7.日常生活の聴取

 トキオは涙を流す妻の肩にそっと手を置いた。


「すみません、雪凪さん。私は自分のことを良く見せようとしていた。会社に早く復職したい焦りがあった。最近上司と話をした時に『早く戻ってきてほしい』と言われて、とても嬉しかったんです。だから妻に……、口止めをしていました。何も小山田先生に言うな、と」

「そうだったんですね」

「はい……。いやぁ何かお恥ずかしい話です。これだけ自分のことを考えてくれていた人が、こんなに近くにいたのに……。それに気付かずに自分のことしか考えていなかった自分が情けない」

「あなた……」

「ごめん。本当は、お前が一番しんどかったのかもな」


 雪凪は、トキオの言葉を噛みしめ、二人の様子を伺っていた。

 今ここに流れているのは、三人の時間ではない。

 トキオと妻、二人の時間。

 雪凪はのだ。妻から話を聞きたいとトキオに伝えるだけではなく、夫婦がきちんと話せる場を――。ちゃんとお互いの気持ちが話し合える空間を――、したのだ。


「雪凪さん、妻に何でも聞いてください。私のことを一番に理解して、一番よく見てくれているのは妻ですからね」

「いいの? あなたのこと話しても」

「ああ、構わないよ。隠していたってしょうがない。これからのことを考えたら、これは必要なことだからな」


 その人にとって何がベストなのか、何をもって成功なのか、それは正直誰にも分からないし、永遠に分かることすらできないかもしれない。

 精神疾患とは、風邪とは違って一週間やそこらで完治するものではない。極端なことを言うと、発症してから十年、二十年、中には三十年以上、毎日薬を飲み続け、定期的に通院している人もいる。

 そのためワーカーは、その人をその瞬間とき、その瞬間しゅんかんで切り取るのではなく、長い人生、長い生涯を生活していくのに必要な関わりをする。


 それだけ長く本人が治療を継続していくにあたって、一番頼りになるのは家族の存在。

 一緒に生活をして、一緒にご飯を食べて、一緒にしんどい時を乗り越えてきた、そんな家族が本人にとって一番頼りになるサポーターだ。


 雪凪がやりたかったことは、長い時間をかけて病気と闘う本人と、その家族が手を取り合うこと。

 妻を抑制していたトキオに、家族から話を聞く大切さを伝え、それを理解してもらう。そしてそれはすべてトキオ自身のためなのだということも伝えた上で、トキオと妻と話をする場を提供した。そうした結果、トキオは妻に何でも聞いてくれ、と雪凪に言ってきてくれたのだ。


 雪凪は、優しく二人に微笑む。

「では、奥様。トキオさんの生活について、奥様が話せる範囲で構いませんので、教えてください」


 雪凪の聞き取りが、始まった。



 ◆


【Q.トキオさんの食生活について、どんなことでもいいので教えてください】

 <うつ状態>「ベッドから出てこないので、食事ができたら声を掛けに行くんですが、食欲は全くないと言ってほとんど食べません。一日一食といったところでしょうか。『おいしい?』と聞いても味は感じないと言います。やっと食事を摂っても、トイレで戻してしまうこともありました。お酒は全く飲みません、というか飲める状態ではなかったと思います」

 <躁状態>「自炊しています。すごく凝った料理を作るんです。本場イタリア料理みたいな。すごくたくさんの種類の調味料とか買ってきて。こんなの私でも使わないよ、というものばかりですよ。ただその気分じゃない時は、全部外食です。しかもちょっといいお値段するレストランに行きたがる。『お金ないからもう少し安いところ行かない?』って言うと機嫌が悪くなります」


【Q.トキオさんの家での様子を教えてください。また衛生面についてはどうですか?】

 <うつ状態>「寝たきりです。ベッドから起き上がれないようで。外出なんてもってのほかです。家の中でさえ歩けません。なので、身の回りのお世話は私がしています。お風呂に入れない時は、私が体を拭いています」

