美しいの7
それは一瞬だった。
あたしには、レットが拳を振り上げただけに見えた。
それだけで、終わっていた。
「……なん、だと」
男爵の一言は、あたしも同じ気持ちだった。
それだけ、真っ二つに裂かれたイフリートは衝撃的だった。
右の拳の中指と薬指の間から肘に抜け、肩からは胸を斜めに通って左の腰に抜けて、精霊ヴェスヴィラスは引き裂かれた。
そしてゆっくりと、その切断面から崩れて、呆気なく巨体は消えていった。
僅かに残った火花を腕ではらって、レットは何事もなかったかのように歩き続けていた。
ただ数回、煙を吸い込んだのか、レットは激しく咳き込んで、それが収まって、口を手の甲で拭うと、歩き出す。
それですぐにレットは男爵の目の前までたどり着いていた。
「それで、だ」
言ってレットは足を止めた。
「まさかとは思うが、今のハリボテが最高位魔法だって? あの時のハートと大して変わんねーぞ」
レットの挑発に、男爵は杖を捨てた。残ったフランベルジュを両手に、正面に構える。だけどその顔は赤から青に変色していた。
それでも繰り出した上から下への斬撃を、レットは受け流した。
刀身の腹を右の手のひらで叩いて左へ軌道を逸らし、更に続く動きで右のジャブを男爵の鼻へと打ち込む。
受けて怯んだ男爵は身を引きながら、なお繰り出す斬り上げる攻撃を、レットは後ろにのけ反り軽やかにかわした。
そしてできた隙に接近、更なる打撃を、速く、軽い打撃を、絶え間なく連打した。
接近戦が始まった。
▼
二人の接近戦は、焦れったいほど間延びしていた。
それでも動いているのは男爵の方だった。だけど今では見る影もない。
初めは積極的だったのに、足取りはドンドン重く、剣を振るう動きはドンドン遅く、その構えはドンドン低く、ただただ呼吸だけが速くなる。
疲労は、明らかだった。
魔法は体力を使うらしい。
ならばすぐに消えたとはいえ、あれだけ巨大な炎を出せば、当然疲れるだろう。なら、フラフラに成るのは当然だろう。
それでもなお男爵が倒されずに戦えてるのは、単にレットが手を抜いてるからだった。
繰り出される攻撃を余裕を持ってかわし、できた隙に打撃を打ち込む。それも、軽く、急所とは程遠い場所を選んで、だ。
そしてチャンスを見逃し、急所を外し、余裕を持って距離を取る。
その戦い方は、弄ぶ為だった。
その証拠に、レットはいっさい息切れしてなかった。
ダメージもない。危ないという瞬間もない。
実力差は歴然なのに、レットはトドメの一撃を放つ素振りも見せなかった。
そうして戦い続けて、攻撃がレットの一方的になっていって、終に男爵は膝をついた。
流石にもう、決着だった。
男爵の、あの端正と呼べた顔は度重なる打撃によって腐った果実のように腫れ上がり、両方の鼻の穴からは鼻血が流れてる。
杖として突いて身を立たせてたフランベルジュもその手から滑り倒れて手を突いて、それを拾う余力も無いみたいだ。
「何だよ、もう終わりか?」
レットの挑発にも、男爵は見返すだけだった。
「……んだよ」
レットは呟いて、そしてあたしの方を向いた。
「やっと来たか」
その言葉に視線を辿ると、道の向こうに三つのシルエットが見えた。
ホレイショとブラーとリバーブだと見えた。
「なら、もう遊んでられないな」
そう呟いたレットは笑顔だった。
その笑顔を見てしまった。
見たくなかった。
…………今の笑いは、まるで悪魔のようだった。
ぞっとするような、本当に人を苦しめるのを楽しめるような、そんな笑顔だった。
その笑顔をレットは男爵に向ける。
向けられた男爵は、それに怯えていた。
「何だよその顔は、笑えよ男爵様、あいつの足を切り落とした時みたいによー」
その一言にゾクリとした。
……レットは、あたしの仕返しをしてたんだ。
