第2話 月の兎は今日も跳ねる

 見世の中もさぞ豪奢ごうしゃかと思いきや、意外と質素というべきか、妙に生活感にあふれた造りだった。入ってすぐのところに台所があり、煮炊きする匂いが充満している。右手には畳敷たたみじきの広間が広がり、右の土間では行商人が荷物を下ろしていた。


「なんか……外と違うね」


 外の造りが華やかだっただけに、その差を初めて見せつけられた衝撃は想像以上に大きい。

 がっかり感を隠そうともしないすずに、連れの男が慌てたように肘で脇をつついてきた。


「おい、又六またろくが来るぞ」


 連れの男の言葉とほぼ同時に、内所から楼主ろうしゅと思しき人物が歩いてきた。でっぷりとした布袋腹ほていばらが一足ごとに、でぶん、でぶんと揺れる。もしここが家畜小屋であれば、次に食用になるのは間違いなくこの豚、否、この楼主だろう。

 すずの反応を読んだのか、連れの男がすずの頭をがしっと掴んで下げさせた。


「ほら、挨拶」

「す、すずと言います!」


 たとえ一瞬とはいえ、楼主の姿が視界から外れ、すずは密かに安堵の息をついた。

 絶世の美丈夫びじょうふを見た直後にこれは正直きつい。嫌が応にも顔が引きつる。


 体形もさることながら、極め付けはその趣味の悪さである。真っ赤な小袖こそでに、金色の羽織はおり。首に異国風の飾りをじゃらじゃらと垂らした姿は、いきを重んじる男吉原とはかけ離れている。


