『弱虫』
翌朝まで私はベッドの上でぐったりと寝込んでいた。
動こうという体力も気力もなかった。
最近はずっとこうだ、ダメ人間一直線なのはわかってるけどどうしようもない。
どうせ今日もまた似たようなものだろうけど、そろそろ休みたい。
だからそろそろ『乙女』か『善良』、『弱虫』あたりが表に出てきてくれればいいんだけど。
ああ、でも『弱虫』が出た後は高確率で『暴君』が出てくるからな……
あいつが出てきたら今度こそ死ぬ、というか殺される気がする。
そう考えると『弱虫』よりも先に『乙女』か『善良』……妥協で『クソ真面目』あたりが出て来てくれればなんとか……
そう考えているうちにドアが音と立てて開かれる。
上半身を起こして、慌ててベッドから降りて立ち上がる。
立ち上がりきってドアの方を睨むと、ドアを後ろ手で閉めた傘峯がびくりと肩を震わせた。
その態度ですぐに誰かわかったので、向こうが口を開く前にこちらから口を開いた。
「久しぶりだな、『弱虫』」
そう声をかけると、奴は曖昧な表情で困ったような笑みを浮かべた。
「ええ、お久しぶりです黄桜さん。また会えて嬉しいです」
「私はちっとも嬉しくない」
ピシャリと容赦なく言い放つと、奴はいかにも傷付いた、といった顔になった。
若干涙目になっている、ザマァ。
罪悪感などない……『乙女』を泣かすよりはまだマシだ。
「で……ですよね……ごめんなさい」
「謝ってなんでも許されるなら警察はこの世に必要ない」
実によくあるフレーズを出来るだけ冷たく言い放つと、とうとう奴の眦から一筋の涙が溢れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「泣いて許されるのは」
子供までだ、そう続けようとしたけれど、途中で遮られる。
「でも……!! 僕はずっと貴方に会いたかった……!」
む……
「『弱虫』のくせに生意気な……」
私の言葉を遮るなんて、随分とまあ気が強くなったじゃないか、なあ?
と、一歩歩み寄って顔を覗き込むと奴は顔を面白いほど蒼白にさせた。
「ひっ!? ごごごごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ!! 出過ぎた口を叩きましたぁぁあ!!」
「叫ぶな、うっさい、黙れ」
「はいぃ!!」
そう喧しく返事をして、奴はそれきり黙り込んだ。
「……」
「……」
「……」
「……」
……あ?
おかしい、別に言霊なんざ使ってねーのになんでだんまりなんだよ。
おい、なんか言えよ、間が持たない。
「……おい」
「ひぃっ!!? ななななんですか!?」
「お前、何の用でここに来たんだ?」
「え? 黄桜さんに会いに……」
「……それだけ?」
睨みつけると奴は一瞬竦み上がったが、すぐにその姿勢をやめた。
「ええ、それだけですよ。僕は何もしません。他の僕とは違ってね」
真っ直ぐこちらの目を見てそういう奴の声には嘘は含まれていないようだ。
「……そうか」
「……止められなくてごめんなさい」
「お前じゃ無理だろ。最初から期待なんざしてねーし、お前が謝る筋合いはない」
「……」
奴は何も言わずに不甲斐なさそうな、悔しそうな顔をした。
なんでそんな顔をする? 本当の事だろうが。
少なくとも以前のお前なら……そのことを受け入れてただ曖昧に笑ってその場を濁すだけだったのに。
こいつも……いや、こいつらも私と同じで多少なりとも変わったのか。
私の場合は無理やり変えた、という方が正しいんだろうけど。
言霊の力で無理矢理自分の心を歪めて呪い続けて三年間。
私がそんな事を続けている間に何かしらの事はあったのだろう。
なんて考えていると、黄桜さん、と名前を呼ばれたので思考にふけって伏せ気味になっていた顔を上げる。
「……僕が出てきたということは、近いうちに奴……黄桜さんの言うところの『暴君』が出てきます」
……そう。
そうなのだ。
だからこそこいつにはあまり会いたくなかったんだ。
たとえ、数ある傘峯の人格のうち、比較的付き合いやすくかつ会話が通じると言っても、その次に控えているのは大体奴なんだ。
「ああ……出てくるだろうな、あのクソ野郎共の中でも特にクソなのが」
傘峯の人格の中でも2番目……一番目のあれは例外らしくほとんど出てこないので、実質トップの攻撃力を持つ奴は、まさに暴君そのものだった。
乱暴者で、自分の気にくわない事があるとすぐにブチ切れて暴れ出したり、そういう面倒な奴だった。
実際私は拾われてから捨てられるまでに何度も殺されかけている。
……思い出したら殴られたわけじゃないのに頭が痛くなってきた。
思わず額に手を当てていると、『弱虫』がおずおずと口を開いた。
「……だから」
が、そこで奴は口を噤む。
何度かパクパクと口を開くが、肝心の言葉が何も出てこない。
「だから?」
「……だから……逃げて、ください」
その声は血を吐くような掠れた声だった。
「大丈夫なのか?」
色んな意味でそう問いかけると、奴は少しだけ顔を伏せて、ええ、と答え、私に何かを差し出してきた。
「これと、これを。貴方のアパートの鍵は兄さんが貴方を拉致した時に掛けているので、空き巣にでも入られていない限りは大丈夫でしょう」
そう言って手渡されたのは見覚えのあるラメラメのビヨビヨが付いた金属片と、紙袋。
紙袋の中を覗くと、私が拉致られた時に来ていた服だった。
綺麗に選択されていて、少し強いが不快感のないしっとりとした柔軟剤の香りがする。
「……準備がいいな」
「ええ……初めから……兄さんが貴方を拉致した時から、こうすると決めていましたから」
兄さん?