だけどあれは、足は事故みたいなものだし、あたし自身はそんなに気にしてない。少なくともこんな暴力なんかいらなかった。
……何より、いくらレットでも、あんな笑顔は、浮かべて欲しくなかった。
そんなあたしの気持ちも知らないで、レットは笑い続けた。
笑顔で落ちてたフランベルジュを遠くへ蹴りやって、それから右手を伸ばして、男爵の右手の、中指をまんで腕を釣り上げた。
そして脈を確認するみたいにその手首に左の人指し指を当てた。
「ぃ!」
小さく悲鳴をあげて男爵はそれを振り払う。
そして確認した手首には小さな切り傷と、被れたみたいな腫れが作られていた。
その腫れは、動いた。
手首から身体に向かってゆっくりと、でも確実に、虫でも入り込んだみたいに、動いていた。
「べーつに、信じなくてもいーがな」
レットは立ち上がりながら言う。
「生物の血管に空気が入って、それが心臓に到達するとだ。何でか忘れたが、心臓が止まんだよ」
その口振りは、少し嬉しそうにも聞こえた。
「ハンドレスマジック・ポイズンカウンター。そういや、こいつを人間に試すのはこれが初めてだ。もしかしたら人間には効かないかもなー」
歌うようなレットの言葉を聞いてか聞かないでか、男爵は必死に手首を押さえていた。
だけど腫れは止まらなくて、ドンドン上って、ついには肘にまで達していた。
それに、男爵は唾を飲み込んで、目を閉じ、その腫れに噛みついた。
ブシュッ、と音がして、噛み切られた傷から赤いシャボンが膨らんで弾けた。
「なるほど、上手く阻止したな。なーらーば、次は、どーすっかなー」
そう言いながら頭のモジャモジャを掻き乱すレット、その姿を、もう見てられなかった。
「レット!」
叫びながらあたしは、夢中でその背中からしがみついた。思ってたよりも大きなレットの体は、冷えてて冷たかった。
「……新入り?」
レットが驚いた顔であたしの顔を見て、視線を落としてあたしの足を見た。
それから、あたしが無意識に歩いて残した足跡を見た。
更に向こうの、千切れ落ちた方の足を見た。
そしてまた、あたしの顔を見た。
「……何でお前新入り何で生えてんだよ足がよぉ」
混乱したレットの声は、それでもいつものレットに戻っていた。
戻ってくれた。
▼
ホレイショとブラーとリバーブは、それからすぐに来た。
それで、ブラーとリバーブはすぐにあたしの千切れた足を見つけて、それからあたしの生えた足にもすぐに気付いた。
それにレットもいて、誤魔化せる空気じゃなかった。
だから、あたしは、告白する。
「説明、させて下さい」
これは、最初から覚悟してた。
それに、みんななら、きっと受け入れてくれる、と思う。思える。
だけど、それでも顔を見ながらはできない。
だから、下を見ながら、それでも話始めた。
「あたしは、あたしはっ」
落ち着け、あたし。
一度だけ、深呼吸する。
……よし。
「あたしは、孤児でした。赤ん坊の時に拾われて、孤児院で育ちました。そこは良いところで、みんな優しくて、あたしは幸せに育ちました。だけど、そこでの健康診断の時に、あたしは、言われました」
一息。
「……あたしは、普通の人間じゃなかったんです」
喉がつまる。
でも、続けた。
「あたしの学名は、ビノミア・ビノーメンと言うらしいです。そう、つけられました。体の作りなんかは、普通の人間とほぼ同じで、成長も同じペースでした。だけど、あたしの細胞は、見てもらった通り、すごい再生能力を持っています」
何度も何度も、頭の中で練習した台詞を繋げる。
「偉い先生によれば、これは魔法によるもので、常時再生魔法をかけ続けている状態らしいです。だからあたしは魔法は使えません。そっちに魔力を回してるので、でも代わりに魔力が続く限りは、死なないそうです」
……続きを言いたくない。けど、言わないといけない。
