第30話 無人受胎



 青比呂は慎重に辺りを見渡す。風景は子供の頃に通い慣れた、公園から自宅への帰り道だ。

 閑静な住宅街で、人影はない。夕暮れが差し込み影は斜めに倒れアスファルトに溶け込んでいた。どこからか夕飯の支度でもしているのだろうか、良い匂いが漂ってくる。


 しかし一切音はなかった。車が走り抜けるエンジン音も、民家から聞こえる家庭の笑い声も、何もかもが無音の空間だった。


「夢……じゃないわけだ。しかしどういうことだ、これは……」


 あの後。アカジャクとの一戦の後のことなら、分からない。自分は意識を失ったままである。最悪の場合なら、何かに乗っ取られているとでも想定した方がいいのか。


「しかし、誰が何のためにそんなことを……」


 ぼやきつつ路地を抜け、出来るだけ広い場所へと移動しようとした。道は記憶通り、子供の頃何度も遊び回った公園の周辺を「再現」している。ならば、公園にでることも可能だ。


 公園は申し訳程度の遊具と砂場ぐらいしかなく、だが子供の頃にはとても広く遊び道具に満ちた空間に思えていた。


 360度を見渡せるこの場所なら、何がどう起こっても把握しやすいのではないか。青比呂の危機感が自然とそんな意識を取らせていた。公園には特に仕切りはなく、背の低いブロック塀がある程度で、地形はほぼ平らだった。

 何かが起これば把握しやすくはあるが、仮に襲撃の類いがあれば四方を囲むことを許してしまうリスクを伴う。しかし。


(……今は何が起こってるかを把握するのが先だ。きっかけをつかまないとな……)


 腹をくくり、あえて公園にとどまった。対処ならその後どうとでもすればいい。青比呂はいつでも『ミヤマヨメナ』を展開出来るよう、左手の薬指に意識を集中させていた。


 がり、と……警戒していた青比呂の意識に何かが引っかかった。慌てて振り向く。


「何!?」


 振り向くと同時に身をよじり、黒い影の突進をすれすれのところで回避した。倒れかけた体を無理に立て直そうとはせず、地面に伏せて四つん這いになり、次の動きに備え周囲に視線を飛ばした。そして唖然とする。


「……『ステイビースト』……!?」


 青比呂を背後から襲ったシルエットは、凹凸のないプレートで出来た肌を持つ、猟犬型の影だった。それが、ゆっくりとこちらに向き直る。


「な、なんでこんなところに『ステイビースト』が!?」


 慌てて身を起こす青比呂の左右、そして背後に滑り込む様にして、新たに三つの影が現れる。どれも同じ、猟犬型の『ステイビースト』だった。

 形通り、こちらを見据えるかのように獲物を狙うタイミングをうかがい、地面に身を低くし、突進するチャンスを狙っていた。


「くそ……今は迎撃するしか!」


 意識を左手の薬指に呼びかける。今はせせらぎがいない。『ステイヒート』の威力は落ちるだろうが、ガードの手すらないのでは話にならない。まずは一手を稼ぐ時間が必要だ。

 しかし。


「……!?」


 左手を振り向く。薬指にはめられた指輪は、何の反応もなくただそこに収まっているだけだった。


「な……」


 何故、と戸惑っているうちに一体の『ステイビースト』が青比呂の足元を狙って頭から突っ込んできた。青比呂は思わず後ろに飛び退くが、真後ろにも一体『ステイビースト』が控えていたことを失念していた。


「くっ……!」


 身をひねり振り返れば、『ステイビースト』は大きな口を開け、こちらへと飛びついてきていた。『ステイビースト』から見れば自ら口の中に飛び込んできた様なものだ、これとない獲物だろう。


「くそったれ!」


 悪態をつきながら、青比呂はそのまま体をひねりきり、強引に足を回して靴底を『ステイビースト』の牙に蹴りつけるよう押しつけた。悪あがき、であったが、『ステイビースト』も同じく突進状態であったため、勢いはカウンターとなって青比呂の体重を思い切り口で受け止めてしまい、互いにはじけ飛ぶ形となった。


 青比呂は何とか着地したが、『ステイビースト』は転倒し、しかししなやかな動きですぐに立ち直る。ダメージらしきものは見受けられない。


「くそ……どうなってる!」


 何故『ミヤマヨメナ』が……『防御領域』が発動しない!?

 何度も意識を送ってみるが、何の反応もなかった。これではただのアクセサリ-である。


「それにこいつら……一体どこから沸いてきた……」


 未だ襲いかかる気配を見せる四体の『ステイビースト』に囲まれ、青比呂は焦燥感に駆られ思考を巡らすが、頭の中の整理が追いつかない。


「くそ、こんなわけの分からない場所で、おまけに『ステイビースト』が出るだなんて……」


 ふと。

 自分で口走った言葉に奇妙な違和感を覚えた。


「……」


 青比呂はまだ焦りでにじむ心を燻されつつも、じっくりと自分を囲む『ステイビースト』を見渡す。


(……こいつら……いや、さっきも。そうだ!)


