6.家族支援

 一週間前――。


『小山田先生、お疲れ様です。トキオさんと奥様との面談、ちょうど一週間後になりました』

『お、お疲れ。そうかそうか』


 雪凪は、十九時で本日のすべて終えた小山田に面談日程の報告をしていた。

 雪凪は休憩室で小山田と一緒に飲むためのコーヒーを淹れ始める。白衣を脱ぎ、ソファにかけると、雪凪は慣れた手つきで手際よくカップを二つ取り出し、コーヒーを注ぐ。

 小山田はブラックだが、雪凪はそこに牛乳を半分ほど入れ、更にスティックシュガーを半分入れた。最後に、猫舌な雪凪は、自分のカップに氷をひとつ投げ入れる。


『あと、私の突然の提案だったのにも関わらず、先生からも促して頂けて助かりました』

『いやいや、あのタイミングで雪凪さんが入ってきてくれたおかげで、止まっていた他の患者さんの診察が動き出したんだ。助かったのはこっちだよ』


 トキオが途中他の患者の診察の合間で、診察室に入ったため、すべての流れがいったん止まってしまっていた。またトキオの大声や衝動行為に、具合を悪くした患者もいたため、小山田には他の患者の診察を進めてほしいという思いもあった。

 あそこで雪凪がトキオに声を掛けたのは、そういう意味もある。


『ところで先生、トキオさんの奥様……。今日は本当はトキオさんの奥様が書類を取りに来る予定だったんです。でも実際現れたのはトキオさんのみ。――何か、あると思いませんか?』

『というと?』


 小山田は熱々のブラックコーヒーを啜る。

 自分のカップにまだ触れることすらできない雪凪は、話を続けた。


『診察も奥様が常に一緒に来ているのに、何も話さずに帰る。トキオさんは今ので、一方的に話しているうちに診察時間が終わってしまうというのもあるんでしょうけど。何も話さないけど、診察にはついてくる。これって、裏を返せば、ってことなんじゃないでしょうか?』

『なるほど』

『奥様、実は話したいことがたくさんあるんじゃないでしょうか。クリニックに来るたびに、何かをのかもしれません。自分が夫のことを話せるような、些細なきっかけ、とか――』


 小山田は組んでいた足を入れ替える。

 そして熱々のコーヒーのカップを角度をつけて傾けると、一気に喉に流し込んだ。

 雪凪は、自分のカップにそっと両手を添えたが、まだその時じゃないことが分かると、残念そうにゆっくりと離す。


『さすが雪凪、やっぱワーカーさんは目の付け所が違うね。実は僕も薄々感じてはいたんだけど、どうアプローチをしていいのか分からなくてね』

『何か試みて頂いたんですか?』

『うん。診察中にね、何度か『じゃあ奥さんとちょっとだけ話してもいいですか?』ってトキオさんに聞いたことがあるんだけど、なんだかんだでいろいろ理由をつけられて撃沈しているんだよ』

『そうだったんですね』


 双極性障害に限らず、自分をいいように見せたがる患者は多い。本当はできていないこと、つらいこと、困っていることが多いのに、主治医にそのことを話さないのだ。

 それには様々な理由がある。

 薬を飲みたくない、薬を減らしたい、早く会社に復職したい、早く仕事に就きたいなどの理由の他に、心のどこかで偏見のある人、自分が精神障害者だと認めたくない人にもよく見受けられる。


 診察とは、中継で全国に繋がっているわけではなく、ひとつの空間の中で、本人と主治医の言葉のキャッチボールと信頼関係で成り立っている。

 常に本人にGPSをつけて二十四時間観察しているわけでもなく、小型カメラをこっそり取り付けて家での様子を四六時中監視しているわけではない。つまり何が言いたいのかというと、診察室の中での本人の言葉がすべてになってしまう、というわけである。

 すごく変な話、「めっちゃ調子いいです!」と言っていた患者の言葉を信じて薬を徐々に減らしていったとしよう。すると、診察室ではとても調子よく話をしていたのに、病院やクリニックから一歩外に出ると、幻覚妄想などに囚われ人を殴ったり、自殺を試みてしまったり、違法薬物に手を染め警察に逮捕されてしまう、なんてことになり兼ねない。


 そんな時、頼りになるのが家族の存在だ。

 協力的な家族であれば、家族から話を聞く方が、いい治療やいい社会資源やサービスに繋がりやすいパターンもある。


 今回、雪凪が目を付けたのはトキオの妻である。

 妻の表情、仕草、声のトーン、立ち振る舞いなどから、どこかのタイミングで妻から話を聞く必要があるのではないかとずっと考えていたのだ。


 家族は不安だ。

 初めてのことばかりで、どこに何を相談していいのか分からない。本人の具合が悪くなった時に、どうすればいいのか分からない。本人の対応に疲れ切ってしまい、身体的にも精神的にもボロボロ。当事者の家族にしか分からない、実にたくさんの悩みを抱えている。そういった家族に向けてアプローチをかけていくのも、ワーカーの仕事のひとつで、ともいう。


