第26話 一輪の誇り



 やめろ……。

 せせらぎは声なき声を上げようとした。かろうじて喉は湿気で冷やされていき、乾いていたかすれ声は元に戻りつつあった。


「やめろ……青比呂」


 猟犬型の『ステイビースト』が姿勢を低くし、地面を疾走する。それに向けて青比呂は無造作に左腕を突き刺し、赤い稲光を弾けさせた。


「やめろ青比呂ぉ!!お前、そんなんじゃ……!!」


 せせらぎの悲鳴がこだました。川上の腕の中でもがき、駆け出そうとするのを川上が必死に抱きかかえて押さえる。


「離せ! 青比呂が、青比呂が!!」


 悲鳴の向こうで再び青比呂の左腕が赤く燃え上がる。振り払った左腕が地面を焼き切り、複数の『ステイビースト』をなぎ払った。空中で溶けて影となっていく『ステイビースト』は液状に変化し、または消し炭になり、雨の中に混じってヘドロの地面に落ちていった。


「あお……ひ、ろ」


 せせらぎが手を伸ばそうとする。

 その先にいる人影の左腕はもう、作り物のような、凹凸のない表面で包まれており、その浸食は首元まで迫っていた。一部は頬を走り、既に『防御領域』と見分けが付かない鈍色の輝きを持ち、雨に濡れては蒸気を放っていた。


 せせらぎの顔を打つ雨と、こぼれ落ちる涙が混じり合い、それを振り払うかのようにもがき、暴れて青比呂の元へと走ろうとする。それを止める川上も必死だった。断腸の思い、これ以上犠牲を出すわけにはいかない……それがせめて自分に出来ることだと言い聞かせるしかなかった。


「離せ! 私は、私は!!」

「分かってる! けど近づいたら巻き込まれる程度じゃすまないわよ!!」


 ぼとぼとと涙をこぼすせせらぎは嗚咽を漏らし、震え始めた足にもたつき、土砂の上に膝を突いた。


「青比呂が……」


 両手を包んでくれた包帯代わりの防護服の布にこぼれるものは、雨交じりの涙で、濡れて緩み、傷跡を濡らし始めた。


「青比呂が……化け物になる……」



 □□□



 『ステイビースト』の群はゆっくりと青比呂を取り囲み、飛びかかるタイミングを見計らっているが、


「ふぅー! ふぅー!」


 激しく息をつき、指先まで完全にプレートと化した腕を突き動かし、群を見据える青比呂の目に、『ステイビースト』たちはじり……と後退しつつあった。本能が感じているのだろう。あれは、自分たちの食物連鎖の上に立つものだと。


「ッち。俺が出向くしかないか」


 怯え始めた獣の群ではどうしようもない。アカジャクが巨体を揺らし、青比呂の前に降り立った。


 青比呂は首元から頬、目元にまでプレートの表面を走らせ、灼熱の原材料を求めて左腕をアカジャクに向けた。


「クク。いい面構えになったじゃないか」

「……いいから来い、消してやる」


 アカジャクの前足がゆっくりと鎌首をもたげ、風を切って青比呂の『防御領域』の上で弾かれた。その衝撃で青比呂はよろめき、たたらを踏んだ。


「よく防いだ……と、言いたいところだが」


 アカジャクは撃った自分の前足を舌で舐め、にたりと笑った。

 アカジャクの前足は、かすかに溶けて表面は薄く焦げ跡を残していた。


「お前……俺も吸収するつもりだな?」


 再びアカジャクが前足を持ち上げる。青比呂は『ミヤマヨメナ』を構え、ただアカジャクの動きを見過ごすまいとぎらついた目でその前足をにらみつけていた。


「ふん……面白い!」


 音が二つ重なる。しなったアカジャクの腕は一撃、『ミヤマヨメナ』の上で弾かれると同時に同じ速度で戻り、二撃目は更に早い速度で打ち込まれた。目で見る限りではほぼ同時に二度打撃を放ったように見えた。


 それを青比呂は受け止めるだけで終わり、かかとを削らせバランスを崩し、後ろへと飛ぶ。


「はあ! はあ!」


 激しい息切れを起こしている青比呂はそれでも『ミヤマヨメナ』を掲げ、吸収のチャンスを狙っていた。そんな青比呂の姿を見て、アカジャクは嗜虐的な笑みを口の端につり上げ腕を振るった。


 離れている川上たちにも聞こえるほど大きい衝撃音が響いてくる。青比呂は『ミヤマヨメナ』で受け止めはしたが、大きく姿勢を崩し、尻餅をついた。


「おいおいどうした。ちゃんとガードしろよ」


 アカジャクは笑いながら青比呂が立ち上がるのを待っていた。青比呂は膝を震わせ、身を起こし、上半身を持ち上げ『ミヤマヨメナ』を構える。

 そこに二度、衝撃が撃ち込まれる。青比呂は既に吸収どころではなく、ただ立っているだけで精一杯の状態となっていた。


「どうした? 俺がちゃーんと貴様の『防御領域』に狙って撃ってるんだ。しっかりとガードするなり吸収するなりしろよ」


 青比呂は奥歯をかみしめ、追撃の一撃を弾き、肩を大きく上下させ息を吐き出した。

 そう、アカジャクの言う通り、アカジャクはさっきから青比呂の『ミヤマヨメナ』にしか攻撃範囲を絞っていない。もしその気になれば、足なり頭なり、一撃で粉砕できたはずである。今はもう、それを防ぐ反応速度も気力も体力もなく、ただ撃たれるがままになっていた。