一瞬わからなかったが、そういえばこいつは『主人格』の事をそう呼んでいたことを思い出す。
「ふーん……」
逃してくれるのならありがたい。
ありがたい、けど。
なんかずいぶんあっさりしてるな。
元々こちらからここから出せと訴えようと思っていたんだけど、まさか向こうからそう言ってくるとは思ってなかった。
いや、言ってきそうだとは思ってたけど、本当に言ってくるとは思わなかった。
……でもまあ、逃がしてくれるならありがたく逃げさせてもらおうか。
……時間稼ぎにしかならないだろうが。
それでも打てる手はある、それも飛び切りの手が。
ま、ただの人任せだけど。
「じゃ、ありがたく逃げさせてもらおうか」
そう言って、着替えるから出て行け、と言おうとしたところで奴は突然両手で私の腰に手を回し、抱きしめた。
「……おい」
逃すってのは嘘か?
そう問い詰めようとしたところで、奴が震える声で囁いた。
「すみません、少しだけこのままで……」
そう言って奴はこちらを締め付ける力を強めてきやがった、痛いからやめろ。
けどまあ……少しだけって言ってることだし、多少は付き合ってやるか。
そんな事を気まぐれに考えていると、奴は震えた声でボソボソと言葉を続ける。
「僕だって黄桜さんの事が好きです……できることならずっとそばにいてほしい……!!」
どストレートな告白に一瞬たじろいでしまった。
だって、意外すぎて……
そういう自分の願望を口にできる強さを持ち合わせていないからこその『弱虫』だったのに。
「でも駄目だ。僕だけは駄目なんだ。僕以外の僕が黄桜さんを傷付けるのなら……僕だけはあなたを傷付けるわけにはいかない……!」
傘峯の中の自分よりも他者を優先とする、というか自分自身を蔑ろにする感情が集まってできたのが自分の正体だと、かつてこいつは私に語った。
確かにだいたいその通りなのだろう。
だからこそこいつは『弱虫』なんだ。
確かに他者を思いやるその心は尊ぶべきものだが、自分自身を蔑ろにし続けて偶然そうなっただけのそれは、ただの弱さだ。
「……でも、ごめんなさい黄桜さん……!! 矛盾してるのはわかっている……! あなたを今逃したところで別の僕があなたを必ず連れ戻すだろうし、だからこそ僕は今あなたを逃すんだ……!」
囁き声はどんどん大きくなっていって、今ではただの慟哭だった。
そう、その通りなのだ。
自分を捨て続けるくせに、最後の最後で自分を優先する。
それもまた弱さの一つだ。
だからこそこいつは……こんなふうに私に縋り付いているのだろう。
「……あなたの事を本当に思うのなら……自殺すればそれだけで済むのに……!」
……もういいよ、お前のそういう嘆きは聞き飽きた。
だからもう、黙れ。
「……見逃してくれるだけありがたい。その間にやっておくべきことはできるだろうから」
それだけ言って、身じろぎをして、奴の体を自分から引き剥がす。
こちらが拒絶の意思を見せれば、あれほど強く縋り付いていた腕が簡単に解けて、それがひどく滑稽で思わず笑い声を立ててしまった。
着替えるから出て行け。
そう言うと奴は何も言わずに顔を伏せて、部屋を出て行った。
趣味の悪いパジャマを脱ぎ捨てて、着慣れたTシャツとジーパンに着替える。
それだけでなんだかひどく落ち着いた。
趣味の悪いパジャマをベッドの上に放って、部屋から出る。
「……行きましょうか」
ドアの前で待っていた『弱虫』は、それだけ言って、あとは何も言わずに廊下を歩き出した。
私も何も言わずについていく。
豪奢な廊下を抜けて屋敷を出た私達を蒸せ返るような熱気が待ち構えていた。
ああ、そうだった。
今はそういう季節だった。
庭を抜けて、たどり着いた門の前で奴はようやく口を開いた。
「ここから先はわかりますね?」
その問い掛けにもちろんだと答える。
元々何年もこの屋敷に住んでいたんだ、土地勘はまだ残っている。
「そうですか……ではお気をつけて」
ああ、じゃあな、とそれだけ言って私は屋敷の門を抜ける。
「……結局、僕にはこれしかできないんです。守りたいのに……結果としては守れてないし……結局自分のことばかりで」
そんな泣き言が耳に入ってきたので、振り返って言葉を投げかける。
「なあ……『弱虫』、私はお前のそういうところ、嫌いじゃないよ」
最終的に自分を優先するのも弱さだとは思うけど、自分を捨て続けるよりは余程マシだろう。
門をもう一度くぐり抜けて、奴の元まで引き返し。
だから頼む。
と、奴の耳元で囁いた。
「わかりました」
『弱虫』にしては強い口調で奴は言い切った。
その言葉の強制力にも、私がたった今奴を利用したことも気付いただろうに。
ばかなやつ。
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