 おかしい。

 焦りがじわじわと鎮火していく。

 そしてその「疑惑」を確かめるため、青比呂は靴底をそっと上げてのぞき見た。


「……」


 ごくり、と唾を飲む。


「そうか……そういうからくりか」


 一人つぶやく青比呂は、依然警戒を解かないままであるが、肩の力を抜き、動くことよりも思考することに専念しはじめる。

 その間、猟犬型の『ステイビースト』たちの威嚇は止まない。


(からくりがあるってことは、仕掛けた人間がいるはずだ。そいつは何を企んでるんだ……俺を、「ここ」へと閉じ込めたやつは)


 この夢のような場所に居続けるのは危険だ。早く脱出しなければならない。

 だが、果たして上手く脱出出来るか……そこはやってみないと分からない。だが試す価値はあるだろう。もうからくりは、相手の「手札」は分かったのだから。

 その思考にかみつくかのように、右にいた『ステイビースト』が一体、牙をむいて飛び込んできた。

 それに青比呂は一瞬体を反応させかけた、が。


(鎮まれ)


 目を閉じた。そして自らに命じるよう、心にあふれた危機感、反射的に動こうとした体をなだめ、体を極力リラックスさせる。

 その体に『ステイビースト』の口が大きく開かれ、研ぎ澄まされた牙が腕へと降り注ぎ、凹凸のないシルエットは青比呂の体をすり抜けた。


「……理屈理論までは分からないが」


 青比呂は目を開き、残った三体の『ステイビースト』を見据えつぶやいた。


「幻覚かまやかしか……どちらにせよ、ここにいる『ステイビースト』は本物じゃない」


 とんとん、とつま先を地面に弾ませ、靴底をひっくり返す。

 そこには、『ステイビースト』の牙を受けたはずの跡もなければ衝撃の痕跡もなかった。至って普通に履いてすごした、青比呂のスニーカーであった。


「こいつらが出てきた瞬間に気づくべきだった……何より、「マザーシグナル」が出ていない。本物の『ステイビースト』なら接近されただけで気絶寸前だ。なのに直にぶつかっても何もないってのは、ちょっとな」


 言葉の最後は失笑に変わってしまう。あまりにもお粗末な「幻術」と、それに見事ハマってしまった自分が間抜けで笑えてきてしまった。


 その笑い……嘲笑に腹でも立てたか、『ステイビースト』三体がうなり声を上げる。


「暗示ってのは怖いものだ。本人が認識してれば、水でも「熱湯だ」って言われりゃ火傷になるんだからな。実際水ぶくれぐらい出来るしな。俺もお前らが本物だって思いこんでたから、さっき衝突出来た……が」


 その一体、背後にいた『ステイビースト』が牙をむいて飛びかかる。青比呂は振り返る事もなくその突進を影に変え、影は夕陽の中へと溶けていった。


「さてと……んじゃ、目を覚まさせてもらおうか」


 残り二体の『ステイビースト』が影へと消えていく。夕陽が強く差し込み始めた。音のない世界が、静かに薄れて斜陽に沈んでいく。

 紅の世界が、伸ばした建物の影すら押し倒し、全ての輪郭を熱で溶かす。


「どこのどいつだ! 俺の世界あたまの中ほじくり返そうとしたやつはぁ!!」



□□□



 ガシャン!


 と、派手にものが割れる音で目が覚めた。

 青比呂はぼんやりとした視界の中でゆっくりと眼球を動かし、徐々に体の感覚が戻ってくるのを確かめると、ここがどこだかを確かめようとした。


「……病院……?」


 白い天井に、自分の腕には点滴が繋がっていた。個室らしく、他には誰もない。酸素マスクまで当てられている。どうやら自分は相当重傷だったらしい。


「……う、ぐ」


 体が軋みを上げる。まるで石像にでもなったかのように固く、重い。まずは邪魔くさい酸素マスクを外した。激しく咳き込んだが、おかげで喉の通りが良くなる。


 一息ついた頃、ばたばたと足音をたて近づいてくる気配が一つ。急ぎでノックした後、


「あ、青比呂くん!? 大丈夫!? なんかいきなり大きな声が聞こえたけど!?」

「……川上……さん?」


 「入るね!」と慌てた様子で駆け込んできた川上は息を切らせ周りを見渡した。


「……どうしたんです」

「ど、どうしたはこっちのセリフよ! ってか意識戻ったの!? ってかマスク外しちゃダメじゃない! まだ寝てなきゃ!」


 早口でまくし立てられ、青比呂は強引にベッドへと戻される。


「か、川上さんは……どうしてここに」

「あ、あんたのお見舞いに来てたの。で、まだ寝てたから花瓶の水を替えようと思ったら、いきなり大声が上がったもんだから、びっくりして……」


 はぁー、と長い息を落とし呼吸を整える川上。青比呂はまだ思考がクリアになっていない。花瓶……と聞いて、ベッドの側のダッシュボードの上に何か置いてあった痕跡を見つける。


