第7話 あの事件が起きるまで。2





お母さんは幸いにもすぐに目を覚ました。


ただ、起きたお母さんは私や菜穂香の事を忘れてしまっていた。


私のせいだ。私が菜穂香の今までなんて話したからだ。


話さなければよかった。

そう思った。


母はそのまま入院することになった。



この日から私は自然と菜穂香から距離を取るようになった。


菜穂香は何も悪くない。それが分かってはいてもどこか許せない気持ちがあるのだ。


その日からだ。仕事で失敗するようになった。

保育園児達のちょっとした諍いにすぐに怒鳴ってしまう。優しく接しているつもりなのに怖がられてしまう。


そんな時には毎日のように酒に酔ってぐったりしてしまった。


ストレスは溜まる一方だった。



あの子が普通の考え方が出来ないのは私と母のせいだ。

一緒に住むようになった時にだってもっと話を聞いてあげれば良かった。それだけで今は変わっていたかもしれない。

私が…

私が…

私が…。


自分を責めるような言葉ばかりが頭の中を覆い尽くした。


そんなある日妹から連絡が来た。

ついさっき大翔が目覚めた、との事だった。



アルバイトのことについてはなんの追及も出来ず、終わってしまったらしい。

何も聞けなかったと言って嘆いていた。


次の日、大慌てで帰ってきた菜穂香は色濃く、怒りを含んだ顔で帰ってきた。

これから父の家に乗り込むらしい。


一体何かあったのか。


それを聞くまもなく、菜穂香は家を飛び出した。

心配になって後を追ってはみたものの途中で会った剛に止められてしまった。


この子なら何か知っているのかもしれない。


そう思って剛に今日あったことを聞いてみた。

大翔は下っ端暴力団員だったらしい。

より正確に言うならば金に釣られた大翔が手を出したアルバイトが父や誠と繋がりのある店だった。

それを聞いて菜穂香は全てを察したのだ。

だからこそ、父に大翔を解放するように頼みに言ったのだと剛は教えてくれた。


「菜穂香は大丈夫なの」

あの子は大翔の怪我を自分のせいだと言い出すのではないか。

巻き込んでしまったと自分を責めるのではないか。


生徒を助けるために、また変な要求をされるのではないか。


あの子は判断力が無いからもしそうなってしまったら危険だ。

私が、助けてあげないと…。


「ごめん、剛くん。私はここにはいてあげられない。あの子を助けなきゃ。」

「やっぱり姉妹ですよね…。分かってます。俺はあなたを止めるためじゃなくて、助けを呼びに来たんです。」


そう言って携帯を弄ると地図を見せてくれた。それは近辺にある工場の地図だった。


剛はそれをタップし拡大したあとでその一部を指さし、

「大翔はここに監禁されています。

先生もきっとそこに連れていかれるでしょう。

だから俺と先回りして大翔を助けてあげるんです。」


私は二の句も言わずにその提案に乗った。






ああ、うぜぇうぜぇ。


あの使えね癖にいっちょ前に口出ししやがるあのクソガキも最近俺の周りを嗅ぎ回ってるガキもうざったくて仕方がねえ。


しかもそのうぜぇガキをまとめて始末するために呼び出されてきた所に来てみれば誰もいやしねえ。

話ではここにクソガキがいるはずだった。


んまあ、俺にとっちゃどうだっていい。

今日俺とあいつの結婚が正式に決まるんだ。これであいつを好きにできる。


おやっさんに連れてこられたあいつは鬼のような形相でこちらを睨んできた。


ああ、怒った顔も堪んねえな。


おやっさんの言う通りだとここでクソガキを差し出す代わりに婚約の言質をとる予定だったんだが…


さて、どうしたもんか。


どうせ興味の薄いクソガキだ。

どうせなら最大限に利用してやろう。


「あのクソガキなら既に首切ってやった。使えねえし、もう要らねえ。」


そう言った途端。安堵とともに顔をキラキラさせながらこちらを見てきた。


この女…。

とんでもなく嬉しそうな顔をしやがる。

男心が分かってないねえ。


「もうあのクソガキには手を出さねえよ。その代わり、俺の嫁になれよ。そうすればもう腹ん中のガキは殺す必要もねえんだ。」


「結婚さえ約束すれば、もうあの子達には手を出さない?」

「ああ、約束してやらあ」


こいつが俺の物になるんだったらあんなガキ共の事なんかどうでもいい。

それにここまで連れてきた時点でこの賭けには勝っていたようなもんだ。こいつは会えばいつだって「生徒が…」「生徒が…」と煩かった。

