9.ストレングス
――ショウコが入院して、八十七日目が経過した。
最近のショウコは、荒川に外泊まで行動範囲を広げてもらい、自宅で一泊の外泊を行うため一時帰宅した。
その間夫が、本社に傷病手当金について問い合わせたところ、親切な職員が親身になって対応してくれたようで、病院に戻ってきたショウコの手には、すでに傷病手当金の書類の原本が手に握られていた。
そしてその後、ショウコと夫と荒川と今田でムンテラを行い、今後の方向性を話し合った。
まずは退院後の通院先。ショウコの場合、最初からやまざと精神科病院ではなく、一応小山田メンタルクリニックからの紹介ということになる。これを選ぶのは、本人の自由だ。
ショウコの心配事は、やまざと精神科病院にこのまま通院を続けたいが、“精神科病院”ということもあって、通院するには正直敷居が高いと感じていること。そしてもし小山田メンタルクリニックに戻った際に、今田のような相談員がいるのかということであった。
今田は「通院先はどちらでも構わないと思います。ショウコさんがいいと思う方を選べばいい。そして小山田メンタルには女性の相談員さんがいますよ」と説明をする。
「でもワーカーだと言っていたような……」
「機関によって呼び方は違うだけで、“ワーカー”も“相談員”も同じ精神保健福祉士ですよ」
そう言うと、ショウコだけでなく夫も安心していた。
それだけ今田がこの家族に与えた影響は大きいものだったのだ。
そしてムンテラの結果、退院後の通院先は小山田メンタルクリニックへ戻ることになった。そして今後の方向性は、小山田メンタルクリニックにも『ご報告』という形で情報提供書を作成し、みんなでショウコが望む復職を目指して動き出すことになった。
荒川はそれらの話をするため、再度店長の笹谷へ電話を掛ける。先日の今田とのやりとりを聞いた荒川が自ら「僕から電話しよう」と率先して手を上げてくれたのだ。
そして、退院後も引き続き休職を検討しているため、診断書を発行するという旨を伝えると、先日の今田とのバトルは嘘かのように笹谷はあっさりと承諾をしてくれたようだ。
すべてがうまく流れている。
体調も、今後の流れも、これまでの段取りも。
その影には、今田の存在があった。
今田がショウコの話を聞くこと提案しなければ――、
ショウコに仕事についての気付きを促さなければ――、
ショウコのために今田と笹谷が電話で話さなければ――、
今頃、ショウコは違う道を歩んでいたかもしれない。
しかしそれは今田の口から決して自慢気に話されるわけではない。
誰かに褒められるわけでもない。
何かの書類に『ショウコさんのために笹谷店長と戦いました』なんてサインをするわけでもない。
誰からの見返りを求めているわけではなく、ときにはこのように、姿の見えない黒子のような存在となり、本人のために必死に戦うこともある。
本人の知らないところで、本人にとって弊害になるものと戦い、ありえないことを散々に言われ、長い時間をかけてやっとまとまった話だけを本人に伝え、「ありがとうございます」と、笑顔で退院していくこともある。
特に今田のように病院で働き、病棟を担当している者は、その病棟に入院をしている間のみ関わっている。
精神科領域には、人生においてほんの一瞬しか関わることのない人だったとしても、こうやって本人の人生のために必死に動いてくれる人たちがいるのだ。
◆
丁度入院して三ヶ月が経とうとしていたその日、今田とショウコは面接室で話をしていた。
「私、母が苦しんでいる姿を小さい頃からずっと見て来たんです。毎日泣いてて、それを父が『大丈夫だよ』『もう少し頑張ろう』って励ましてた」
何度か聞いたことのある母親の話から始まった。
「母が元気になるようにって、休みの日には家族でよく旅行に出掛けました。でも母は旅行先でも、よく泣いていて、気分の落ち込みもすごかったんです」
今田は区切りの良いタイミングで相槌を打つ。
「父は本当に母を心配していました。小さいながらも、それは私もよく分かっていた。でも、私もいざ体調が悪くなったときに父の言葉を思い出していたんです。『大丈夫だよ』『もう少し頑張ろう』って。そしたら、自分の中で『ああ、私のこのつらさはまだ大丈夫な状態なんだろうな』とか『もっと頑張らないといけないな』って思うようになって。なんていうんでしょうか。助けを求める基準、みたいなものを見失ったというか……」
「お父さんの言葉を思い出して、どこから自分が周りに助けを求めていいのか分からなくなったんですね」
「そう、そうなんですっ。両親には迷惑掛けたくなかったし、夫にも……。本当は子供にも私のあんな姿見せたくなかった。自分と同じ道を、子供にも辿らせるちゃうんじゃないかと思うと、すごく嫌で……」
ショウコは俯きながら、机に置かれた両手をぐっと握る。
うつ病の人に対して、励ましの言葉はかけない方がいいと言われている。
それはすべて本人の中でプレッシャーとなり、『ああ、もっと頑張らなきゃいけないんだな。なんて情けないだ。もう死ぬしかない』という方向に考えがいってしまう。
あまり余計な声掛けはせずに、『無理しないでね』と言ってゆっくり休んでもらうことが大事なのである。
「母が精神科に通って薬を飲んでもあまり良くなっていなかったように見えたから、精神科に行くのは嫌でした。正直、偏見もあったし、私は精神科に通うほど重くはないと思っていたのもあったと思います」
「そうでしたか」
すると、ショウコは今田の方へと視線を上げる。
「でも私、知らなかった。うつの薬はたくさんの種類があって、人それぞれで相性があるってこと。荒川先生とたくさん相談して、今飲んでいる薬を飲み始めてからから私は体調が良くなっている実感があります。薬だけじゃない。一番驚いたのはここにはこんなに暖かい人たちがいて、誰も私を責める人がいないということ」
ショウコが一生懸命話す姿を、今田はにこやかな表情で見守る。
「今田さんなんて、私の話をずっと聞いてくれた。私、自分の話するの苦手っていうか、今まで怖くてできなかったのに、全然まとまりのなくて、面白くもない私の話を、今田さんは真剣に聞いてくれた。あと、私に希望をくれた。仕事を辞めることだけが道じゃないって教えてくれた。仕事を続けたいって気持ちに気付くことが出来たのは今田さんのおかげなんです」
そこには、入院時に泣き喚いて、必死に入院を拒んで、生きることよりも死ぬことを選択したショウコの姿はなかった。
しっかり現実に目を向け、自分の足で人生を歩もうとしているショウコがいた。
「いえ、それはショウコさんが自分で気付いたんですよ。僕はそのお手伝いをしただけ」
「今田さん……」
「ショウコさんが家族や周りに迷惑をかけないようにしてきたのって、逆で考えれば、責任感が強いってことじゃないですか?」
「え。責任感が、強い……?」
「はい。それはショウコさんのすばらしい
「……強み」
「そう強み。ショウコさんの、いいところ」
今田はにっこりと笑いながら、ショウコにそう伝えた。
『いいところ』探し。
本人の欠点ではなく、本人の強みに焦点を当てた支援。
いいところを探して褒めていく。
いいとこを探して伸ばしていく。
どんな人間にも、いいところは必ずある。
本人の悪いところを治す医療とは違って、ひとりくらい本人のいいところに目を向ける人がいてもいい。
それを担っているのは、それを学んできた精神保健福祉士。
「今田さん――。ありがとうございます」
ショウコはその言葉から一週間後、笑顔でやまざと精神科病院を退院していった。
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