第2話 音。
キュン。
聡美の熱視線が乃亜流の胸を突き刺した時に発した音を、瑠音は聞き逃さなかった。
「ほらね。やっぱり・・・」ため息まじりにつぶやいた。
「やっぱり?」図らずも乃亜流と聡美は声を揃えて言った。
「なんでもない・・・いいから、乃亜流、ちょっとこっちきて」そう言って、乃亜流の手を取り、数歩ひっぱって聡美から距離をとった。そして、突然、手をつないでいることを気に食わなく思ったのか、乱暴にそれを振り払った。乃亜流は、瑠音が自分から引っ張っておきながら、まるで汚いものでも触ったかのような仕草に反感を持ちながらも、口にはださなかった。
瑠音は話の内容を聡美に聞かれないように、彼女に背を向けた。つまりそれは瑠音を挟んで乃亜流と聡美が再び向き合う形となっていた。
「ほら!こっちを向いて!」乃亜流の視線を聡美から引きはがすように言った。
瑠音の身長は155センチ。小さい方だが、乃亜流も165センチ程度。瑠音の頭ごしに聡美の姿をちゃんと見るには背伸びが必要だ。瑠音はそれをさせまいと、乃亜流の両手を掴み、下に引っ張った。つい今しがた振り払ったばかりだというのに、今度は力強く握られた。
「いいこと乃亜流。あたしは聡美の好みをよく知っているから言うんだけど。ないから。絶対だめだから」
「なにが?」
「なにがって!?とぼけないでよ。あなた、さっき胸が痛くなったでしょう?」
「なった。なんでわかった?」
「音がしたのよ」
「おと?どんな?」
「キュン♡って音よ」
「なんでそんな音が瑠音に聞こえるんだ?」
「だから、矢が刺さる時、そんな音をたてるのよ」
「や?」
「そうよ。矢」
「だれが射った?」
「聡美に決まってるでしょう。あんたにひとめぼれしたんだよ」
さっきはおれのことをあなたと呼んだが、今はあんただ。
乃亜流は冷静に瑠音を観察していた。
「つまり・・・恋の矢か?」
「だから、さっきからその話をしているの。会わせる前からわかっていたことだけど・・・あんた、聡美のストライク、ど真ん中の顔しているからね」
「おれが、あの子の絶好球?」そう言って、視線を瑠音の後方にずらした。聡美がニコニコしながらふたりの様子を見ていた。
「ええ。ホームランボールよ」また強く手を引っ張りながら言った。
「それじゃ野球じゃねえか。矢じゃなくて、バットで打たれたのか?」
「フルスイング」
「いてぇよ」
「しょうがないでしょ。だって、あなた挨拶したとき、顔つくったでしょう?」瑠音はなんでもお見通しだ。「決め球のつもりが大失投になったんじゃなくて?」
おっ、またあなたに戻ったぞ。
「なら、キュン♡じゃなくて、カキーン!じゃね?」
乃亜流が話の流れを変えようとするのには理由があった。
身長差が10センチしかないとはいえ、両手をがっちり掴まれた距離だから、乃亜流は瑠音を見下ろす態勢になっている。上目遣いの瑠音の顔が、乃亜流の目の前にあった。くりくりとした大きな目。これまで、その目に吸い込まれそうになったのは1回や2回じゃない。何度もある。乃亜流は、瑠音を姉のようにしたいながらも、ずっと、ほのかな気持ちを抱いていた。そして、それを見抜かれていることもわかっていた。
「音なんて、なんだっていいのよ。で?」
「で?とは?」
乃亜流はとぼけた様子で答えながら、握られた手から伝わる瑠音の温もりをずっと感じていた。
「打たれたのかって聞いてるの」
「ファールかな」
「ほんとに?」瑠音は首をかしげながら、疑わしそうな表情をつくった。その顔がとても魅力的だと乃亜流は思った。
「もしかして・・・」乃亜流は、瑠音の目の奥にあるものをのぞきこむようにしながら続けた。「もしかして、やきもち焼いてるの?妹に?」
「ちっちがうわよ!心配してるの!」
「どうした顔が赤いぞ」
形勢逆転。ここは一気にたたみかけるタイミングだと悟った乃亜流は続けた。
「手」
「手?」
「手、いいのか? さっき、指笛吹くときに、舐めてるよ」現実に戻す言葉を吐いた。瑠音の顔が本当に赤くなった。
「やだ!きったない」そう言いながら手を離し、ぶるぶると、そして大げさに振った。「とにかく、あいつは小悪魔だから。すぐ惚れて、冷めるのよ。あんたがそれに振り回されたりするのが心配なだけ」
また、あんたに戻った。
「わかった。気をつけるよ。約束する」
「でも、あなたが2週間ももつとは思えない・・・」そうつぶやきながら、うしろを振り返り、聡美を呼んだ。
「話、終わったの?」姉の方はいっさい見ない。乃亜流だけを見つめながら聞いてきた。
屈託のない顔とはこういうのだろう。
「終わったような、終わってないような・・・」
「どんな話してたんですか?」あいかわらず、視線の先は乃亜流。
「え〜と。さとみちゃんは野球が上手って話」とっさに答えた。
聡美は真面目な顔で答えた。
「野球じゃなくて、ソフトボールですけどね」
「エエエッ!そうなの!?」うかつにも、本当にビックリした顔をしてしまった。
「ええ。4番サードです」
「ってことは、もしかして背番号は・・・3?」
「わぁ!なんでわかったんですかぁ!?」
『すごぉい!』そんなテロップが聡美の表情についているように見えた。それがお世辞だとしても、尊敬の眼差し受けるのはボストンに来て以来はじめてかもしれないと乃亜流は思った。
「乃亜流!」瑠音が呼んだ。
振り向いた。
「なに?」
「その話、全部、嘘だから・・・」顔を手で覆いながら言った。瑠音の声には、あきらめの感がこもっていた。
乃亜流は聡美に向き直った。
そこに、小悪魔がいた。
こりゃ、2週間どころか二日と持たないなと、瑠音は悟った。
乃亜流は体温が上昇するのを感じた。気温は氷点下18度のままなのに。
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