こいつはガキを助けるためなら何でもするだろう。


ついでだから、こいつから全てを奪ってしまうのも面白いかもしれない。


「あとはそうだなあ。教師をやめて俺が贔屓にしてる店で働けよ」


そう言った時のこいつの顔は一生忘れないだろう。


数年間、大学に通ってまでしてやっと叶った夢。それを踏みにじってやったのだから。





大翔を助けたまでは良かった。


彼は腕と足を拘束されていただけで目立った外傷も無かった。

だから拘束を解いた後、彼を連れて菜穂香が連れてこられているであろう場所に来た。


そこで聞いた話は菜穂香にとっては悪い条件ばかりの話だった。


生徒を助ける代わりに婚約しろ?

あれだけ頑張ってなった教師を辞めて贔屓にしてる店を紹介するからそこで働け?



ふざけている。


止めなければ、そう思って踏み出そうとしたところで菜穂香は


「……分かったわ。あなたが本当にあの子達に手を出さないって言うなら私は教師を辞める。」

そう言った。

「でも、この子が産まれるまでは待って欲しい。もうこの子だけは殺したくないから。」


考えてみれば、あの子がここに来た時点で答えは決まってしまっていたのだ。あの子は誰かのためなら自分の命すら投げ出してしまいそうな、そんな子だった。


もう、何かもかも手遅れだったのだ。

私の隣に居る二人もとても悔しそうにしていた。


自分達を守るため、自分達のせいで全てを投げ出したのだ、と。


私は菜穂香のことも心配だが、二人のことが心配になった。

この子達にこのまま気負いすぎて潰れて欲しくはない。


これ以上、この場にいさせてはいけない。


本能的にそう思ってしまい、私は二人の手を取って工場を後にする。


妹を助けてあげることが出来なかった悔しさ。

そのせいで純粋な青年達に気負わせてしまう。


自分が惨めでたまらない。




その日からしばらくの間。


菜穂香は家に帰ってこなかった。



そんな次の日に母の記憶障害が治った。

母は菜穂香の心配をした。


元気でやっているのか。

教師生活で大変な思いをしていないのか。

父や誠に嫌な目に遭わされていないか。

などなど。


その質問の答えは全て『ノー』だった。


でもこれは母に伝えちゃダメだと思った。

菜穂香の育ってきた環境を話しただけでも意識を失い、記憶障害にまで陥ったのだ。


これを話してしまえば母は壊れてしまう。

そんな気がした。



次の日、自らで事の顛末を知ってしまった母は案の定壊れた。

そしてその一週間後。


家の中で首を吊って死んでいた。



おそらく自殺だろう。


その光景と事実突きつけられて私は死にたくなった。




母・大川香織の葬式の場。

そこには菜穂香も来ていたし、父も誠もいた。


菜穂香が呼んだのだろうか。大翔と剛の二人も来てくれていた。


母の棺桶の前で泣き喚く菜穂香。

嘲笑うようにして離れたところで立っていた父。

とても暇そうに欠伸をしながら席についている誠。


もう父や誠には何も思わないけれど、泣き喚く妹は心配だ。



久しぶりに妹と顔を見れたと思ったら、それが母の葬儀だなんて…。


葬儀が終わったあとで、話が出来ればな、なんて思っていたが、それは父によって妨害されてしまった。




数日後、大翔と剛と話をした。

二人に会うのはあの日以来だ。


あの日の翌日、大翔と剛は菜緒香と三人で話をしたらしい。

今までの話やこれからの事。

ふざけて妊娠した子どもの名前の話もしてみたらしい。

その時にはまだ名前決めていなかったらしく、聞けなかった。

そんな二人は名前を提案してみたらしい。


二人になんて提案したのか聞いてみると

「彼方かな。この空のように遥か遠く、たくさんの色んなことを知って見て学びながら生きてほしいって意味を込めたんです。

先生には出来なかった生き方だから…」


提案した名前は二人から恩師の子への願いを込めた名前だった。


菜穂香はこの願いをどう受け止めただろうか。



その話をしたあと、ふと二人の未来も楽しみになって聞いてみた。

「二人は将来の夢はある?」


そう聞いた途端、剛が突然真面目な雰囲気で話を切り出した。


「清香さん、先生のお母さんが亡くなったのは自殺なんかじゃないと思う。」

「……え?」


剛の言ったことがすぐには理解出来なかった。

母の死は自殺じゃなかった…?