「ざまあないな、新垣青比呂! せっかく妹が命を張って助けた命だというのに!」


 拳の弾雨の中で響いた「妹」という言葉に、青比呂の失われかけていた意識が引き戻される。


「……何だと……? 何て言った、今!」


 ガチン! と『ミヤマヨメナ』の淵にアカジャクの拳が当たり、青比呂は前のめりになって地面に倒れる。すぐに立ち上がろうとするが、体はびくともしなかった。特に左腕が重く、顔を上げるのがやっとだった。


「はは!まだ花園はこにわの中にいるお前に言っても分からんだろうが、あの時『セルフファイア事件』で、何が起こったか!」


 アカジャクが炎の吐息を漏らしながら笑った。


「教えてやる! 俺は避難民を襲った! それも一番先頭列にいたのは他でもない、他の避難民をかばうように立っていた、襲いかかったのだ!」


 頭の中が渦巻いていく。痛みと記憶が濁って混ざり合う。体が重い、起き上がらなくては。それよりも、今は避難しなければ。いや、違う。今目の前にいるのはアカジャクだ、そいつを押さえるんだ、吸収してでも。


 しかし、体が思うように動かない。あの時もそうだった。避難する人々は間近で起こり出した戦闘の爆発音でパニックになり、押し合いへし合いとなり、暴徒になりかけていた。

 体が締め付けられる。青比呂は走り出した避難民の中で転んだ老婆を助けるため、人混みを突っ切って奥へと進んだ。

 もう人の波で体の自由はきかなかった。だが、なんとか老婆の杖を拾い、手を貸して支え、はぐれていた家族と合流させた後、避難ルートからそれていった避難民の人々を見て、「こっちです!」と大声を上げた。


 最寄りの避難所までの誘導を、他の警備員やボランティアに混じり臨時で手伝う。すぐ後ろでは激戦が繰り広げられている。


「赤音が戦ってる……くそ!」


 『カタワラ』の適正もない自分が出来ることといえばこんな程度だ。無事でいてほしいと願う。そう思いながら、「走らないで! 落ち着いて指示通りに避難してください!」と声を張り上げた。


