第9話 世界の本当



 刻鉄の案内で入った執務室はほぼ何もない空間だった。部屋の真ん中に大きなモニターが三つあるだけで飾りっ気もなく、出窓にはカーテンすら設置されてない。

 時刻は夕暮れ時になり、赤い光が執務室の群青の絨毯を横断していた。


「来客を想定してなかったんでな。その点は至らなかった。次回に活かそう」


 ぶ厚いドアを閉じ、鉄の仮面を被った刻鉄が言う。

 青比呂は落ち着きなく左右を見渡し、ドアに背を向けているモニターへと目をやった。


「落ち着ける場所もなくてすまない。だが二人きりになれる場所はここしかなかった」


 固い靴底の音が、絨毯の中で緩和されていく。刻鉄はモニターの手前まで歩き、背を向けたまま立ち止まった。


「……まずは、今までの音信不通を詫びよう」


 後ろ姿の刻鉄に、青比呂は苦虫をかみつぶしたような思いで言葉を吐いた。


「今更そんなことはどうでもいい……どうでもいいが、理由はあったんだろう? あんたがただ逃げ回っていただけだとは思えない……思いたくない」


 今、斜陽の中佇む男は、理想として見ていた男の背中とは、一致しなかった。

 姿形だけなら変わらない。だが、深く影を背負い、紅の明かりでさえもそぎ落とせないものを宿した「それ」は、近寄りがたい深淵に思えた。


「そうだな……俺がこんな仮面を被っているのも。二年もお前と会えなかった……会わなかったのも」


 刻鉄の手が仮面に添えられ、バチンと留め金が外される音がした。


「合わせる顔がない、その一言に尽きるからだ」


 ゆっくりと振り返った刻鉄の素顔に、青比呂は息を飲んだ。

 言葉がなくなる。音さえも、空気ごと凍り付いていた。


 皮膚を通り越し肉をえぐった幾筋もの線が、刻鉄という青年の顔を縦横無尽に、規則性もなく刻み込まれ走っていた。特に、右頬の筋は深くえぐれ、歯茎と奥歯が見える。


「……な、なんで、そんな傷が……」

「これは、赤音が使った力の代償だ」

「!?」


 今度こそ絶句する。赤音が使った、力の代償? 言葉の意味が分からない。理解が追いついてこない。


「二年前、赤音は街と避難中の人間を守るため、限界以上の力を使った……その力は俺にも制御出来ず、反動が返ってきた。それがこの傷だ」


「二年、前……」


 言葉が細切れになって頭の中に入ってくる。だが青比呂はそれを必死に外へ追い出そうとしていた。

 何故かは分からない。しかし頭は……精神は固くなり、思考を停止させようとしている。


「あ、赤音は……赤音はどこにいるんだ? 無事なんだろ? あんたがついてたんだ、死ぬわけがない」


 声が震えていた。膝も支えを失ったかのように笑いだし、手で支えなければ立っていられなかった。


 しかし、刻鉄は目を固く閉じ、眉間に皺を作ると首を小さく横に振った。


「……あの時、あの戦場では全ての情報が交錯し混乱していた。俺でさえ、赤音の状態を把握し損ねていた……。俺が気がついた時にはもう……」


「嘘をつくな! 赤音が死ぬはずがない!」


 青比呂の怒鳴り声が、閑散とした執務室に響く。青比呂は刻鉄に詰め寄ると襟元をつかみ上げ、息がかかる距離で更に声を荒げ叫んだ。


「赤音は生きている! 生きているに決まってるんだ! 死んでる方が間違いだ!」

「……青比呂」

「言え! どこにいる! どこに隠した! 何か不都合でもあるのか!」


 刻鉄は何も答えない。青比呂は内側からあぶられる焦りの熱に汗を吹き出させた。


「何か言えよ! 何で黙ってる! あんたが、赤音が!」


 それでも、刻鉄は無言だった。刻鉄の襟元をつかむ指から、力が抜けていく。


「言えよ……言ってくれ……頼む……赤音は……生きてるって……」


 奥歯をかみしめる音が聞こえた気がした。

 だが全身から力が奪われていき、それがどこへと行くのか分からないまま、青比呂の膝が折れた。


 何だ、何故立てない。今ここで踏ん張らないでどうする。もうすぐそこまで来ているんだ。ようやくここまでたどり着いたんだ。刻鉄の前まで来た。その隣には、赤音がいたというのに。

 何故。

 何故。

 何故。


「どうして、赤音が、いないんだ……?」


 赤い赤い、赤い世界。目の前できらめいた赤の光。


「……青比呂。しばしここを預ける。少し休むんだ。出て行く時は誰にも何も告げなくていい」


 刻鉄は再び仮面を取り付けると、青比呂の横を通り過ぎ、ドアを閉めて姿を消した。ただ廊下を歩く靴音だけが、遠ざかっていく。


 夕陽が夜の濃度に溶けそうになっている。赤い輝きも、群青の絨毯の色に馴染もうとしている。

 青比呂はそこで立ち上がることもなく、表情も変えず、ただぼそりぼそりと、


「……赤音……どこだ……兄ちゃんは、ここにいるぞ」


 どこを見ているのかも分からない目で、一人つぶやき続けていた。



 続く

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