第15話 Knockin' on heaven's door ①


「で、あなたの寝所を用意したんだけど」


 屋敷の離れにある庭園の小さな小屋に案内された青比呂は、四畳半程度の和室を見て無言のままだった。


「毎回家から通うのも不便でしょ? まあ空いてる場所はここしかなかったけど、別にいいよね?」

「……まあ、夜露さえしのげりゃ文句は言わんよ」


 小屋と言っても日本家屋だ。作りは頑丈そうだった。


「あとこれ、『カタワラ』としての守護服。一応『神威』の制服みたいなものだから、屋敷内を歩く時は着ておきなさい」


 と、白い羽織を思わせるスーツを手渡される。


「ああ、このダサいデザインの……」

「つべこべ言わないの。これでも防護服よ? 「マザーシグナル」を緩和する特殊装甲でもあるの。一度浴びたなら、身に染みてるでしょ。またあれの直撃を受けたい?」


 言われ、青比呂は渋々服を受け取った。


(しかし、これを着るってことは石木田とかとおそろいってことになるんじゃ……)


 あまり良い気分とは言えなかった。


「そういえば川上さんはずっとスーツだな」

「まあ、私は基本的に事務職だからね。総帥の秘書官でもあるし」

 

 前回『ステイビースト』が罠にかかり退治に向かった際もスーツのままだったが、それもこだわりがあるのだろうか。


「じゃあ必要なことは伝えたからね。後は……うかつな行動は慎むように。あなたは例外の中でも異例中の異例なんだから」

「分かってる。大人しくしている」

 屋敷内でごたごたを起こすなということだろう。青比呂も必要以上に摩擦を起こそうという気はない。ただ


 川上が屋敷へ戻るのを見送った後、小屋の中で防護服に袖を通してみる。着心地は軽く、なめらかだった。上質な布でも使っているのか、するすると肌に馴染んでいく。

 帯代わりのベルトを締める。姿見の鏡がないのが残念なところだが、まあいいいかと青比呂は防護服に着替え終え、小屋を出た。


「まずはせせらぎの花園に顔を出すか。手入れの時間がそろそろだな……」


□□□


「どうした、コスプレか」


 第一声。


「い、一応『カタワラ』としての装備なんだけどなあ。その辺分かってる? 俺の『ウタカタ』として」


 崩れ落ちそうになる膝を何とか支え、既に土いじりを開始していたせせらぎは「うーん」と小首をかしげ、


「似合わんな」


 是非もない。


「それより、土いじりにそんな白い服着てたら汚れ目立つ。ダメ。着替えろ」

「アイデンティティ全否定しやがった」


 結局青比呂は小屋まで戻り、いつものシャツとジーンズといったラフな服装に戻り、花園の手入れを行った。


□□□


「はぁ……何だろ、このやるせなさ」


 土いじりは一端休憩になり、昼からまた作業は再開するとのこと。腕時計は午前十時を指していた。そういえばまだ朝食を取っていない。


「腹減ったな……適当にコンビニでも行って買ってくるか」


 屋敷内をとぼとぼ歩きながらため息をつき、角を曲がると、


「う、うっわわ!」


 と、素っ頓狂な驚く男性の声と鼻先にぶつかった羽毛布団の弾力に、青比呂は思わず尻餅をついてしまった。


「あ、ああすいません、僕がしっかり前を確認してなかったから……だ、大丈夫ですか!?」


 羽毛布団の山をかき分け顔を出したのは、一人の気の弱そうな青年だった。


「い、いや……別に大丈夫だし、驚いただけだ。俺こそ悪かった」

 

 立ち上がると、廊下に散らばった羽毛布団の数を見て眉を寄せる。数は一つや二つではない。五つ以上はある。


「これを一人で運んでたのか?」

「あ、あはは……と、当番でして」


 と、青年をよく見ると、白い羽織を着ている。彼も『カタワラ』のようだった。


「ぶつけてぶちまけた詫びだ。手伝うぜ」

「そんな、滅相もない!」


 青年は慌てて布団をかき集めだした。だが、どう折りたたんでも弾力がある布団をいつつも一人で抱えるには無理がある。持ち上げた瞬間、すぐに両腕からこぼれ落ち、また廊下に散らかしてしまった。