「あれは先生の父親とあの誠って男がが仕組んだ殺人だ。

でも証拠なんて無い。綺麗さっぱりと」

そういう剛のその言にはなんだかすんなり信じてしまえた。

父はまだしもあの男ならやりそうだと思った。

剛の話は続く。

「俺は先生の生き方を狂わせたあの男の事も、そんな生活に縛ってきた誠って男のことも許せない。

だから俺はこれからもあいつを追い続け、先生が幸せになれるようにするため弁護士を目指します。」


何も言えなかった。

剛に被さるようにして大翔も夢を語ってくれた。

「俺もあいつらのことは許せない。本当なら俺も剛の手助けがしたい。

でもそれは無理だ。

俺は禄に勉強もしてこなかったから、何もわかんねえし助けてやれねえ。

それに俺。先生のお陰で変われた気がするんだよ。だから俺は教師になって先生がやろうとしてたことを継いでいきたい」



二人共、本当に菜穂香のことを思って未来を考えてくれた。


ただでさえ、頼れる存在がいなかったあの子のためにこんなにも言ってくれているのが嬉しくて嬉しくて涙が零れると共に今までの自分が恥ずかしくなってきた。


ああ、何もしてこなかった私と比べてあの子は本当に凄いな。


元は赤の他人同然だったこの子達がこんなに言ってくれるようになるまでに生徒を大事にしてきた。

生徒を守るために全てを投げ出してまで、必死に生きようとしている。



私はあなたの事を誇りに思うわ、菜穂香。




二人と話したあと、私は二人と菜穂香のために出来ることを考え、話し合った。


もし、私たちが何かをすれば巡り巡って傷つくのはあの子だ。

だから逢瀬家に関わるのは辞める。


二人は今まで通り学校に行って菜穂香との日々を過ごす。

ある日、二人はもうすぐ退職する菜穂香に今までの感謝を伝えると共に気持ちを伝えたらしい。


菜穂香はとても喜んで恥ずかしそうに二人に悪態を付きながらその場をあとにしたそうだ。

この話を聞いて私も凄く嬉しくなった。


逢瀬と縁を絶ってからしばらく経った。

けれど、これからはどんな形でもあの子を見守れる位置にはいたいと思っていた。


だから私は知り合いの探偵に菜穂香の近辺を探ってもらうことを依頼した。


彼の名前は齊藤康隆。

探偵を名乗ってはいるが、本職は弁護士らしい。


依頼料の話をすると、彼はそれを断り、「依頼を受けたのだから、きっちり全うしたい」

そう言って依頼料と引換に結婚を申し込んできた。


驚きはしたものの、「戸籍上夫婦になっていた方が色々と都合はいい」との言葉に了承し、私は『齊藤清香』になった。


当然、依頼を申し込んだ時点で菜穂香の過去の話や逢瀬家の話もしていたので、彼はすぐに菜穂香の内情を探り始めた。


どうやら探偵としての仕事は初めてらしいが、とても手際よく仕事をする彼は弁護士よりも探偵の方が向いていると思えてくる。

その内に大翔や剛も康隆に教えを乞うようになった。

学校も行かずに朝から晩まで康隆に付き添う二人。



最初こそ戸籍上の関係だと言ってきたが、私は彼と共にいる内に段々と彼に惹かれ始めた。


だから彼と出会ってから体の関係を持つのもそんなに時間は掛からなかったと思う。



それから1年も経たないうちに私は娘の綾香を出産した。


その頃には出産期がきた菜穂香は学校を退職していた。


上手く行けばいい。

そう思いながら出産の報告を待った。


だが、夫が報告してくれたのは、菜穂香はまたも流産をしてしまったことだった。

今度は菜穂香も望んでいなかったのだろう。彼女は子どもを殺してしまった罪悪感に潰れそうになっていたらしい。



一時は諦めたかに思えたが、それでも菜穂香は諦めなかった。

すぐに立ち直り次を考え始めたらしい。


それから数ヶ月後、菜穂香と誠の結婚式に招待された。娘の綾香を連れて行きたくは無かったので大翔に預けた。

彼は胸を張って受け持ってくれた。とても頼りになる。


私は康隆を連れて結婚式の招待に応じ、普段着ないドレスなんかを引っ張りだし、式に赴いた。


私が来たからかもしれないが、なんだか会場は殺伐としていた。

いや、違う。康隆がいるからだ。

弁護士の肩書きを持っている康隆が居るためみな大きく出れないのかもしれない。


そんな殺伐とした雰囲気の中で結婚式は滞りなく行われた。


まず安心したのは元気な菜緒香の顔が見れたこと、変な衣装を着せられることなく白のウェンディングドレスにマリアベールといった普通の花嫁衣裳で出てきたことだ。


