道連れ
懐かしい匂い。淫靡で、濃厚で、僕の欲情をかき立て、僕を恐怖に陥れる。何物にも例えようのない、僕の良く知っている匂い……。
僕は頭の下に暖かく柔らかい物を感じていた。霧が立ちこめた様にはっきりしない意識がもどかしい。身じろぎをする。身体がやけに重たい。
「気が付いたの、シータ?」
穏やかな声だ。まだ僕の意識は混沌としている。懐かしく淫靡な匂い。暖かく柔らかい。
今、僕はシータと呼ばれた。僕をそう呼ぶのは一人だけ。従姉妹のミリネアだ。僕は重い瞼を持ち上げた。
辺りはすでに薄暗い。目の前にミリネアの顔があった。日焼けした小さめの顔に癖の強いショートヘア、その明るい茶色の髪が夕暮れの残光に照らされている。徐々に記憶が戻ってくる。
「ミリー」僕はミリネアをそう呼ぶ。「魔女は?」
「追っ払ったわ」
僕は草原に、ミリーの膝枕で寝かされていた。暖かく柔らかいミリーの太もも。ミリーの匂い。彼女に助けられたらしい。
少しずつ身体に力が戻ってきた。けれど、まだ起き上がれない。
「これで貸しは三回ね」
ミリーが言った。僕は女剣士ミリーと一緒に旅をし、時に助け、時には助けられている。剣の腕前は僕の方が上だけど、彼女の方がしたたかだ。
「だから言ったでしょ、話がうますぎる、って」
「うん」
彼女の言った通りだった。僕は身体をひねり、胴衣の隠しポケットを確認する。前金で受け取った金貨は無事だった。危うく死ぬところだったけど、稼ぎにはなった。
草原を渡る涼しい風に吹かれて、僕の意識もはっきりして来た。身体もどうやら動かせそうだ。ミリーの太ももは気持ちが良くて離れがたいけど、こうもしていられない。僕は身体を起こす。
「出掛けられる?」
「ああ、もう大丈夫だ」
僕はよろよろと立ち上がる。ミリーが手を貸してくれた。僕は何とか背嚢を背負い、草をかき分けながら道に戻る。すでに日が落ちた街道に人影はない。
僕たちは並んで歩き始めた。
「でも、本当に魔女がいるんだねぇ。世の中、あたし達の知らない事がいっぱいだ」
ミリーは結構楽しそうだ。彼女はいつも積極的で、楽天的で、元気いっぱいで、乱暴で、抜け目が無くて、がめつい。
「これ、ミリーが持ってて」
僕は懐の金貨をミリーに渡す。財産管理は彼女に任せた方が良い。
「はいはい、ご苦労様。ともかく、稼ぎにはなったね」
ミリーは金貨を受け取り、巾着にしまう。
程なく、僕たちは村落に着いた。あのイスカ村だ。迂回する道はない。僕たちは村を突っ切る一本道を進んでいく。
村人達は僕たちの姿に気付くと、蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。街道に面した窓や扉は閉められ、かんぬきが掛けられる。
「僕たちが仕返しに来たと思われてるんだね」
「『僕』でしょ。騙されたのはシータ一人なんだから。仕返しなんかしないでよ、恥ずかしいから」
実際、逃げたいのはこっちの方だ。恥の上塗りの様な仕返しなんて出来る訳がない。それこそ、剣士仲間の笑いぐさだ。
僕たちはそそくさと村を抜ける。
「急ごう」
体力はかなり回復した。次の町は遠い。途中で野宿になりそうだ。でも、まずはこの村から離れたい。
明かりといえば、頭上の半月だけだ。夜は魔物の時間だ。僕たち剣士といえども、出来れば出歩きたくはない時間なのだ。二人とも次第に無口になり、足早に暗い道を辿っていく。
「シータ?」
ミリーが立ち止まった。僕にも聞こえた。人が争う声だ。
「行こう」
僕は走り出した。やがて、声が大きくなってきた。
「いい加減、観念しろ!」
「誰も助けになんか来やしねぇぞ」
男達の声だ。それに混じって女の悲鳴がする。
道の真ん中で数人の男が女を襲っている。
「お前達!」
僕は剣を腰のベルトから鞘ごと抜きながら叫んだ。男達が一瞬固まる。こんな時間に次々と人が通りかかる事など、予想していなかったに違いない。
けれども、彼らの反応は早かった。次の瞬間、男達が僕に斬り掛かってきた。昼間の茶番と違い、今度の連中は少しは使える様だ。が、僕の方が上手だ。僕は男達を鞘でたたきのめす。
すぐに決着が付いた。数名の男が僕の足下に気を失って倒れ、残りは逃げ去っていった。僕は襲われていた女に近付く。
「大丈夫か?」
「はい、なんとか」
うつむいたまま、女が応えた。女の衣服は破られ、月明かりに肌が白く浮かび上がっている。女があわてて形の良い乳房を隠そうとする。その瞬間、女の顔が月明かりに浮かび上がった。
「お前! 魔女!」
僕は剣を構える。女は助けに駆けつけたのが僕だと知っていた様だ。あわてて顔を伏せ、震えている。僕は剣を抜き、鞘だけ腰に戻す。