「あ、ああ……」


 青年はガクリとうなだれ、大きくため息をついた。その後ろ姿を見ていて、青比呂が本当に「当番だから」ですむものなのか、怪しく感じ始めた頃。


「お~い「たっちゃーん」」


 廊下の向こう側から二人の守護服を着た『カタワラ』が現れる。その声だけで、「たっちゃん」と呼ばれた青年はびくりと方をすくませ、顔を青ざめさせた。


「頼んどいた布団の片付け、終わったぁ~?」

「え、えと……これから……は、はは」


 にたにたと、明らかに「たっちゃん」と呼んだ青年を見下す笑みで言う二人の『ウタカタ』。


「あ、そうそう。俺ら午後から移動訓練あるから、営倉の片付け頼むわ」

「え、ええ!? それって僕らの班全員で……じゃあ僕も移動訓練じゃあ……」

「お・ま・え・は。特別メニュー。期待かけられてんの分かるだろー?もう二十七歳なのに下級の『カタワラ』いつまでもうだうだやってる万年ぼんくらさんにはよぉ~」


 ケタケタと笑う『カタワラ』たち。


「は、はは……そ、そうだね……う、うん。やっっとくから。みんなは、訓練に専念してきてよ」

「よっ!さっすが「たっちゃん」! 頼りになるねえ!」

「頼むわ「たっちゃん」! 俺らの期待のホープ……ん? ロートルの間違いか?」


 爆笑が廊下にはじけた。「たっちゃん」の肩を乱暴に叩いてその場を通り過ぎようとした『カタワラ』二人は談笑を交えながら歩き出し、そして。


「あ、んだてめえ」


 え? と「たっちゃん」が振り返る。


「……」


 二人の『カタワラ』の前を遮る様に、青比呂が立っていた。


「どこの関係者だ? 入室許可書とか、どうしたよ」


 威嚇するような声色で青比呂の顔をのぞき込む……いや、にらみつける一人の『カタワラ』が言った。


「関係者も何も。あんたらの同僚だぜ。今は守護服着てないけどな」

「はあ?」


 何言ってんだ? と顔にだして言うもう一人の『カタワラ』。


「しかし石木田さんといい、『カタワラ』ってのはチンピラ気質なのかねえ。ガラが悪くて見てるこっちが恥ずかしくなってきたぜ」


「……あ? 何だてめえ」


 恫喝の声で一人の『カタワラ』が顔を近づけ、睨みをきかせる。だが、息もかかる距離まで近づいた顔に、青比呂は鼻で笑い、


「低俗、下劣、程度が知れるって言ったんだよ。こんなんが『カタワラ』? 内頭市を守る正義の戦士? はぁ……子供の夢が壊れるねえ」


 更に額がぶつかる寸前まで距離を縮め、一言一言ゆっくりとしゃべりため息を落とした。


「……なめた口聞くじゃねえの。どうなってもしら……」


 隣にいた『カタワラ』が顔を真っ赤にしてつかみかかろうと手を伸ばした。


「いいのか? 先輩『カタワラ』が入りたてのぴっかぴか問題児新人『カタワラ』に手を上げた……となりゃ、嫌でも話は広がるぜ。相手が俺なだけにな」


『……あ?』


 二人の『カタワラ』はそろってきょとんとする。その後ろでは、「たっちゃん」がはっと息を飲んで青比呂を見る目が変わった。驚きと恐怖の対象に変わっている。それもそうだろう。ここ『神威』に来るまで、何度となく衝突してきた人間なのだから。


