6.ラポールの構築
カケルは鎮静剤のおかげか、興奮状態の疲れからか、その日保護室で拘束されながらずっと眠っていたらしい。
翌日は、非常に落ち着いた様子を見せていたカケル。さっそく新井が薬の効果や副作用などを説明し、
カケルは薬を飲んでから、特に副作用も訴えることもない様子だった。
興奮することはなくなったため、拘束を解き、拘束のために導入していたベッドを撤去し、敷布団に切り替えている。
そして、両親が大きなカバンに大量に詰めて持って来てくれた荷物を、看護師が念入りにチェックする。紐のようなものがないか、刃物が入っていないかを見ているのだ。そして、荷物は今の段階では自己管理できないため、病棟ですべて預かるようにしている。
ホームレスのような風貌だったカケルを、まずは病棟の看護師と看護助手(介護福祉士など。無資格者でも可能)が入浴をさせた。臭いも非常にきつかった。マスクをしていてもその悪臭が伝わってくるほど。いつから散髪をしていなかったであろう長く伸びた髪の毛はフケで覆われ、ベッタリと肌にくっついている。髭も伸び放題で無精髭。
精神的に具合が悪くなった人は、入浴がとてもおっくうになる。一週間に一度、一カ月に一度しか入ることができないのだ。例えば、統合失調症が慢性化してしまうと、ひとりでお風呂に入ることすら困難になり、ヘルパーに手伝ってもらう人も少なくない。これは決して面倒くさいとか本人の問題とかではなく、病気によってこのような状態になってしまっている。カケルも同じだ。もしかしたら幻聴で『入浴したら殺す』とか言われていたのかもしれないが、数カ月は入浴していなかったようである。
お風呂に誘導すると、すんなり職員の後をついていき、ひとりで髪の毛を洗い、体を洗うことができた。できるだけ、本人が出来ることは本人にやってもらう。本人の能力や自立性を大事にしているのだ。
さっぱりしたカケルは、まるで別人のように見違えた。看護助手に髭を剃ってもらい、ボサボサだった頭を後ろで一つ結びにしてもらう。新しい服に身を包み、とても気持ちが良さそうな表情を見せている。
今田がカケルのカルテに目を通すと、薬を飲んでも幻聴は聞こえているようだ。
今日の【地域医療連携室】はとても忙しい。なんと、オープンとともに入院相談が一気に三件来ている。金本を中心に、他の相談員がベッドの調整などに走り回っている。そんな中、今田は一足先にカケルの病棟へ向かう。
◆
カケルの入っている保護室の扉には、小さな小窓がついており、中を覗くことができる。病院によっては監視カメラで中を映している保護室もあるようだが、やまざと精神科病院はそこまでの機能は備わっていない。
今田はその小窓から中を覗くと、カケルは布団の上で体育座りをして座っている。よく見ると、口元がぱくぱくと動いているように見える。恐らく幻聴が聴こえているのだろう。幻聴が聴こえている人は、何も反応せず、ただその幻聴を聴いている人と、カケルのように返事をしてしまうパターンがある。
コンコン、と保護室の扉をノックする。
「失礼します」
今田は中へ入った。保護室の扉は閉めずに開けておく。今田は自分の背に扉が来るように立つ。
「あ、あなたは。あの時の」
「覚えてくれていたんですね。いやぁ嬉しいです。改めてご挨拶に来ました、カケルさん。僕は相談員をしている今田といいます。この度カケルさんの担当となりました。退院するまでよろしくお願いしますね」
「あ、はい。こちらこそお願いします」
「体調はいかがですか?」
「あー……、昨日よりはいいかもしれません」
「そうですか。まずはゆっくり体調を整えましょうね。では、また来ます」
今田はそう言うと、保護室を出て扉を閉めた。
これだけ。
これだけで、本日のカケルの支援は終了だ。
続きは、また明日以降も継続して行われることになる。
◆◆
それから毎日、今田は時間を見つけてカケルの元へ通った。毎日数分話すこともあれば、数秒だけで話が終わる場合がある。行ったタイミングが悪く、入浴などで保護室にいない場合はいったん他の対応を済ませ、またカケルの元を訪れた。毎日必ず、カケルに会いに行った。他の対応に追われ日中に行けないときは、自分の勤務時間が終了した後に、必ず――
何気ない声掛けに見えるが、今田は、とても大切なあることをしているのだ。
これは精神保健福祉士と患者の間に、時間をかけてつくられるとても大切なもの。
それは
今田はゆっくりと時間をかけて、カケルとの間に信頼関係を築こうとしているのだ。関係性がうまく築かれるかにとって、今後の支援が大きく変わってくる。最初の関わりがどれだけうまくいくかが、鍵なのだ。
精神保健福祉士が行うのは、現実的な支援だと説明をしたが、これは信頼関係がある程度できていないと成しえない。信頼関係が出来ていない中で、その人のアセスメントするために情報を聞くことは難しい。「なんでこの人に、私のことを話さなきゃいけないんだ」となる。精神保健福祉士が踏み込むのは、その人の実際の生活だ。「掃除をするのが苦手で、家がゴミ屋敷になっている」「パチンコに負けて全財産使ってしまった。明日生活するお金もない」「もう会社に来なくていいと言われた。家族をどうやって養っていけばいいんだ」など、こんな現状を、何の関係性もできていない人に話せるだろうか。
そして、毎日カケルに声を掛けていた成果が見られるようになった。カケルから「今田さん」と寄ってきてくれるようになった。行くのが遅くなった日には病棟の看護師に「今日は今田さん来ないんですか?」と聞いてくれるようになった。
カケルはだんだん自分のことを話してくれるようになった。父のこと、母のこと、兄のこと。学生時代のこと。退学した時のこと。引きこもっていた時のこと。そして、いつから幻聴が聞こえ始めたのか。
今もまだ、声は聞こえるという。アメリカ兵の怖い幻聴はほとんど聞こえなくなり、『あゆみちゃん』という女性の声が主に聴こえると言っていた。アメリカ兵の幻聴が聴こえていた時ずっと『あゆみちゃん』という人物が、各国の国家機密事項の詳細について教えてくれているという。
今田はそれらのことを、記録にすべて残していく。
今回カケルと話をして、とてもいろんな話を聞けて、いろんなことに気付きを得た。とても家族思いなカケル。本当はずっとひとりで寂しく、誰かに話を聞いてほしかったという。そして『あゆみちゃん』のことを好きだということもこっそり教えてくれた。
幻聴は、すべてなくしていいものだとは正直言いきれない。幻聴のほとんどが悪口であったりする中、幻聴とお友達、という人も中にはいる。果たしてそんなお友達を消してしまっていいのだろうか。精神科の医療現場では、そんな葛藤も実はあったりするのだ。
カケルとの信頼関係をつくりはじめて、一カ月ちょっと。
ある程度の信頼関係が出来た頃には、カケルは保護室を出て、大部屋で過ごせるようになり、他の患者とコミュニケーションを取る姿も見受けられるようになっていた。
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