静かな湖畔の陽の光の下(8/8)

松本一朗と中深迫友の出会いはおよそ10年前、高校入学のときだった。在学中、二人は軽音楽部でバンドを組み、それぞれの志望大学に進んでからも付き合いを続けた。そうして、将来の夢を重ねるように二人は教員免許を取り、中深迫は私立高校の教師に、松本は公立中学校の教師になった。

「6文字の苗字って、珍しいだろ。だから名前は『トモ』なんてハンパな2文字なんだ」

最初の部活動の帰り、中深迫は松本にそう言った。


「驚かせてしまい、すまない。君が上村の教え子でもあると知って、今回のボランティアをお願いしたんだ。わたしは、トモの親友の『いっちゃん』に会えて良かったよ」

「まさか」の思いで、松本はガガ丸を見た。ふくよかな耳たぶが友に似ている気がした。

「トモの携帯電話は、わたしの弟がいまでも持ち続けてるんよ。解約もせずにな」

言いながら、今度はガガ丸が松本を見つめ返した。

「いや……その、僕は……」

「トモのこと、ずっと思ってくれて、ありがとう」

ガガ丸の物静かな口調が、松本をぎゅっとわしづかんだ。息がつまり、抑えていたものがこみ上げる。


まるで落とし穴に嵌まるように、高校教師の中深迫友は生徒指導につまづいた。

松本が中深迫の高校に進学させた1年の女子に、あらぬ嫌疑をかけられた。

破廉恥教師ーー生徒が仲間に発したツイートが第三者と保護者の間で独り歩きし、疑惑は真実から離れて、過剰な脹らみを持った。

人の噂は時の流れが風化するもの……実直な中深迫はそう開き直ることができなかった。

休職を決意した親友に、松本は手を差し伸べることが出来ず、中学の多忙な教員生活の中で時間に流されていった。

そうして、突然の中深迫の死を、警察は「事件性なし」と片付け、松本は全てを受け入れられないまま、届くはずのないメールを友に送り続けた。

「ごめん、力になれなくて、本当にごめん」「元気でやっているか?会いたいな」「オレも先生を辞めようと思う」

松本の喪失感と無力感は、いつしか、教師という職業への嫌疑に変わり、「漠然とした不安」が心を削り取っていった。


風が吹く。

湖面にさざ波が立つ。

二人の背中側で夏草がざわめいた。それに応じるように、気の早い秋の虫が短く鳴いた。

「わたしは親戚だからはっきり言うけど……トモは立ち向かう力が足りなかったな。どんなに絶望しても命を絶ってはいけない。でも、松本先生の班のシンタロウはね」

ガガ丸は、そこまで言って、ふうっと息を吐き出した。

口を突いて出た言葉を反芻するように、缶ビールを飲む。

「……いかだの件は、すみませんでした」

かろうじて、松本が思いを絞り出した。ガガ丸に「松本先生」と言われたことで、後悔の念が深まっていく。

「いや、ありゃあ、たいしたことじゃないっぺ。コウタは溺れたんじゃない。落っこちただけさ。キャンプでよくある、水遊びの延長だ」

岸辺に目線を置いて、ガガ丸は笑い、「水に飛び込んだシンタロウは強い子だ」と足した。

「あの子は、もともと母子家庭でな……東北の震災で母親も亡くしてしまったんよ。石巻の祖母と母親と三人一緒に暮らすことになっていた。地震があったのは、ちょうど、お母さんがそのおばあちゃんを迎えに行った日だった」

初めて聞く話に、松本は姿勢を正して、ガガ丸の横顔を直視する。

「地震が起きて、連絡が途絶え……一週間後に、安置所にお母さんが運ばれたそうだ。でも、シンタロウはどうしても足が向かなかったらしい。そこに行ったら母親の死を認めてしまうと思った……」

訥々と、自分の感情を挟まずにガガ丸は続けた。そうすることが、この話の登場人物への礼儀だといったふうに。

「……で、連絡があった二日後に、ようやく石巻に行った。お母さんのそばから離れず、冷たくなった手が温かくなるまで握り続けたそうだ。横浜にシンタロウの叔父さんがおってな、その人がうちの事務所に来て、そんなことを話してくれたんよ」

半分残ったビールで、松本は乾いた舌先を濡らした。他には何もできず、適当な言葉が浮かばない。

「『シンタロウ君をキャンプに来させてください』って、わたしは言ったよ。お金はいらないからって。でも、叔父さんは最後まで渋ったなぁ。送り迎えで、他の家族をシンタロウに見せたくないって」

二人は同時に顎を上げ、空を仰いだ。

芥子(けし)粒ほどの星が明滅を繰り返している。

「結局、シンタロウは自分の意思で来てくれた。この湖畔で、トモと……中深迫先生と1年ぶりに再会するのを望んだ。トモがいないことを知らずにな。だから、せめて、松本先生が来てくれて良かったよ。子供っちは、先生っちゅう生き物を感覚で分かるもんだから」


大型バスのガラス越しに自分の子供を見つけると、母親たちはいっせいに拍手した。

そして、三泊四日のキャンプで日焼けし、友達を作り、体も心もたくましくなった我が子を笑顔で迎えた。家族に再会したうれしさと照れくささが、子供たちの表情に交じり合っている。

コウタの父親が松本に会釈してから、息子の野球帽のつばを上げて微笑んだ。リーダーのプーコも閻魔大王もチャーポも、別れを惜しむ面持ちで自班の子供と戯れ、ガガ丸は保護者と対面し、時々、大きな声で笑っている。

街頭のデジタル時計が数字を規則正しく刻んでいく。

新宿駅のコンコースは行き先を急ぐ人であふれていた。

松本は、リュックを背負ったままのシンタロウを見つめる。

待ち人はいない。

親子の姿がだんだん少なくなっていき、松本がシンタロウに近づいた時、開襟シャツの保護者が息を切らして走ってきた。

「お~い、シンタ~!」

誠実さが洋服を着た感じの中年男性は、ガガ丸と目線を合わせて立ち止まり、深々と頭を下げた。

松本がシンタロウの肩をポンと叩く。

振り返ったシンタロウは、口をすぼめて目を伏せた。かくれんぼで見つかった子供のように。バツの悪さを隠す大人のように。

「シンタロウ……来年、またな」

思ってもみない言葉が松本から滑り出た。

シンタロウは何かを言おうと唇を動かしたが、背中をくるりと向けてしまう。

「せんせもがんばるぞ!」

正面の夕陽を受けながら、叔父と一緒に歩き出した後ろ姿に、松本はありったけの力を込めて叫んだ。



おわり

⬛単作短篇「静かな湖畔の陽の光の下」by T.KOTAK

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短篇小説「静かな湖畔の陽の光の下」 トオルKOTAK @KOTAK

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