第4話 悪魔を哀れむ歌


 自分は一体どれぐらいの時間気を失っていたのか。体は痛みを感じら得る程度には回復してきたが、疲労も戻ってきている。この体勢になってかなり経つのではないだろうか。


(……脱出するにしても、肝心の体が動かないんじゃどうしようもないぜ……せめて体力さえ戻れば……)


 このままでいても、回復はこれ以上見込めない。状況は絶望的といえた。


(考えろ。手錠の形さえ分かれば……)


 思考も鈍痛で邪魔される。

 服装などに変化はない。だが持ち物などは全て没収されているようだ。


(鍵開けぐらいはあったはずだが……)


 おそらく取り上げられているだろう。ピッキングのセットもいわゆる「裏家業」の人間から買い取ったものを持っていたが、当然それも没収されている。


(高かった上に交渉するまで大変だったのによ……)


 じゃらじゃらと鎖がなるだけで、体力はどんどん摩耗される。息が上がってきた。手首から上は自由に動くが、指先だけでは大した情報は得られなかった。見上げる限りでは、普通の手錠のようなものにみえるのだが。


「くそ……」


 ずしり、と重たい疲労感が一気に体にのしかかった。足腰の感覚が戻り始め、何とか立つことは出来たが、手錠はやはりずいぶん上にある。

 何か手はないか。焦りが鈍痛をこじらせ始めた時、ひらり……と視界の端を舞うものが牢獄の中に入ってきた。


「……?」


 思わず振り向き、漂うように冷たい床に落ちたそれは、花びらだった。


「花……? 何でそんなものが……」


 ぼそりとつぶやいた青比呂の言葉を追ったかのように、一つ、二つ、三つと、淡い紫色の花びらが牢獄へと流れ込んできた。


 風で流れてきたのかと思ったが、風など感じない。無風だ。しかし舞い散る花びらの波はとどまることを知らず、それどころか足下に積もるまで、どんどんと増えてきている。


「な、んだ……!?」


 花びらはどこから入り込んでくるのか。牢獄の向こうを見てみるも、通路からは流れてきていない。通気口からでも入ってきているのだろうか。だとしても、これは異常な量だった。


 入り込んでくる、というよりは、「現れている」と言えた。しかし出所が見つからない。

 牢獄に吹き込んでくる花びらはやがて室内を柔らかく包み、ただ呆けるだけの青比呂の側を舞い、ささやくように耳元を通り過ぎ、バチン、と金属音が鳴り響き、不意に体の拘束が解けて青比呂は尻餅をついた。


「……っ!?」


 体中の痛みがぶり返してくる。思わず腰をさする青比呂だったが、両腕が自由になっていることに気がつき、慌てて周囲を確認する。


 花びらは、消えていた。


「青比呂、無事か」


 片言の言葉が聞こえた。

 それに青比呂は耳を疑った。声は、鉄格子の外から聞こえてくる。こつこつ、と廊下を歩いてくる足音の歩幅は狭い。


「青比呂、つかまって、薬打たれた。それも、解毒した。もう立てる」


 腕が、手のひらが、指が動く。痛みもない。足は軽く、すぐに立ち上がれた。

 だが、そんなことはどうでもよかった。


 声の主はやがて鉄格子の前に姿を現す。


「あ……あ……」


 もうろれつも、舌のもつれもないはずなのに、言葉は出てこない。

 ずっと探してきた存在が、目の前にいる。


「あ……赤音」


 手には紫色の花びらを持つ、一輪の花を手にした和服の少女が一人、牢獄の前に立っていた。


 だが。


「私、赤音違う」


 瞳はレンズのようにただものを映すだけで。


「でも、赤音からお前、青比呂のこと、聞いてた」


 声は、言葉は片言でぶつ切りであり、話すことが不慣れに聞こえた。


「赤音は、死んだ」


 瓜二つの顔で、同じ声で、自分の死を告げる。


 何だ、これは。

 悪い夢か。まだ自分は薬で眠っていて、悪夢でも見ているのか。


「まだ、現実逃避するか」


 ああ、悪夢だ。夢だ。こんなもの夢だ。現実なわけがない。

 赤音が自分から「死んだ」などと言いに来るなどと。馬鹿げてる。ナンセンスとはこういう時に使う言葉なのだろう。


「ひどい顔。必死に逃げてる顔してる。怖いか。現実」


 ひどい? 逃げてる? 逃避? 違う。俺は正気だ。闇に裏に包み隠そうとした赤音の存在を突きつけ、探し出そうとひたすら探り回った。時には法律も無視した。犯罪者と変わらない人間と取引もした。身の危険を感じたことは一度だけではない。実物の拳銃を突きつけられた瞬間を今でも覚えている。


 そのことに一度たりとも後悔したことはない。だからこれは戦いなんだ。

 なのに、逃避? 馬鹿にするな。


「満足か。欺瞞が。それ、努力違う。お前、やけになってるだけ。もう分かってるはず」


 言うな。その顔で。その声で。その目で。

 その存在で。


「新垣赤音、死んでる。二年前に、死んでる」


 赤い赤い、赤い盾。

 目の前に広がった、とても大きな命の塊。

 そう。目の前。手を伸ばせば届く距離で。


 そんな映像が一瞬、脳裏を突き刺し、そして消えていった。


「立てないか」


 「赤音に似た声」に言われ、自分が崩れ落ちていることに気がつく。

 何とか重たい頭を起こし、和服姿の「赤音と同じ姿」をした少女を見上げる。年の頃までそっくりだった。十二歳ほど、だろうか。


「……お前は、誰だ」


 声がかすれていた。息をするたびに、肺が裂けそうな程痛みをあげる。


「私、せせらぎ、言う」



続く

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