静かな湖畔の陽の光の下(7/8)
キャンプ場の照明が朧気な光を部屋に投げかけている。
ベッドの木目模様がかろうじて読み取れる明るさのなか、松本は横たわったまま、携帯電話のメール画面を開き、送信ボックスを確認する。
nakafukasako1107@――
送信済のメールは同じアドレスが続いていた。
アルファベットの「なかふかさこ」は友(トモ)の苗字で、4つの数字は彼の誕生日だ。
自分の送ったメールを見ようとボタンに指をかけたとたん、液晶画面が受信を知らせてきた。
松本は体を起こし、ベッドの天井に頭が擦れる姿勢で内容を確認した。
メールの送り主はガガ丸だった。
まだ起きていれば、食堂に来てほしいというもので、呼び出しの理由は記されていない。
用件だけの短い文章ながら、「松本一朗様」で始まり、「加賀哲丸拝」で終わる、年長者らしい書き方だった。誤りのない日本語で然るべき位置に読点が打たれているが、途中一ヵ所の文字のだぶりが文面を書き直したことを知らせている。
子供たちを起こさないよう、松本は音を立てずに短パンの上にナイロン製のジャージを履き、携帯電話と筆記具を持って部屋を出た。
階段を降りる前に、フロアの端の化粧室でヘアスタイルのわずかな乱れを直した。日焼けで赤くなっていたおでこが、キャンプ場の紫外線で色を濃くしている一方、目の下の隈は東京にいた時と同じだった。
長テーブルの真ん中で文庫本を読んでいたガガ丸は、松本の入室に屈託のない笑顔を向けた。
縦縞の半袖シャツに膝丈の綿パンツ。中年太りとは無縁のお腹にウエストポーチを付けている。
「ちょっと、外に出ようか」
年相応のゆったりした声色に「僕だけですか?」と松本が尋ねると、ガガ丸は無言で頷き、入り口のスイッチで食堂の電気を落とした。
二人は宿泊棟から離れて、湖岸を目指した。
敷地内の砂利道を通り、駐車場を右側に見て進んでいく順路だ。湖への抜け道は大人の横並びで左右ぎりぎりの幅だが、きちんと舗装され、オトギリ草やねこじゃらしの群生する野原と明確な境界線を作っていた。
空は、昼間の曇り模様から一転して、無数の星を瞬かせている。東京の夜空とは明らかに違う天体だった。
小路の終点を知らせる木製ベンチが、湖に対峙する位置にあり、ガガ丸と松本はそこに腰を下ろした。
配線を剥き出しにした簡易な電灯が、地面の少しの揺れで途絶えそうな白光を落としている。数匹の羽虫がいちばん明るい場所で別々の弧を描き、夏草の匂いが松本の嗅覚をわずかに刺激した。
「急に呼び出して、すんませんな」
最初にガガ丸が口を開いた。
「……いえ、眠れなかったので大丈夫です」
「ホントは、夜に子供っちを置き去りにしちゃいけねぇんだけどな」
言葉を紡ぐガガ丸の横顔を、松本はまっすぐ見つめる。
「まぁ、こうして、夜の湖を眺めるのも悪くない……」
隣りの視線に応えず、ガガ丸は前方を見据えて続けた。
湖面はどこまでも平らだった。
過去も現在も未来も、同じ領域に同じ水を留めるふうに動かず、地表に降りた月明かりを照り返すだけだった。
ガガ丸はウエストポーチのジッパーを開けて、親指と人差し指で飲料缶の上下を掴むと、それを松本に差し出した。
「いっちゃん……良かったら飲まん?」
135ミリリットルのミニサイズのビールだ。銀色のボディに、メーカー名を象ったロゴが刷られている。
たじろぐ松本の様子を見て、ガガ丸はもう一方の手でこめかみを掻いた。
「一口サイズだから……かまわんやろ。これくらいじゃ酔っぱらわんよ」
「いただきます」
「毎晩飲んでるわけじゃないよ。今日は最後の夜っちゅうことでね」
ガガ丸はプルトップの蓋を開け、標準語を崩した独特の物言いで笑った。
松本も蓋に手をかける。
コーヒーカップほどのアルミ缶は、そうされることを長く待ち望んでいたようにプシュッと音を立てて、かさついた喉に液体を染みわたらせた。
味を感じない程度の量が、松本の胃にするりと落ちていく。アルコールが血液に溶ける前に、ビールを口にした事実だけで酔いが回りそうだ。
「……わたしは婿養子でな」
ガガ丸がポツリと言った。
「結婚して自分の赤ん坊はできんかったけど、こんなふうにずっと子供たちと過ごす人生よ」
耳を澄まして、次の言葉を待つ松本の横で、ガガ丸は話す内容をじっくり選びながら、二口目のビールを飲んだ。
「……結婚する前のわたしの苗字は、中深迫(なかふかさこ)でね」
語り手は湖岸に目線を落としたまま、聞き手に時間を与えず続ける。
「友(トモ)は……中深迫友はわたしの甥っ子で、弟の一人息子だったんよ」
空気が静寂に包まれる前に、松本の血の気が引いた。
何かを発するべきだろうが、声が出ない。両の腕に鳥肌が立ち、心臓が胸を打つ。
「なかふかさこ」……発せられた6文字の音が、松本の記憶のフォルダから忘れることのできない時間を取り出していく。
(8/8へ続く)
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