「……何もそんなに驚くことはないのに……」

「びっくりするわよ、夜中の病院よ? そこで大声なんて……はぁ。私ホラーとかダメなんだから」

「息がそんなに途切れるほど?」

「慌てるのも焦るのも仕方ないでしょ? こっちは……」

「俺の頭の中に『防御領域』で幻覚を見せていたから、ですか」


 こつ、こつ、と、時計の秒針が部屋の空気を叩く音だけが転がった。


「俺が無理にそれを破ったものだから、その消耗は大きい。息が切れるほど消耗した。そうですね」


 川上はベッドの側についたまま、動かない。表情もまた、ぴたりと時を止めたように張り付いている。



「花瓶の水を替えに行ったのは本当でしょう。もっともらしい言い訳はリアリティを高めた。怪我の功名ですね」

「……冷静ね。出会った頃とは大違い。成長したわね」


 すっと、青比呂の首元に川上の手が伸び、


「……。負けた」


 そう言うと、川上はベッドから離れて両手を上げる。青比呂は何とか重たい体を起こし、膝を立てて息をついた。


「それにしても、なんで私の『防御領域』だって分かったの。一度も見せたことも話したこともないのに」

「確かに。だが仕掛けた人間がいるとしたら近くにいる人間の誰かだ、と思いました。そこにはあなたしかいなかった。そしてあなたは秘書官とはいえ『カタワラ』だ。当然『防御領域』は持っているはず」


 青比呂の言葉に川上は一瞬目を点にし、その後苦笑を浮かべた。


「消去法でばれちゃったの? うわー……私って格好悪い……」

「ええ、限りなくダサい」

「う……意地悪ぅー」


 ふてくされたため息を落とす川上に、青比呂は体をほぐしながら言う。


「辰彦やすいげつの姿も、あなたが見せたんですか?」

「……辰彦って……川部辰彦……かな」


 言う川上は表情を一瞬暗くし、首を横に振った。辰彦の詳細は、川上の耳にも届いていたのだろう。


「そこまでは知らない。見ていたとしたらそれはあなたの夢。私があなたの意識に『防御領域』を発動させたのはついさっき。すいげつって名前にも、私には心当たりはないわ」


 川上はまっすぐに青比呂の目を見て言った。そこに、嘘偽りなどは見られない。口調もはっきりとしたものだった。

 川上の言葉通りなら、辰彦とすいげつの言葉は、架空のものではない、ということになる。


 一瞬にして肌が総毛立つ。

 なら、あの言葉は……頭によみがえる、二人の言葉は。


「早く伝えてあげて」

「まだ間に合います」


 何を、急げというのだ。何が、間に合うというのだ。


 何が、


「川上さん……何故、こんなことをしたんです。俺の頭の中に入ってまで、何をしようとしたんですか」


 それに、肝心なやつがいない。

 指輪が反応しないのは、夢の中……川上の『防御領域』の中だからだと思った。

 だが。


「……せせらぎは、今どこにいるんですか?」



 私、間違ってなかったよ、って



 まだこの言葉を伝えることも出来ず、言葉の意味も、青比呂は理解していなかった。



□□□



 コツン、コツンと螺旋階段を降りてくる足音が、吹き抜けの研究室棟によく響いた。

 テラスへと上がってくる足音に、恩行は筆を止め、老眼鏡を取り外した。


「……何用かね、総帥」


 コツン……。足音がすぐ側で停止する。


「出番です。恩行氏。いえ、第四代赤間士恩行。その名を持って、使命を果たしていただきたい」


 仮面から発せられる言葉には温度が一切感じられなかった。それに、恩行は視線だけをよこし、「赤間士恩行、か……」と一人つぶやいた。


「それで、『器』は


 鉄の仮面は何も返さない。それに恩行は苦笑めいたものを浮かべ、口の端に皺を増やした。


「聞くのもバカらしい質問だったな。『器』も、それを承知で今まで……」

「ええ。全て準備は整っています。……二年前の、『セルフファイア事件』から」


 刻鉄が恩行に背を向け、螺旋階段を降り始めた。その後ろ姿を目にしながら恩行は立ち上がり、ぼそりとつぶやいた。


「……恨むなら、きちんと恨むんだぞ……新垣青比呂。人間らしく、君が君であるために」




 続く

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