菜穂香はとても綺麗だった。

しばらく見ないうちになんだか大人の色気を纏った風に見えるのは、子どもを亡くしてしまったことによる影響だろうか。

菜穂香が命を重みを知ってくれたようで皮肉にも嬉しくなった。


この結婚式が終わってしまったら菜穂香とは一緒に居られなくなってしまう。もしかしたら顔を見ることも出来なくなるかもしれない。

手の届かない所へ言ってしまう妹に何も言ってあげられない自分が許せない。


掌を握り締め、立って時間が過ぎるのを待つしかない。


悔しい思いをしながらも後のことは康隆に任せ、式場の外に出てその場を後にしようとしたとき。

「待って、姉さん」


菜穂香が私を呼び止めた。


「あの、私姉さんと話したいことがあるの。だから辛いかもしれないけど、終わるまで待ってて欲しい」

そんなお願いだった。


式が終わり、主役であるはずの菜穂香がこの場から居なくなると聞いて会場内の客は騒然としたが、そんなのお構いなしに私を連れ出してくれた。


その足で近所の公園にあの時のように二人で座って話をする。

「私ね。やっと分かったことがあるの。

姉さんやお母さんがたくさん私を心配してくれていたこと。

私の夢を本気で応援してくれてたこと。

私を想ってくれていた大好きな生徒のこと。


私はたくさんの人から愛されているんだって事を今になって実感した。


私、誠さんがなんて言おうとも、私はこれからも姉さんと一緒に居たいよ。」


菜穂香はようやく愛されていることを自覚したのかもしれない。

私は『一緒に居たい』って思ってくれてたことが嬉しかった。


「今までたくさんの子を殺してしまっていたんだなって実感したから、本当はあの人となんて結婚だってしたくない。私を本当に想ってくれている人と結婚したい。でも、これがその大好きなあの子達を守るためだって思えるから。だから嫌でもなんでも我慢していける気がするんだ。

姉さんや大翔くん、剛くんが私の心配をして色々としてくれていていたことは知ってる。それが私の支えになっているから。だからこれからも影で私を支えてください。」


そしてこれはこの子が私にする初めてのお願いだった。今までこの子がこんなにも真剣に自分の今までを悔い、これからをこんなに笑顔で話す日があっただろうか。

私はこの子の思いに答えたい。そう思った。

そんな妹の思いに答えなくて何が姉か。


「好き勝手なことばっか言ってんじゃないわよ。それに本当に今更すぎるわ。私、もうあなたのためにしてあげられることがないんじゃないかってどれだけ悩んだかわからない。それはあの子達だってそう。

でもまだ出来ることがありそうで良かったわ。仕方が無いからこれからも支えてあげる。」


そう言ったあとの菜緒香の顔はとても嬉しそうで、頭を撫でてあげるとその後しばらくは一人で泣いていた。



「もう平気?」

少し落ち着いたことを見計らって声をかけてみた。

目を擦りながらも頷く。


途端にパッとこちらを向くと、

「あ、そういえば姉さんも旦那さん出来たんだね。おめでとう」

と祝の言葉を告げてくれた。

不意な事に驚きつつ、言葉を返す。

「ん、ありがとう。実は今日は連れてこなかったんだけど娘だっているのよ」

「娘さん!?

って言うことは私伯母さんになるの!?」

私の娘のことを知り、自分が伯母になってしまうことを悲しむ菜穂香。

そんな菜穂香が可愛くてからかってみたくなった。

「そうよ。24歳の伯母さん笑」

「ちょっと、笑わないで」

ここまで来て初めて姉妹らしい会話をしたかもしれない。

今までこの子とまともに向き合ってこれていなかったことを悔やみながらも今この時があることを安堵する。


「私の娘、凄い可愛いのよ。今度、紹介してあげる」

「やった!

じゃあ待っているからね。約束だからね!」

「ええ、約束。いつにする?」

「んー、来週時間取って家に帰るよ。その時にしよ」


私の幼い娘に会うことで菜穂香が自分の子どもをもっと大事にして、愛せるようになればいいな。

次、会うときに無事な姿でいてくれたらいいな。

元気に笑顔を見せてくれたらいいな。


そんな願いを込めてした約束。





結局、その約束が叶うことは無かった。

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