第3話 咲き乱れる華

「おい、おまえ。そいつが優しいだけの男だと思ったら大間違いだぞ」


 ふいにぞんざいに呼ばれ、一気に現実へと引き戻される。


「ちょっと! 私の名前は、すず! おまえじゃない」

「どっちで呼ぼうが俺の勝手。おまえはただの飯炊き女。俺は葵屋あおいや昼三ひるさん男娼だ」

「だめだよ、月の兎つきのと。全ての女性はお客だって思わなきゃ」


 やんわりと夕顔ゆうがおがたしなめる。


「どうあってもこいつが客になることはねえ! 万が一、客になったとしてもこっちから願い下げだ。こんな浅葱裏あさぎうら

「あ、浅葱裏!?」


 浅葱裏とは野暮な田舎者を指す蔑称べっしょうである。


「もう月の兎ちゃん、お口が悪いわよ」


「そうだ、そうだ! たとえどんなに顔が良くても性悪しょうわるの男娼なんて、すぐに化けの皮ががれるんだから」


「みんなの言う通りだよ。顔だけの男娼なんて質が悪い」


「おまえがそれを言うか。優しい面して、偶然、上客が重なった日には二人とも一緒にどう、なんて平然とぬかす奴が」


「あれはだって、どちらかを選んだら、片方の子が可哀想じゃないか」


「いや、そこは断ろうよ。こういうところで一緒によろしくする方が嫌だよ」


 思わずすずが突っ込めば、夕顔は信じられないとばかりに目をく。

 顔が良い男はこんな顔をしても美しい。むしろ安売りされている優しい笑みを見せられる以上に、こういう顔の方が優越感を覚えるというからより罪深い。


「それならすずちゃんは自分が選ばれなかったとしても、納得する? 仕方ない、この人に譲ろうって思うの?」


「え、それは時と場合によるというか」


「それってどんな時と場所? こういう場所で、目の前には会いたかった男娼。そういうときの女の人が譲ることなんてないんだよ。少なくとも俺は知らない。大体、髪を掴み合って……」


「うわ、修羅場しゅらば……」


「そう、修羅場。だから一緒にどうって誘う。そうすると彼女たちはそんなのは嫌、自分を選んでって言うんだ。でも俺は選べない。するとどうなると思う?」


「どうって言われても……」


 すずにはこういう場所で、そういった経験をしたこともなければ、想像したこともない。あまつさえ三角関係以前に、誰かを本気で好きになったことすらないのだ。

 夕顔の問いが、わかるはずもなかった。


 代わりに月の兎が口を開いた。


「普通は選べない夕顔を責めそうなもんだろ。だけど、女たちは夕顔を責めない。責めたら嫌われるかもしれない。もし次にこういうことがあったときに嫌われていたら、断られるのは自分かもしれない。そう思うんだ」

「俺はそんなことしないのにね」


 不思議だと言わんばかりに、夕顔が小首を捻る。

 月の兎が夕顔を優しいだけの男じゃないと言った意味が、おぼろげにわかった気がした。


 つまり夕顔は八方美人なのだ。それも限りなく優柔不断に近い形で発揮されるにも関わらず、夕顔の根底にあるのは悪気のない残酷な優しさという。どうしようもなく罪作りな男である。


 なんとなく、どっぷりとした疲労感が押し寄せて来る。

 と、階段の方からみしみしと音が鳴り、一人の男娼が姿を現した。


「おまえらうるさいよ……」


 呆れたような口調で言うが否や、その男娼は大きなあくびをした。


「あらおはよう。宿木やどりぎちゃん」

「ああ。こいつらのせいで目が覚めた」


 宿木と呼ばれた男娼は、眠そうに目を擦った。


眼福がんぷく……」


 思わず、心の声が口をついて出る。

 これだけ立て続けに色男を見れば、そろそろ目が慣れてもいい頃だが、女の本能は何度でも熱心に仕事をするものらしい。


 月の兎とも夕顔とも違う美しさが、そこにはあった。月の兎が直線、夕顔が曲線だとすれば、この男娼が描く線は複雑に絡み合った糸のようである。鋭い刃のような切れ長の瞳は、気だるげでうれいを帯び、しゃに構えた口端にはうっすらと皮肉っぽい笑みを浮かべている。どこか不安定な危うさをはらみ、見る者を落ち着かない気にさせる。おそろしく整った容貌ようぼうも相まって、一度はまると抜け出せない類の男娼だった。


「……ここが大見世なのがわかった気がする」

「ふふっ、でしょう。毎日こんなに美丈夫びじょうふを見られるのは、ここだけよぉ」


 甚五郎じんごろうはよだれをこぼさんばかりである。

 確かにこれは女にとっても男色家にとっても極楽だ。

 すずは一生分の男運を使い果たした気がした。


「で、なにをそんなにぎゃーぎゃー騒いでたわけ? まだ張見世はりみせの時間だろ」

「ああ、この浅葱裏……じゃなくて、すずとかいうのが今度からうちの飯炊き女になるんだと」

「へえ」


 宿木が興味深そうに、すずの顔をのぞきこんでくる。

 間近に美のかたまりが迫り、すずは思わず息を止めた。


 近い。近い。まぶしすぎるって!