 その最中、警備員の誰かが悲鳴を上げた。瓦礫が崩れ落ち、ドシン! と大きく地面が揺れる音が腹の底に響いて思わずよろけてしまう。

 青比呂は何事かと後ろを振り返った。


「あの時の顔を覚えているぞ! 驚きと恐怖に満ちた顔だ! 俺の大好きな顔だ! そして、それを遮るかのように……!」


 はっと、意識が「今」に戻った。雨が頭を濡らし、冷たく冷えた土が体温を奪っていく。

 青比呂は土壇場の力で立ち上がったが、左腕が言うことを聞かなかった。重たくぶら下がった『ミヤマヨメナ』が、まるで意に反して動くことを拒否しているかのようだった。


 アカジャクが大きく両の前足を開き、鋭い爪と石を砕く拳が青比呂を潰そうと両端から迫り、速度は輪郭さえ朧気にする勢いだった。


 そう、あの時も。

 振り返った時にいたのは。


「青比呂は、私が守る!」


 重なる、記憶と現在の光景。

 赤い光が目の前に広がっていた。壁というよりも、蝶の翼のように煌めき、羽ばたく。


「せせらぎ!」


 川上の悲鳴が追って走った。青比呂の前に飛び出したせせらぎは、左手の薬指から体全体に赤い波動の鎧を纏い、アカジャクの爪を受け止めようとしていた。


 そうだった。

 折りたたまれていた記憶がぱたぱたと開き、ほどけていく。


「お兄ちゃんは、私が守る!」


 避難誘導を続ける最中、振り向いた先には、赤く輝いた光の障壁。世界中が赤色の祝福をうけたように、何もかもが輪郭をなくし溶け合っていた。

 目の前でこちらへと振り返った最愛の人は、微笑んで消えていった。

 紅のカーテンがそよ風に揺られるように、揺らめき、羽ばたき、全てを青空へと返していった。



 瓦礫の街が広がっていた。そこで泣くことも忘れて、大事な人の死も、忘れてしまった。



「思い出したぞ……」


 びりびりと、赤い稲光が交錯する。体をしびれさせる、突き動かす熱が、地を蹴り不動の呪縛を焼き払った。


「俺は今も……二年前と、同じ思いをするところだった」


 熱を灯した盾は真紅に染まり、空気中の水分すら焼き切って焦がしていった。オゾン臭が周囲に広がり、鼻先をくすぐる。


「貴様……!」


 アカジャクはのけぞり、熱で変形した鉄拳に顔をゆがめ、一度飛び下がった。


「あお、比呂……?」


 せせらぎはうつむいた青比呂の動きに全く気づけなかった。気がつけば腕に抱きしめられ、アカジャクの一撃に割り込み、そして、ぽつりと暖かい雨がせせらぎの頬に落ちた。


「……すまない、せせらぎ」


 腕に抱いた小さな体から、確かなぬくもりが伝わってくる。

 熱ではなく、火ではなく、赤ではなく、生命の灯火。


「全部、思い出した……」


 顔を上げた青比呂は、涙をぬぐわないまま、震える声で言った。


「赤音は、俺を……守って、死んだ……目の、前で……」


 肩をふるわせ、泣きじゃくる青比呂は、まるで小さな子供だった。それを、せせらぎはただうなずいて、頭を抱きしめる。


「そうだな……」

「赤音は……俺を……それなのに、俺は……」

「……そうだな」


 嗚咽を漏らす青比呂に何を促すわけでもなく、ただせせらぎは頭をなで、髪をなで、固くなった頬をなでた。


「……そうか。俺は……悲しかったんだ。悲しかったことを、認めたくなかったんだ」


 いつも側にいてくれていた笑顔が消えたことに、耐えきれなかった。もう二度とあの夕焼けの中帰ることは出来ない。そう思うだけで、心の中身が全てあふれ出しそうになった。



「……私も、悲しかった。赤音、死んだと聞かされて、悲しかった」


 泣く青比呂の顔をのぞき込み、せせらぎはにこりと笑って涙を流す。


「泣くこと、全然恥ずかしいこと、ない。泣いていい。泣こう。私と一緒に、泣こう」


 せせらぎの目からもボロボロと涙がこぼれ落ちる。


「私も、悲しかった。でも、青比呂が死んだら、もっと悲しい。お願い、死なないで。死なないで」


 せせらぎに抱きしめられ、青比呂は泣き叫んだ。声なき泣き声だった。ただただ涙があふれ出る。そしてもう、それを止める理由はなかった。

 今は、受け止めてくれる人がいる。いくらでも泣いて、いくらでも叫んで、それでも包み込んでくれる人が。


 『ステイビースト』たちが鳴き始める。「マザーシグナル」だった。だが、不快感は感じさせなかった。そんな気配をアカジャクも感じ取ったのか、不審げに辺りを見渡す。


「何だ……」


 涙が止まらない。しかし、それでいい。本能のまま、心のまま、感じるままを全てさらけ出せた。やっと、自分を見ることが出来た。過去に逃げ込んだ自分は、今自分を包む一論の花に抱かれ、これからを進むことが出来る。


 青比呂は涙をぬぐわないまま、せせらぎから身をそっと離し、笑みを作った。


「今までゴメンな……こんなにも、正解は側にあったってのに気づかないなんて」


 初めて会った日、暗い地下室から花園へ導いてくれていた時から、もう答えを示していてくれていたんだ。


「……お前バカだから、仕方ない」


 せせらぎも、涙をこぼしたまま、声を途切れさせながら笑って言う。


「それもそうか」


 青比呂は苦笑する。全く、自分でも仕方ないほどどうかしていると、清々しいまでに思った。

 せせらぎは「でも」と、手を握った。


「見つけてくれて、ありがとう」


 小さな手のひらを握り返すと、青比呂はうなずき、


「行ってくる」


 それにせせらぎは「うん」とうなずき、手を離す。

 青比呂は立ち上がり、ゆっくりとした足取りで、アカジャクの前へと歩みを進める。


「……もうお涙ちょうだい劇はいいのか?」

「ああ、またせたな」


 アカジャクは呆れた様子でため息をつき、下らん、と付け加えて言った。


「格好つけやがる。何が変わったわけでもあるまい。お前の消耗は変わら……」


 ごう! と、上昇気流が突風となり、青比呂から立ち上る。プレート状になった肌が熱を帯び、朱色の雷を纏って青比呂の体を包んだ。

涙が、熱風で蒸発する。凹凸のない表面の肌が焼け始め、激しい炎の舞となり青比呂の体から解き放たれる。


「何……」


 「吸収」により浸食されていた青比呂の体のプレート面が、全て赤い輝きの風に変わり、アカジャクに警戒の念を抱かせた。


「まさか……浸食部分を『ステイヒート』と同様にエネルギー化させているのか……?」


 全てが……『ミヤマヨメナ』はおろか、皮膚や筋肉、そして髪さえも赤の炎上に染まった青比呂がアカジャクを見上げる。


 青比呂は『ミヤマヨメナ』を構えた。指先から手首までが炎に包まれ、元の肌色を腕が取り戻していく。


「行くぞアカジャク」


 アカジャクを見据える目にも火が灯り、瞳孔の色が紅蓮に染まった。


「今の俺は、少し手強いぞ」




 続く

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