「性懲りもなく、まだやっているのか!」
僕は剣先を魔女の喉元に突きつけた。
「違うんです、助けて下さい」
魔女が顔を上げた。今度はその肌を隠そうともせず、必死の形相で僕に助けを乞う。
魔女はいきさつを話し始めた。
彼女はイスカ村の村人達を脅して餌取り、つまり若い男を罠にはめる手伝いをさせていたらしい。ところがついに女剣士ミリーにその本性をさらす事になってしまった。彼女はミリーに追いやられた後、急いであの村を離れた。逃げなければ僕たちに殺されると考えたのだ。そして、物騒な夜の街道を歩いているところを今度は本物の盗賊に襲われた。
「そんなの魔力でやっつけちゃえばいいのに」
いつの間に来たのか、ミリーが倒れている盗賊の懐を漁りながら言った。
「わたし、夜は魔力が使えないんです」
魔女がか細い声で言った。
「昼間は使えるのか?」
「はい。明るければ」
「どんな事が出来るんだ?」
「相手を発火させたり、動きを遅くしたり、他にも幾つか」
「発火?」
「はい。焼かないと美味しくありませんから」
なるほど、そういうことか。精気を吸い取った相手を美味しく食べるための魔法か。危うく僕も焼かれるところだった訳だ。
「お願いです、何でもしますからお助け下さい」
魔女が僕の足下にひれ伏した。
「あらあら、そんな事言っちゃだめよ。男に『何でもします』なんて言ったら、あーんな事やら、こーんな事やら、いっぱいさせられて、そりゃもう心も身体もボロボロに……」
「おいっ、ミリー!」僕はあわてて彼女の言葉を遮る。「誰があーんな事やこーんな事をさせるっていうんだ!」
「下半身をモッコリさせながら言われても、ねぇ」
ミリーの言葉に僕は思わず股間に手をやる。
「ばーか」ミリーが言う。「この暗さであんたのチビッコがモッコリしてるかどうかなんて、見えないわよ」
まったく、ミリーの口の悪さは相変わらずだ。彼女と僕は同い年で、子供の頃から良く遊んだり、一緒に風呂にも入った。ミリーには、僕に対する遠慮なんて、かけらも無いらしい。
「ねえちょっと、シータ」
彼女は相変わらず倒れた賊の懐を漁っている。
「なんだよ」
「見てよ、これ」
彼女が差し出したのは、一振りの短剣だった。鞘と柄には、僅かな月明かりでも判る程に、宝石が散りばめられている。僕は受け取った短剣を鞘から抜いてみた。
あっ、とミリーが声を上げた。短剣が青白い光を放っている。
「なによ、それ」
僕もこんな短剣の話は聞いた事がなかった。ただ、これが大変高価な品だろう事は予想できた。
「お宝、だな。きっとどこかでくすねてきたんだろう」
盗賊が持つ様な品じゃない。僕は短剣を鞘に戻す。辺りがまた暗くなる。僕はあわてて魔女の所在を確認する。逃げられるとまた厄介だ。だが、魔女に逃げるそぶりはない。
「ちょっと、短剣を抜いて」
ミリーが短剣の明かりで、自分の背嚢の中を調べている。やがて、替えのシャツを引っ張り出すと立ち上がり、魔女に近付いていく。
「これに着替えて。――シータは後ろ向いてなさい」
残念だけど、ミリーには逆らえない。魔女は裂けたブラウスを脱ぎ、ミリーのシャツに着替えた。
「あなた、名前は?」
ミリーが訊ねる。
「ブリリアンティア、魔女ブリリアンティアです」
「うーん、長いなあ。じゃあ、リリアンにしよう」
ミリーは一人頷いている。
「わたしは助けて頂けるのですか?」
「今更、首をはねても、ねえ。……あなた、人間を食べずに生きていける?」
「はい、代わりに鶏肉でも大丈夫です。でも、時々精気を吸わないと体調が崩れるんです」
ミリーが僕をチラリと見る。僕の背中に悪寒が走った。
「仕方がないか。シータ、時々はリリアンにキスしてあげなさい」
一瞬、僕には何のことだか判らなかった。が、短剣の光に照らし出されたリリアンの嬉しそうな顔を見て、理解した。時々は精気を吸わせてやれ、という意味だ。僕はちょっと複雑な気持ちだ。死なない程度になら、こんな美人との接吻は願ってもない。が、本当に死なない程度で止めてくれるだろうか。不安もよぎる。それよりも。
「おい、ミリー。リリアンをどうする気だ?」
「こんな危ない娘をそこらに放ってもおけないでしょう? 暫くはあたし達と一緒に旅をさせるのよ」
「だけど、大丈夫なのか? 昼間は魔力が使えるんだよ?」
ジュージュー焼かれて食べられるのは嫌だ。
「焼きません。食べません。約束します!」
リリアンが言った。ミリーの剣士用シャツを着た魔女が短剣に照らし出される。とても綺麗だ。僕は力なく頷いた。
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