 宿木は楽しむように、しげしげとすずの顔を見つめると、意外にも人の良さそうな笑みを浮かべた。


「良い子そうじゃん」

「うん、俺もそう思うよ」

「おまえはいつもそう言うじゃねえか」


 見目麗みめうるわしい男娼三人に、良い子の評価を得て、嬉しくないはずがない。すずは内心舞い上がった。

 そんなすずの様子を見ていた宿木が、ふいに片方の口端を上げた。


「俺たち男娼が体すり減らして稼いだ金で、さぞおいしいごはんを作ってくれるんだろうね」

「え?」


 驚くすずの前で、人の良い顔をしていたはずの宿木の顔が、みるみる意地悪そうな笑みをたたえ始める。


「今度の良い子はどのくらい飯がうまいんだろう。俺たちの最大にして、唯一の楽しみは飯なんだ。うちにくる良い子ってのは大抵どっかの町娘なんだけど、いっつも犬のえさみたいな飯をこさえて、もじもじしながら、『お口に合うといいのですが』って……」


 宿木の周りの空気はもはや真冬の北風並に冷たい。


「俺たちは犬じゃないからねえ。犬のえさを用意されてもうまいって言うわけがないのに。なあ、そう思うだろ?」


 唖然あぜん――。


 あまりの豹変ひょうへんぶりにぽかんと口を開けて阿呆面をさらしていたすずは、同意を求められていることに遅れて気づき、慌てて首を上下させた。

 すずの返事を探るように、流し目で見ていた宿木が、ふっと凍結させていた空気を溶いた。


「まあ、そういうわけで期待してるから」


 まったくもってどう返せばいいのかわからない。混乱の極みに立たされたすずは、機械仕掛けの人形のように、もう一度首をこくんと下げた。


「ああもう。ほら、すずちゃんが怖がっちゃってるじゃない。これじゃあ、またすぐに辞め」


 間を取りなすように割って入ってきた甚五郎が、しまったというように口を噤んだ。


「またすぐに辞め……って、だから飯炊き女が一人しかいなかったの?」

「まあ、そうとも言うかしら……」

「それじゃまるで俺が悪いみたいじゃん。少なくとも俺だけのせいじゃないね。月の兎のせいであり、夕顔のせいでもある」


 つまりこの容姿端麗な男娼方のせいである。すずはそう結論付けた。


「ええい、まだるっこしい! 連帯責任だ!」


 それまで我慢強く沈黙を守っていた又六が叫んだ。

 これほどキンキラした着物を着ていながら、本物の美丈夫が放つ輝きには敵わないらしい。存在感を薄めていた又六だったが、連帯責任という言葉は強烈だったらしく、月の兎たちがビクッと肩をすくめた。


「飯炊き女一人雇うだけで、うちがいったいいくら損失を出していると思っている! 雇えど雇えど辞めていく。その度に募集をかける金が掛かってるんだ。わしが、金が減るのが何より嫌いなことは知っているだろう!」

「ええ、そりゃもういやってほどに……」


 甚五郎が重々しく頷く。


「いいか、この娘が辞めた暁には、おまえたちに責任を取ってもらう」

「ええぇーっ!」


 男娼たちから一斉に不満の声が上がる。

 すずとしても退路を断たれた気がしてなんとなく恐ろしい。


「文句は言わせん! もしこの娘が一年と経たずに辞めてみろ。おまえたち全員、三か月は一日一食、麦飯と漬物だけにするからな」


 場が凍り付いた。

 音という音が掻き消え、ここが男吉原のど真ん中であるということを忘れそうになるほどの重苦しい沈黙が落ちる。


 おそるおそる月の兎たちの様子をうかがうと、みな一様に顔面蒼白、魂が抜かれたような顔をしていた。声を掛けるのもはばかれるほどの衝撃を受けたらしい。


「じょ、冗談じゃねえ……」


 初めに我に返ったのは月の兎だった。血の気の引いた顔で呟くと、ふらりと倒れそうになる。


「ちょ、ちょっと!」


 慌ててすずが支えようとすると、ふいに物凄い力で両肩を掴まれた。


「辞めるな! 何が何でも辞めるな! 意地でも、歯ぁ食いしばってでも耐えろ!」

「い、痛いってば」


 身をよじって逃れようとするも、月の兎は離さない。まさに命綱とばかりに、渾身こんしんの力を込めて掴んでくる。


「最低でも一年は居ろ。一年後は自由の身だ」


 麗しい般若はんにゃというものを初めて見た。美しいものほど恐ろしいというのは本当らしい。


「わ、わかったから! わかったから離してってば」


 すずが何度も頷くと、月の兎はようやく解放してくれた。


「俺からも頼むよ、すずちゃん。麦飯だけじゃ、俺たち間違いなく飢え死にしちゃうからね」


「ああ。間違いなく死ぬな。俺たちが死んだら、おまえは大見世葵屋の名物、昼三男娼を三人も殺した伝説の飯炊き女だ」


「いらないよ、そんな曰く付きの称号なんて……」


 すずはげっそりとため息をついた。


「そもそも私だってここしか行く場所がないんだから」


 そう、せっかくこれほど顔が良いくせに、揃いも揃って癖のある男娼ばかりがいる場所だろうが、ここがすずにとって最後のとりでなのだ。


 この職を失ったが最後、いよいよ女吉原の鉄砲女郎へ真っ逆さまなのだから。

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