「……この魔法は、性質は、アンデット、特にその中でも吸血鬼に近いんだそうです。たぶん胎児か、それぐらいの時に何か影響を受けたんだろうって、でも前例がないからわからないって、だから、あたしは」
……いつもこうだ。いつもここで、涙が溢れてくる。泣きたくないのに、泣いてしまう。
「……あたしは、危険生物に区分されてます。ジャンルはアンデットで、それで」
涙が一滴、落ちた。
「あたしは、怪物です。いくら傷ついても構わない化け物です。それを否定するつもりはありません。ですが、あたしは、人を傷つけるような存在じゃないです。だから、それを証明したくて、それで護衛ギルドを目指したんです」
ボロボロと落涙してしまう。
「あたしをギルドとして雇うのには資格が必要なんです。危険生物鑑定士と不死者鑑定士っていうやつで、それを両方持ってるのが、リバーブだけで、だからあたしが入れるのはこのギルドだけで、あたしはここに来ました。ここしかないんです」
思わず目を瞑る。
「お願いです。あたしはこんなんで、魔法も使えないし、まともな資格もありません。でもここしかないをです。お願いです。あたしをここに、残してください」
あたしは深く深く頭を下げる。
だけど返ってくる言葉はなくて、時間だけが過ぎていく。
……無限に思える時間、破ったのは言葉じゃなかった。
ベロリと顔を舐められて、驚いて顔を上げた。
目の前にはホレイショがいた。そして暖かい鼻先をあたしに擦り付けてくれる。
そしてその後ろで、馬車が燃えていた。
男爵が乗ってた白い車体は、その天井が赤々と燃えていて、それをブラーが引き剥がし、できた空間からレットが中身を引っ張り出して、リバーブが火の届かないとこまで運んでいた。
「おら同情頂戴スピーチ終わったか!」
「レット!」
「うるせーリバーブ! こんのクッソ忙しいタイミングで人生最大クラスの告白するとか頭わいてんだよ!」
「してる最中に燃えだしたんでしょうが! トルートはそれに気がつかないほど必死なのよ!」
「何で擁護してんだリバーブよ! んな燃えてるのに気づかないとかそれ以前の問題だろが!」
「レット! レットどうしようレット! 額縁燃えてる!」
「舐めろブラー! 舌で消せ!」
「あっっっっつう!」
「うわ、まじで舐めたよこいつ」
三人は怒鳴り合いながらも馬車から絵画なんかを運び出してた。
なんか、知らない間の大変なことになってた。
と、絵を置き終えたリバーブがあたしの方に駆け寄ってきた。
そしてあたしの両肩に手を置いて、真っ直ぐあたしを見つめた。
「話はわかったわトルート、あなたの生い立ちもね。だけどうちのギルドはこんなよ? 私はダークエルフだし、ブラーも山羊なの頭だけで、レットは言うまでもないわね。それで、あなたは確かにまだ新入りで、学ぶことも多いけど、ちゃんと仕事してる。現にこうして馬車を捕まえてる。そんな優秀な人材をそんなことぐらいじゃ追い出さないわ」
「それじゃあ」
「改めて宜しくトルート、私たちインボルブメンツはあなたを歓迎するわ。文句ないわね!」
「このタイミングで訊くかくそマスター!」
「レット酸素! 息できない!」
「今風出したら余計に燃えんだよ! 自慢の神様に祈ってろ!」
「何やってのよあんたた男爵! どこ行こうってんです! あーもう」
またリバーブはあたしを見る。
「トルート、あの二人を手伝って。最悪、絵は判別できればいいから手早くね。私は男爵押さえるから」
言ってリバーブはあたしの返事も聞かずに男爵へ走っていった。
「新入り早くしろ! ブラーまじで祈りだしてやべーんだよ!」
「……は、はい!」
あたしは、返事を返して馬車へ走った。
涙なんか残ってなかった。
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