 <躁状態>「家の中では常に何かしていますね。ギター弾いたり、本を読んだり。気分が上がってからジムに行き始めました。週五日みっちり行っているのに、帰って来てもいろんなことが気になるのかずっと何かしている。変な話、夜中に防音室で一晩中ギターを弾いていることもあるんです。防音室と言っても全くの無音というわけではなく、音は少しだけ漏れるんです。おかげで私は寝不足です。恐らく今週も三日? 二日かな。一睡もしていないはずです」


【Q.トキオさんの金銭管理はいかがでしょうか?】

 <うつ状態>「外に出ることもないので、買い物はしないですね。コンビニにも行けません」

 <躁状態>「お金の使い方がすごいんです。高級な食事を食べたがるし、服もいいものを着たがる。アマゾンさんから毎日のように何かが届くんです。この前も診察で言ったのですが、ギターを買ったり、家の一室を防音室に改装したり、もう大変。ここ一、二ヶ月に三、四百万円ほど使ったんじゃないでしょうか。もう本当にお金に余裕がないんです」


【Q.トキオさんのコミュニケーションとか人間関係について何か思うところはありますか?】

 <うつ状態>「私以外とは喋らないので。人の目が怖い怖い、と言います。誰にも会いたくない、とも」

 <躁状態>「なんせトラブルが多い。飲食店に行っても、隣に座っている若者に『何見てんだ!』と怒鳴ったんです。これは最近の話です。あと近所の人に『お前、不審者だろう!』と怒鳴り込みに行ったこともあります。その度に私は頭を下げるのですが、夫は『相手が悪い。俺は悪くない』の一点張りで。怖いんです、そういったことが日常茶飯事にあるので」


【Q.通院や服薬に関しては、どうでしょうか?】

 <うつ状態>「ここに来た時はうつ状態だったと思うのですが、クリニックに連れて行くのも本当に一苦労でした。ベッドから起き上がれないので、たまに私のみで診察を受けることもありました。薬は飲まないとつらいようなので、私が用意してあげています」

 <躁状態>「テンションが上がっている時は、薬を飲みたがりません。何とか説得をして飲ませてはいますが、私が出掛けている間はどうでしょうか。診察中の様子も御覧の通りで、先生には本当に事を言えませんでした」


【Q.トキオさんが危なっかしいことをしたり、周りがヒヤッとする場面はありましたか?】

 <うつ状態>「『死にたい』『死にたい』とずっと言っていました。実際に、に移したことはないと思います」

 <躁状態>「気になるといえば、車の運転でしょうか。すごいスピードを出す。特に高速道路。一回百五十キロとか出していたこともあります。そして前の車を煽っちゃうんです。舌打ちとかしながら。『やめてよ』というと、今後は私が舌打ちされます」


【Q.役所などの手続き関係、公共施設の利用などは特に気になることはありませんか?】

 <うつ状態>「役所等には行けませんので、代わりに私がすべて行っています」

 <躁状態>「電車に乗りたがりませんね。イライラするのが自分でも抑えられないから、と前言っていましたね。それ以外は特に問題ないと思います」


【Q.トキオさんの趣味や、生きがいなど何かありますか?】

 <うつ状態>「何もないと言っていました。楽しいことも何もない、と」

 <躁状態>「多趣味すぎるというか。ギターもそうですけど。映画を見たりしていますが、大画面で見たいあまりにすごく大きなテレビを買っちゃって。寝る時間がもったいない、と常に言っています」



 以上が、妻から聞けたトキオの日常生活の様子。

 本人の口からこれまで語られたことのない話ばかりだった。

 中には思わず「ええっ!?」と言ってしまいそうな内容もある。しかし雪凪はそれを、相槌を打ちながらただただ傾聴した。自分の言葉で話を遮らないように、妻の言葉に真剣に耳を傾けた。


「奥様、ありがとうございます」

「いえいえ。こんな感じでよろしかったでしょうか」


 初めて見る妻の笑顔。

 これまでどこか表情の硬かった妻が、初めて雪凪の前で笑顔を見せた。


「こうやって聞くと、すごい生活しているな~、俺」

「本当ですよっ。結構大変なんですからね」


 お互いを慰め合うかのように笑いあう二人。

 そこには――、仲睦ましい夫婦の姿があった。

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