こいばな。
陽野 乃在 (ひの だいざい)
第1話 氷点下18度。
まさにドッピーカンとはこういうのをいうのだろう。高層ビルが描く近未来的なスカイラインを眺めながら、
気温はマイナス18度。雲ひとつない真っ青な空に太陽の姿は見当たらない。そびえ立つプルデンシャルセンタービルの影に入っているからだ。地面はというと、もう1ヶ月以上も前に降った雪のなごりが石ころのように、あるいは大粒の砂のようになってアスファルトを覆っている。たとえ、陽の当たる場所でも一向に溶ける気配はない。むしろそのおかげで歩きやすい。ティンバーランドのワークブーツが地面を踏む度にザクザクと音をたてる。それは、足もとがすべりにくい状態であると教えてくれた。乃亜流はブーツの靴底と氷が生み出す音を楽しみながら歩いた。
ケンモアスクエアに出た。交差点の向こうに「24」の看板を掲げたコンビニが見える。寒さがきついせいか、人影はまばらで、そこに瑠音がいないこともすぐにわかった。
「やっぱりね」白い吐息が小さくもれた。
アメリカの人はあまり信号を守らない。いや、だからといって、ルールを尊重していないというわけではない。信号を信用していないのだ。だから、それが赤から青にかわっても、必ず左右を確認し、危険がないか自身の目で確かめてから足を踏み出す。自分の身は自分で守る。それがアメリカの基本原則だ。1987年の春、
そうして乃亜流はいつもするように左右を見た。コモンウエルスアベニューを行き来する『T』と呼ばれる路面電車が見えた。通りの真ん中にあるケンモアスクエアの停留所に止まっている。降車する人の中に瑠音が見えた。乃亜流はポケットから右手をだし、かじかんだ親指と人差し指で小さな輪をつくり、凍える口を小さく開けて輪をその間にさしこんだ。
ピュ〜〜〜ィッ!
甲高い指笛の音が、乾燥しきった空気を切り裂いた。
瑠音はちらりとこちらを見たが、すぐに目をそらし、しらんぷりを決め込んだ。また怒られるだろうと乃亜流は思いながら、笑顔で手を振った。唾液に濡れた指が冷たい空気に触れてピリピリとした感覚が脳みそに伝わった時、瑠音の背後にいる女の子が自分に向かって小さく会釈するのに気がついた。
会釈?日本人?瑠音の友達か?乃亜流は瞬時に頭を巡らせたがその子が一体だれなのかは想像もつかなかった。
出会った当初、
半年前、その日のライブがはけて、会場の裏口からマークと出て来た瑠音が、裏路地に呆然とたたずむ乃亜流をみつけ、いぶかしそうに声をかけた。
「あなた、日本人?こんなところでなにしているの?」
突然の日本語にびっくりしながらも、すがるように返事を返した。
「かばん・・・ひったくられて・・・おっかけてきたけど見失った」
「追っかけたの!?あなたバカじゃない。殺されちゃうよ」瑠音はそう言うと、マークの方を振り返り、英語で事情を説明した。そして、ふたりで同時に肩をすくめ、両の手の平を上にかざした。
アメリカに来て三日目。運命の出会いをしたと乃亜流は今でも信じている。
それから、数日、瑠音は乃亜流のために領事館やら、警察やらの手続きを手伝ってくれた。かばんには、財布、パスポートなど一切合切が入っていたのだ。以来、乃亜流の面倒をみている。乃亜流は、瑠音を姉、マークを兄のように慕っている。
瑠音に知り合いが多いのはわかっている。あらかた紹介された。いつも人の輪の中心に瑠音がいて、乃亜流はそれをとても羨ましくみつめ、また尊敬の念を持って、輪の外側から眺めていた。どうしたらこんなに社交的になれるのだろうと思うとともに、日本人の知り合いがまったくいないことにも驚嘆していた。だから、少女の会釈に気づいた時、乃亜流はいぶかしんだ。
「いつも言ってるでしょう!はずかしいからやめてよね!指笛で知らせるの!」交差点を渡って来た瑠音は開口一番そう言った。
瑠音がそうやって怒るのはもう何度目だろう。乃亜流はそう思いながらも、瑠音のうしろに立つ可愛らしい少女が誰なのか気になってしょうがなかった。その様子があからさまだったのだろう、ようやく、面倒くさそうに口を開いた。
「これ、妹。
「いつも姉がお世話になっています」そう言って聡美と呼ばれた少女はまた頭を下げた。ケンモアスクエアが一瞬、日本の交差点のような景色に見えた。違っているのはその気候。凍てつく空気とドッピーカンの青空が、そこが渋谷ではないことを教えてくれた。そうして、ここがボストンであると思い出しながら、いかにも日本的な挨拶を懐かしんだ。
瑠音に出会った頃、乃亜流は、彼女がまるでアメリカ人がするような所作をごく自然に表現しているのを見て、自分もその振る舞いを身につけようと努力した。友人を紹介するときの頭の振り方や、知り合いと道ですれ違った時の仕草。そういった身のこなしやボディーランゲージを身につけることは、自分を守ることに繋がると知っていた。観光客だと悟られて、ひったくりにあったからだ。
遺伝子的に純粋なアジア系の人たちでも、アメリカで育つと、その空気をまとい、ネィティブだとすぐわかる。目があった時に必ずニコッと笑顔をみせてくれる。『自分は危険人物ではありませんよ。あなたの敵ではありませんよ』そういう表現らしい。安全な日本では身に付かない表情だ。乃亜流はその笑顔の作り方を数週間で覚えた。そうして、瑠音を通して知り合った人たちに実践し、磨きをかけた。いつのまにか、アメリカ人から道順を尋ねられるようになるまで、空気をまとえるようになっていた。
聡美が顔を上げた時、乃亜流はその空気をかろやかにまとった。そして、とっておきの表情をつくった。両眉をちょっとだけ内側によせて、上にあげる。目は、その眉の動きにつられてちょっと大きく見開かれ、その分だけ目尻がさがる。顎を左に15°くらい、くいっと持ち上げるようにして、同時に口角をあげる。
相手を安心させる笑顔。
日本に住んでいる人には作れない眼差し。
目が合った時、少女は一瞬で、恋におちた。
経験したことのない激しい動悸を覚えた。恥ずかしいのか嬉しいのか説明しきれない感情の高まりの原因がその眼差しにあることを感じ取り、乃亜流の視線を支えきれなくなった少女は顔を赤らめながら目線を下げた。その熱視線が気温零下を突き破り、乃亜流の胸に突き刺さった。
「ほらね。やっぱり」ため息まじりに瑠音がつぶやいた。
氷点下18度の恋のはじまり。
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