた布団の中に潜り込んだ。

 飯炊き女に割り当てられた部屋にはまだ十分な広さがあり、本来必要な人数がいかに足りていないかを物語っているようだった。


「まあ、二人いればなんとかなるでしょ」


 おせんがけろっと言う。


「おせんちゃんはいつからここに?」


「えーと、いつからだったかな。なんだかんだ結構経つんだよねえ。たぶん三年ぐらいか」


 男娼と違って飯炊き女に年季明ねんきあけはない。続けたければ、いとまを出されるまで居続けられる。


「そっか。……すごいね」


 つい万感ばんかんの思いがこもる。あれほどアクの強い面々相手に平然とやっていけるだけでも、尊敬の眼差しである。


「あはは、あいつらだってそんなに嫌な奴ってわけじゃないよ。男吉原に来る奴も女吉原に行く奴も、みんな訳ありさ。あんただってそうだろ」

「私は」

「ああ、言わなくていいよ。それよりすずはいくつなんだ?」


 おせんはごろんと寝返りを打って、うつ伏せの格好になると、顔の前で重ねた手の甲にあごを乗せた。


「私は十六才。おせんちゃんは?」


「十七。……ってことはすずが最年少だな」


「そうなの? 夕顔は見るからに年上だなって気がしたけど、月の兎とか宿木も年上?」


「確か……月の兎が十八で、夕顔が二十だろ。宿木が十九。ついでに甚五郎さんが三十五、だったかな」


「え!? 甚五郎さん、三十五!」


 すずは布団を跳ね飛ばさんばかりの勢いで、おせんに寄った。


「そうそう。私も初めて聞いたときは驚いたよ。あの人にも年齢ってもんがあったんだって」


 すずの感想もまったくその通りだった。甚五郎はなぜか人の時の流れから逸脱いつだつしたような、年齢不詳な気がしていたのだ。


 仰向けに寝転がったまま、すずはぼんやりと天井を眺めた。大引けが過ぎた後は、客を取った男娼が客と同衾どうきんしている以外は、さっきまでの華やかさが嘘のように静まり返っている。

 灯りもないすずたちの部屋はどこまでも真っ暗で、隣にいるおせんの姿も薄ぼんやりと影が見える程度である。


 急に怖くなった。


 暗闇の奥に何かが見えるかもしれない怖ろしさ、今まで居た世界から切り離されて、知る人も頼れる人もいない心細さ。それらが一気に押し寄せてきた。


「おせんちゃん」


 小さく声を掛けてみるが、返ってきたのは規則正しい寝息だけだった。

 真っ暗闇に独りぼっち――。


 すずは布団を頭まで被り、ぎゅっと両腕で自分のことを抱きしめた。

 もう、戻れない。戻るところはない。ここで生きていくしかないのだ。


 とっくにわかっていたことのはずなのに、夜になってみて初めて、これが現実なのだと思い知らされた。鼻の奥が痛くなり、固くつむった目に涙が滲んだ。

 泣いたところで現実は変わらない。何にもならない。それでも次々にあふれてくる涙を止めることはできず、すずは声を押し殺して、ひたすらに朝を待った。




 翌朝、すずはうめき声で目が覚ました。


「あれ、ここどこだっけ……」


 寝ぼけながら目を擦ると、ぱりぱりになった涙の跡が布団に落ちた。泣いた理由に思い当たり、次いでここがどこだかを思い出した。

 それでもまだはっきりと覚醒していない頭は、声がどこから聞こえているのかわからない。


 もう一度眠りそうになる意識を半ば強引に引きずり起こし、すずはゆっくりと上半身を起こした。

 隣を見れば、おせんが寝ている布団。顔の半分が隠れているのでおせんの顔は見えなかった。


「おせんちゃん。もう朝だよ」


 飯炊き女の起床時間が、何時か確認するのを忘れていた。てっきりおせんが起こしてくれるかと思っていたのだ。

 だが、おせんは起きる気配がまったくない。意外と朝に弱いのかもしれない。


「おせんちゃん」


 今度は軽く揺すってみようとずりずり近づいたところで、気が付いた。

 うめき声の主はおせんだった。


「大丈夫!?」


 一気に目が覚める。飛び起きておせんを見ると、赤い顔で浅い呼吸を繰り返していた。おでこに手を当てると、ぎょっとするほど熱い。

 すずは寝間着のまま部屋を飛び出した。


 広間へと続く廊下はばたばたと走っていたところで、こちらに向かって歩いてきていた甚五郎と行き会った。


「大変なの! おせんちゃんが」


 おせんの状態を伝えると、甚五郎はすぐに動いた。


「おせんちゃんのことはあたしに任せて。すずちゃんはとにかく朝餉あさげの用意をお願い!」


 甚五郎は野太い声を張り上げて若い衆を呼ぶと、手早く指示を出していく。

 すずは急いで台所へと走った。


 おせんちゃんがいるから何とかなるだろうと思っていた初めての朝餉作りを、急遽きゅうきょ、たった一人でやることになったのだ。

 材料のある場所もわからなければ、調理器具がどこにあるかもわからない。

 ほとんど泥棒のように台所を荒らし回りながら、かろうじて朝餉らしきものを作っていく。


「お味噌汁は大根に……馬鈴薯ばれんしょ!」


 息つく暇もないとはまさにこのことである。包丁で指を切りそうになりながら、大根と馬鈴薯の皮をき、鍋に放り込む。炊けたご飯を何個ものおひつにそれぞれ盛り、ばたばたとおかずを盛り付けていく。


 とにかく量が信じられないほど多いのだ。男吉原の台所はもはや戦場に等しい。


「おせんちゃん、どうやって一人で朝晩こなしてたんだろ」


 手が四本あったとしか思えない。でなければ体がもう一つあるのか。

 らちもない考えを巡らしながらも、手だけはしっかり動かす。


 そうして朝餉の準備を終えたのは、もう男娼たちがすっかり起き出した刻限だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る