 私服のままでいることを今更不思議に思ったのか、片方の『カタワラ』がいぶかしげに言う。


「入りたて……問題児? ま、まさかこいつ……」


 どうやらこちらの正体に気づいたらしい。青比呂は小さく笑みを浮かべながら、黙って二人の『カタワラ』が、顔色を真っ青に変えていく様を見ていた。


「ま、間違いねえ……こ、こいつだ」


 ばっと青比呂を指さし、叫ぶようにして言った。


「罠の一つを蒸発させて被害総額470万の損害だした、大貧乏くじだ!!」


 大貧乏くじ。


「こ、こいつが!? あの470万の被害総額を出した、大貧乏くじ!? マジか!?」

「や、やべえ……祟られるぞ! 俺らまで金運なくなっちまう!」

「こりゃ退散だ! 470万だなんて払えねえよ!」


 二人の『カタワラ』はいともあっさりときびすを返し、廊下の奥へと消えていった。


「……なんやっちゅーねん」


 一人つぶやく青比呂は関西弁になっていた。


「う、うわあ……すごいなあ……」


 落ち込もうとしていた青比呂に、羨望の眼差しが向けられていた。布団を抱えようとしたままでいた、「たっちゃん」が青比呂を見て、目を輝かせている。


「す、すごいです! あなたがあの噂の「470万の男」! 新垣青比呂さんだったんですね!」


 「470万の男」。

 これが賞金クビなどなら格好が付くが、負債総額なので青比呂はただほぞをかむ思いで「そだね」とうなずくしかなかった。


「しかも、僕を……僕なんかを助けてくれて……あ、ありがとうございます!」


 盛大に頭を下げられ、今度は青比呂が対応に困ってしまう。


「い、いいって。単に俺がむかついただけだから。頭上げてくれ」

「しかし、このご恩、一生忘れません!」

「……大げさな人だなあ……」


 根が体育会系なのか、青年「たっちゃん」はしきりに感謝の念を送り続けていた。


 □□□


「自分、川部辰彦かわべたつひこって言います。まさかあの「470万の男」だったなんて……」


 昼前、屋敷の離れに立つ小屋……つまりは青比呂の寝床にて、「たっちゃん」こと川部辰彦は笑顔で言った。


「その……「470万」の話は置いてくれないかな……色々、複雑な気持ちになるんだ」


 あの後、青比呂も手伝い、布団を片付け、近所のコンビニで菓子パンを買い、ブランチになった食事を取りながら、二人は互いに自己紹介を終えていた。


「それにあの新垣赤音さんのお兄さんだなんて……すごい人なわけですよ!」

「……そりゃ、な」


 返すまでに若干の間が空き、口の中のパンを咀嚼する時間が遅れた。


「それに比べて自分は……まあ、見てもらった通りです。年中「いじられ役」ってやつですか」


 自虐的な笑みか。曖昧な笑いを浮かべ川部辰彦が言った。


「自分、『カタワラ』としても中途半端で、芽も出なくて。ずっとあんな感じです」


 それを聞いていた青比呂は、口の中のパンを牛乳で飲み込むと、「そっか」と返し、


「その割には、あんまり悲観的な顔してないな」

「え……と」

「人生の絶望的って感じじゃない。何か、やりがいとか他に有意義なことを見つけた……そんなところじゃないか?」


 そう青比呂が言うと、川部辰彦は笑みでごまかそうと左右を見渡し、落ち着きをなくし始めた。


「な、なんで分かったんですか?」

「顔に出てる。ほんとに死んでる人間の目じゃなかった。それだけだ」


 青比呂もかすかに笑みを浮かべて言った。

 これまでの二年間。色んな人間を見てきた。見る必要のない人間まで見てきた。その終わりも、見ることがあった。

 彼らは瞳に何も託すことはなく、終わること自体が目的となっていた。

 ただ死ぬことだけを待ち、そのために並ぶ列。絞首台の順番待ちを見上げたこともあった。


「と、ところで、ここ……え、えと……」

「俺のことは青比呂でいい。新垣だと赤音とごっちゃになるだろ」

「そ、そっすね。自分の事も、辰彦って呼んでください。で、青比呂さん、この場所なんですけど……何でこの離れの小屋に住むことになったんですか?」

「……人事の都合じゃないかねえ」


 押しつけらた感はある。


「じ、実はすっごい偶然なんですけど……ちょっと外に来てもらってもいいですか?」

「……?」


 小屋の外には霧島邸の庭園が広がっている。高原、とも言える広さだ。一体何坪あるのだろうか。高原の向こうには小さな森林があり、山に続いている。それも霧島の家の領地とのことだった。


 辰彦は小屋を飛び出すと、小屋の裏側に回り、柵が並ぶ平原へと歩いて行った。

 これもまた広く、遠くに森林が見えた。もしここがまっさらな平地なら、地平線が見えたかもしれない、そんなことを思わせる風景だった。


「こんな場所があったのか……」

「ええ、ここで耳を澄ませてみてください」


 耳?