 家族相談といっても、ワーカーひとりひとりにとってイメージする支援が違う。

『家族からの相談を受けること』『家族への心理教育を行うこと』『本人の身近な支援者としての家族』『同じ病気を抱えた子の親が集まる家族会』など。家族支援の内容は、本当に多岐にわたるのだ。

 これは『高齢者の本人の母に対して介護保険を申請してあげる』『折り合いの悪い家族の中を取り持ってあげる』というのとはちょっと意味が違う。あくまで、いちワーカーが支援するのは。新人ワーカーが陥りやすい課題でもある。


 中には本人のことを考えて動いている家族のように見えるが、実は家族が引いたレールの上を本人に走らせているだけ、という場合もある。ワーカーは、そのことにいち早く気付く必要がある。本人が歩くその道筋は、誰が立てたものなのか、を。

 本人の意図しないことが起こっているのであれば、家族に『そうではない』と話をするのも、本人ありきの家族支援の視点を身に付けたワーカーだからこそできるのだ。



 雪凪は自分のカップに両手を添えたまま、小山田に提案する。

「先生、リワークの話が出たので、これを機に本人のについて奥様から聴取するのはどうでしょうか?」

「おお、なるほど。それ聞いてくれたらだいぶ治療方針固まりそうなんだよね。できそう?」

「はい。普段どんな生活を送っているのかだけではなく、日常生活がどれくらいひとりで送れているのか、どれだけサポートが必要な状況なのかを聞き取りする――。現実的な支援を行うワーカーならではの面接内容ですからね。これを本人と奥様に提案してみて、本人の同意を貰ってから奥様と話ができるように持っていってみます」

「頼むよ。医療と福祉、両方の視野の広さを持った相談援助職、雪凪さん」

「本当、調子いいですねー」


 雪凪は、ようやくカップを持ち上げ、一口目のコーヒーで喉を潤した。



 ◆


「トキオさん。普段トキオさんがどのように過ごされているのかは、診察の中で十分にお話をして頂いていると思います。今回、よりよい治療を進めていくためにも、奥様から話を聞くことが今回とても重要になってくるのです」


 雪凪の真っすぐな言葉。

 ずっと下を向いて雪凪の方をほとんど見ることのなかった妻が、しっかりと視線を上げて雪凪の方を見ている。


「ですが雪凪さん。妻に聞いて、その、どうするんですか? これで私の復職がなくなってしまったら、元も子もないんです。会社はただでさえ、人が足りない。管理職である私が抜けた穴は本当に大きい。こうしている間にも、みんな死に物狂いで仕事をしている。そんな中、私だけ休んでいるわけにはいかないんです」

「だから、です。トキオさん。だから必要なのです」

「え?」


 必死に雪凪の説得を試みるトキオに、雪凪は冷静に言葉を返した。


「それは百も承知です。何もあなたの復職をなしにしようなんて、こちらは微塵も思っていません。その逆です。トキオさんが一日でも早く、会社に戻れるようにこちらは精一杯力になりたいと思っている。そのために、我々が知らないトキオさんの生活を知りたい。そうすれば先生も、もっと効率のよい治療方針を立てられる。私も、少しでも近道できる道を提案できるかもしれない。だからトキオさんと常に一緒にいる奥様の話が、我々はとても必要だと思っているのです。すべては、あなたのためです。トキオさん」


 トキオは、何も言えなかった。

 妻は雪凪の言葉に、思わず肩を揺らし、涙を流す。


「……あなた」


 震える声で、妻がトキオに話し始めた。


「……私も、あなたに一日でも早く良くなってほしいと思っていますよ」


 妻は涙ながらにトキオに告げた。


「私の生活は……、常にあなたのことで頭がいっぱい。あなたが良くなるためにできる限りのことは、協力したいと思っているのよ……。それが家族としてあなたに私がしてあげられることですもの」

「お前……」

「ごめんなさい、あなた……。もっと私があなたに『先生に相談しよう』って、ちゃんと言っていればよかったのに」

「いや、違う。俺の方こそ……、悪かった。そんなに考えてくれていたなんて……」


 妻は、ハンカチで涙を拭うと、雪凪の方を見てこう言った。


「雪凪さん、ありがとうございます。……今やっと、光が差し込んできたように思えます」

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