 年は四十くらいだろうか。百姓の父親もたしかそのぐらいだが、吹けば飛びそうなほどせていたせいか、とても同じ年齢には見えなかった。


七面倒しちめんどうくさい挨拶なんかいいから、ちょいと顔を見せとくれ」


 又六に言われ、顔を上げる。やけにつやつやと血色の良い顔が、眼前に迫った。

 うう、嫌だ。

 反射的に顔を背けそうになるのを必死にこらえる。


「こりゃあいい顔だ! 実に男吉原向きだな」

「それ、どういう……」

「なにおまえさんの顔には男吉原向きの相が出ているってことだ」


 又六は実に満足そうだが、すずには意味がわからない。

 ともあれ、食い詰めた両親に女吉原に売り飛ばされそうになった身としては、男吉原で引き取ってもらえただけでも僥倖ぎょうこうというものだ。

 ましてや女吉原に門前払いを食らった身の上としてはなおの事――。


「じゃ、おやじさん。俺はここで」


 見世に入るときもそうだったが、連れの男はさもここには居たくないとばかりに、さっさと出ていく。


「さて、おまえさんの部屋だが」


 又六がそう言いかけたときだった。

 ふんわりと良い匂いが、すずの鼻元をくすぐった。どこかで嗅いだ匂いだと、記憶をたぐるまでもなく、匂いの元が現れた。


「ああ、やっぱり合格にしちまったのか」


 残念そうな声を上げたのは、張見世にいた男娼だった。着物に香でもきしめているのか、うっとりするほど良い匂いがする。


「出た」


 小さく呟けば、ぎろりとにらまれる。いったい何が不満なのか、張見世で声を掛けてきたときの甘さはまるでない。


「おお、月の兎つきのとか。まったく、また勝手に張見世から出おって」


「どうせ今日はもう客なんて来やしねえよ」


「何を言う。客の少ない日こそ、なんとしてでも女をふん捕まえて、しぼれるだけしぼり取るのが男娼ってもんだ!」


「んなこと言ったって、人っ子一人通らねぇんじゃ話にならねえだろ」


 月の兎はつまらなさそうに、どっかりとその場に座り込む。めくれ上がった着物からのぞく足が妙になまめかしく、すずは慌てて目を逸らした。


「それより、この鈍くさそうなガキ、本当に雇うのかよ。飯炊き女ならおせんがいるじゃねえか」

「おせんだけで男娼全員の飯を炊けるわけがないだろうが」


 これに驚いたのはすずである。


「え、ちょっと待って。こんなに大きな妓楼なのに、飯炊き女が私ともう一人だけ!?」

「まあ、色々あってな……」


 又六が気まずそうに言いよどむ。


「どいつもこいつも根性がなさすぎるんだろ」


 しれっと月の兎が返す。

 猛烈に嫌な予感がした。

 なにかある。絶対、この妓楼には何かある。


「はっ。まさかお化け……?」

「は?」


 月の兎と又六が揃って、目を丸くする。


「だから! ……出る、とかじゃないわよね。それなら私」


 居ても立っても居られないと、すずが腰を浮かしかけたところで、月の兎が盛大に噴き出した。


「ぶっ! はははっ。こいつ本物の阿呆だな。ここで出るのは幽霊じゃなくて」

「はーい、そこまで。それ以上言うと、この子、逃げちゃうじゃない」


 だみ声の女言葉に、ぎょっとして振り返れば、やけにごつい、女のような恰好をした男がいた。


「え、男娼? もう一人の飯炊き女?」


 すずが判断に迷っていると、その女っぽい男は、嬉しそうにうふふと笑った。


「あたしは男娼でも飯炊き女でもないわよお。でも男娼に間違われるなんて、あたしもまだまだ捨てたもんじゃないってことかしら」

「いや、ねえよ」


 月の兎が顔の前で手を横に振る。


 女っぽい男が着ている小花模様の着物は、大きささえ合えば、すずが着ている方がよっぽどしっくりきそうなほど可愛らしいものである。それを筋骨隆々きんこつりゅうりゅうと言っても過言ではない男が着ているのだから、異様さは尋常でない。その上、仕草や話し方が妙にくねくねとして女っぽいのだ。


「えーと……」

「これはうちの遣手やりて甚五郎じんごろうだ」


 又六の顔は苦い。


「あらいやだ。おやじさんってば、そんな顔しなくてもいいじゃなぁい」


 そう言って甚五郎は、バシッと又六の背を叩いた。


「ぐっ、げっほげほ!」

「まあ大変。自分のつばでむせるなんて、おやじさんももう歳ねぇ」


 甚五郎が心配そうに又六の背をさする。


「あの、つまり……男色家の遣手さん?」


 すずが恐る恐る問うと、甚五郎がうふっと吐息を漏らした。


「あ、た、り! 大正解よ。かしこい子ねえ」

「それのどこがかしこいんだよ」

「もう、月の兎ちゃん。今日もひねくれっぷりが、かーわいーい!」


 月の兎がぞっとするというように、腕をさする。

 さすがのすずも、男吉原の妓楼の中に男色家がいるとは思わなかった。これだけ男に囲まれているのだ。色々と問題になったりしないのだろうか。


「君の心配してることなら問題ないよ。甚五郎さんは絶対に俺たちに手を出さないから」

「きゃあっ」


 ふいに背後から声が聞こえたかと思うと、恐ろしいほどのさり気なさで肩を抱かれていた。


夕顔ゆうがおおまえはまたそういう……。そいつは客じゃねえ。俺たちの飯炊き女だ」

「おっとこれは失敬。つい、ね」


 夕顔と呼ばれた男娼はゆったりとした動作で、すずの肩から手を離した。


「い、いえ……。これからお世話にな……」


 そこからは言葉が続かなかった。


 優しく涼し気な目元は男にしておくのが惜しいほど美しく、まるで絵巻物に出て来る伝説の生き物のように神々しい。薄めの唇は知的さを引き立て、いやらしさはこれっぽっちもないのに、人を酔わせる静謐せいひつな色気が漂っている。まとう空気もどこかまろやかで、こちらの全てをゆったりと包み込んでくれそうな雰囲気があった。


 本日二度目の眼福!


 性悪やら悪趣味やら男色家を見た後では、より一層、清廉潔白に見える。口直しにこれ以上のものはない。

 すずがうっとりと見つめていると、夕顔は優しくにっこりと笑い返してくれる。


 これぞ、私が求めていた身も心も美しい男娼に囲まれた妓楼生活――。

 そう、このときはまだそう思ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る