 聞き返そうとするが、微風がかすかに音程を持って、定期的なリズムを刻んでいることに気がついた。

 耳元に流れ着くそれは、聞く者の心を鎮めさせ、遠くを見る目を持たせ、今の自分を振り返らせるような……落ち着かせる気分を持たせる風音だった。


「……歌声、か?」


 声、と分かったのはそれからしばらく風の音を聞いてからのことだった。風の中に明確な言葉はない。ただ音を膨らませ、溶かし、風に流し、空気へと拡散させる。ハミングの類いだと言えた。


「見えますか。平原の奥にある小さな木々が」


 辰彦が指を指すまで、遠すぎて分からなかった。平原の中にまるでプラネタリウムのように出来た緑の空間は、そこだけ別世界のように思えた。


 平原にはほとんど人の手が入っていない。草木は足のすねまではえて伸び放題だが、あの木々の周りだけは違った。草木が整理され、小川が流れているのが太陽の反射で見えた。

 木々も青々と葉を伸ばし、心地よさげに日光を浴びている。

 限られた中で、開放感という言葉が、あの一帯の中に満ちあふれていた。


「……今日も良い歌声だ……」


 ぼそりと、辰彦がつぶやく。目を細め、木々の方に心を移していた。やがて、歌声が風の中から消えていった。青比呂の中に、不思議な清涼感が生まれ、血脈の流れまでクリアになった気分になった。


「歌声の主は誰だ? 大した歌手だな」

「それは、ですね……」


 聞くと何故か辰彦は顔を赤くした。こちらから目をそらし、わざとらしくそっぽを向く。

 だが、


「あれ、誰かいる……」


 青比呂が木々の間から人影らしきものを見つけた瞬間、隣で辰彦が柵の上にすさまじい勢いで立ち上った。


「すいげつ、今日も歌を聞きにきたよ!」


 不安定な柵の上だというのに、辰彦はぶんぶんと大きく腕を振り声を上げ始める。青比呂は慌てて柵を押さえた。

 横目でちらりと木々のドームへ目をやる。そうすると、人影はゆっくりとこちらへ歩いてきた。


(……女の子……?)


 年の頃は、青比呂と同じか、少し下ぐらいだろうか。顔立ちはまるで海外のモデルのような彫りの深い、しかし整ったもので、一言で「美人」と言えた。その少女が、辰彦のはしゃぎぶりを見て、口に手を当て苦笑する。


「辰彦さん、落ちちゃうよ」


 声は透き通った、聞いた歌声の主にふさわしい美声だった。そこでようやく辰彦は自分の行動に自覚が回ったか、降りようとして慌ててしまい、どしんと尻から着地する。


「……いてて」

「だ、大丈夫!?」


 柵越しに少女が駆け寄るが、辰彦はすぐに起き上がり「へーきへーき!」とVサインを作って見せた。


 そこまでの様子を見ていた青比呂は、「こういうことか」と一人うなずき苦笑する。


「あの……こちらの方は?」


 かすかに警戒心を見せる少女は辰彦に身を寄せる。柵越しであっても、辰彦の頼もしさに彼女は信頼を置いているようだ。


「僕の恩人さ。それにすっごい人なんだ。なんたって「47……」

「俺は新垣青比呂。ここの新米だ。丁度辰彦さんにここへ案内してもらってきたところだ」


 これ以上汚名を広げるのは勘弁願いたい、と辰彦の紹介を遮って自ら自己紹介をする。


「辰彦さんの恩人さんですか……ありがとうございます」

「礼を言われるのは……まあ、いいか」


 慎ましい仕草の少女に青比呂は素直にうなずいた。


「あ、ごめんなさい。私そろそろ行かないと……」

「そうか、こっちこそごめん。じゃあね、すいげつ」


 別れ際、かすかに目を細め、憂いの色を浮かべた少女、すいげつは振り返ることなく平原の向こうへと消えていった。


「なるほど、そういうことだったか」

「……まあ、生きがいってやつですかね」


 平原を眺めたまま、青比呂と辰彦はつぶやき、笑みを消した。


「彼女の名前は「すいげつ」。分かってることはほとんどないんです。ただ、たまたまここでたまたま、彼女の歌声を聞いて、知り合った……それだけでした」


 青比呂は辰彦の言葉の続きを、無言で待った。辰彦の横顔が、打ち震えるものに、固く拳を結んでいることに気がついていたからである。


「……それ以外のことは、違法と知りながらも、『神威』のデータを調べてわかりました」

「……お前さんがそこまでするってんなら、よっぽどのことなんだな……」


 青比呂は辰彦に向き直って言う。辰彦も青比呂に顔を向け、深くうなずいた。


「青比呂さんは……「ホムンクルス」というものを知っていますか」

「ホムンクルス……?」


 深刻な声で告げる辰彦の目に、青比呂は言葉を選びながら返した。


「漫画とかでの範囲でなら、ってのは答えにならないか」

「厳密な話をすればキリがありませんが、概ねのイメージはそんなものです。要は人工的に作られた人間の形をした生命体……人造人間というものです」

「……さっきの「すいげつ」って人は……」


 言葉にするまでもなかったか、と口にしてから後悔したが、辰彦は「はい……」と消え入りそうな声でうなずき、続けた。


「問題は、一体何のために造られ、生まれたのかということです」

「……」

「一番容易に考えられるのは、人間では出来ない、人体実験の類いでしょう」


 予想していた通りの、最悪のパターンだった。

 青比呂は言葉に詰まった。事実だとしても、それを覆すとしても、どうすればいいか。まさか今更『神威』がクリーンな組織だとは思っていない。これ以上の行いもあるかもしれない……たたけばいくらでも埃は落ちてくるだろう。


「青比呂さん。僕は常々迷っていました。ずっと、ずっと……怖かった。でも、今日という日が、きっと節目なんじゃないかって思いました」


 固く口を結んだ辰彦の目は、朝の廊下で見た迷う者の目ではなく、戦士としての目に変わっていた。


「彼女を連れ出し、『神威』を出ます」

「……出来るのか」

「……無茶でしょう。でも、やるしない。これ以上我慢できない」


 言葉とは裏腹に、辰彦は不敵な笑みを浮かべていた。

 そっと、右手が差し出される。


「これも、青比呂さんと出会えたのがきっかけです。あなたがいてくれたから……あなたから、勇気をもらえました。踏ん切りがついたとしたら、あなたなんです」


 青比呂は、その右手をすぐには握り返せなかった。握り返したら、この青年は死ぬ。間違いなく、理想に殉じて死んでしまう。


 ……だとするなら。


「きっかけは、俺か。これはまた、責任重大な役目を任されたもんだぜ」


 え、と辰彦は一瞬固まるが、右手を強く固められ、青比呂の太い笑みに言葉をなくした。


「だったら俺もやる」


 絶句したまま、辰彦は首を横に振るのが精一杯だった。だが青比呂はくつくつと喉の奥で笑い、


「おいおい、誰をきっかけにしたと思ってる。「470万の男」だぞ。こうなりゃ負債の億万長者を目指そうじゃないか。決行は早い方がいい。今晩にでも仕掛けるぞ」

「そ……出来ません! あ、あなたにまで迷惑が……それどころじゃない! もうここにもいられなくなりますよ!」


 辰彦の喉の奥からかろうじて出た言葉だったが、それも青比呂の野太い笑みに伏された。


「冗談言うな。俺はここに愛社精神なんぞ持っちゃいないぞ。むしろ逆だ。なんで赤音がいないのか……真実はどうなってるのか。探りに来たんだ。そのためなら何だってやる。例え一人で『神威』全部を敵に回そうっても、構わやしない。いや、むしろこれを口実にして色々仕掛けるチャンスにするかもな」

「……あ、あなたと言う人は……」


 辰彦は気がついているだろうか。震えていることを。それが恐怖からではないことを。笑っていることを。武者震いと、頼もしき友を得た喜びであるということを。


「だが俺はまだここの地形がよく分かってない。出来れば見取り図がほしい。屋敷全体の。夜までに用意出来るか?」

「……それぐらいなら、喜んで」


 平原から風が吹く。勝ち鬨には程遠く、鎮魂の声には場違いな、戦へと戦士を導く軍歌の足音だった。



 続く

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