5
森が足を止めた。星が積もった下で地面が発光していた。道路の上だけでなく、建物の壁まで発光していた。足を踏み入れると、アスファルトだった部分が星になってボロボロ崩れ、黒い地面が見えた。その地面もうっすら発光しているように見えた。先に車が停まっていて、人がそれにもたれていた。濡れてぐしゃぐしゃになって崩れたまま乾いたカバンが、足元に転がっている。森がスマホをポケットにしまって言った。
「なんだろう、あの人」
「怖い人かな」
「本当のことを言うと、」
突然車の横の人が口を開いた。あまりにもおもむろだったので、高橋は一度振り返って誰も居ないか確認したほどだった。
「もう駄目だということだけがはっきりしてる」
しかしこの先はよく覚えていない。いつのまにか森はいなくなっていた。高橋は高橋ひとりになって長い国道を歩いている。頭にもやがかかっていて視界が狭い。ずいぶん長く歩いてきた。それでもまだ歩き続けなければいけない。行く先は遠い。しかしなぜこんなにも急いでいるんだろう。身体が火照って息が詰まる、どうして、と頭に浮かんだ。とんでもない理不尽を食わされている気がする。がくんとなにかに引っかかって進めなくなった。肩を掴まれていた。森が掴んでいた。
「びっくりした。森か」
「どうかしてるのは君じゃないか」
「どうもしないよ、この先も君と歩くんだ。まっすぐな道をずっといって月へ向かうんだよ」
森は高橋の背を二度叩いて、月はこっちだよ、と高橋を押していった。高橋はおとなしくついていった。頭に泥が詰まっているようでうまく考えられなかった。森が足を止めた。星が積もった下で地面が発光していた。足を踏み入れると、アスファルトだった部分が星になってボロボロ崩れ、うっすらと黒い地面が見えた。さらに進むと車が停まっていた。そこにもたれている人がこちらを見るなり何か言う――
信じてくれよ、せめて話を聞いてくれ。君は戻ってきた、それはいい、けれども頷くだけじゃ、そうかと言われるだけじゃ、本当に聴いてるかわからないだろ、相槌は君が一番上手かった。でも聴いてるフリが一番うまいのも君だ、もう一度話す、月が無くなっただろ? これはわかるよな? 新月ってわけじゃない、もう月はない。月は破れた、全部人間がやったことだ。この星はもう人のものではなくなった、終わりなんだよ、みんな、おい、ちゃんと聞いてくれよ――けれども何を聞いてほしいのか高橋にはわからない。きちんと頷いているし、耳だって傾けていて、それ以上何をすればいいのか。車の人の必死さには心が痛んだが、この償いは明日以降必ずやろうと思った。どうしてこんなことを聞かせるのか、と怒りすら湧いた。森を見ると、苦しそうに目を見開いていた。森まで苦しめるなんて、なんてひどいやつなんだと思った。
「いきなり、なんなんですか?」
高橋の声はかすれていた。喉が詰まって上手く声が出なかった。車の横の人が黙った。話が終わったのだろうか、終わっていてほしい。もうたくさんだ。一歩踏み出すと、待てよ、と引き止められる。
「本当にわからないのか。君はどうしてここへ来たんだ。本当のことを知りたくないのか?」
「本当ってなんのつもりですか」
「あの。もういいです」
森が口を挟んだ。森の声も強張っていた。
「聞きたがらない人に何を言ってもわからないと思うので」
「別に聞いてないわけじゃない、この人が訳わかんないこと言うからじゃん」
「逃げ出しておいてよく言うよ」
「月に行くんじゃなかったの?」
「またすぐ話そらす!」
車が崩れた。くしゃっと、とても軽い音がして、もたれていた人の形のくぼみができた。車の欠片が落ちてきらきらした。車の人は転んだがすぐに起き上がる。立ち上がるついでに膝を曲げて、伸ばして、背伸びもした。
「もう、どこも駄目みたいだ。どうして月の破片が他の物体を侵すかわかるか? みんな違う事を言うんだ。どうしたらいい? そんなんわからないよな」
日が暮れてふっと空が真っ暗になった。ずいぶん暗く感じた。街灯がつかないからだった。人が黙るとひどく静かだ。高橋は森に訊いてみた。喉が渇いて声がざらついた。
「皆すぐ死ぬってわけじゃないよね?」
森を見たが目が合わなかった。風が強く吹いて砕けた星が舞い上がり、Tシャツの袖に粒が入り込んで、汗ばんだ体にくっついてざらざらした。
「インターネットに死ぬって書いてあった? 死んだ人居た?」
インターネットばかり真に受けるのはよくないんじゃない、と続けようとしたが、声が出なかった。森が何か言ったが、聞き取れなかった。もう一度言うように頼んだ。もう君はわかってるものかと思ってたよ。と聞こえた。森も苦しく、心細いのだとようやく気づいた。森が来たのはそういう理由だったのだ。それなら、なおさら早く行かないと。こんな人に構っている暇なんてない。行こう、行こうよ、行かないの? 行くなよ。車の人が口を挟んだ。なんで見ないふりをするんだ、私は見たんだ、見たんだよ、月がなくなるところを。終わりの花火みたいだった。これでもうなにもかも終わるのかと思ったよ、なんで私はまだここにいるんだろうな、なあ、お前らももう家なんてないんだろう。おい、行くのか。この先にも月なんてないんだ、月はもうないんだよ。昨日まではあったのにな。もう地面しかないんだ、ははは。おい、行くなよ。なにもないんだから。ここに居てくれよ、頼むよ、もう意味なんてないだろ、いくらでもほんとうのはなしをするから。森、行くよ、早く行かないといけないんでしょう、そりゃ、気の毒だけどさ、でも、君が行こうって言い出したんじゃないか。何もなくたっていいよ、君と月に行けるなんて滅多にないことだしさ、もう腹くくったよ。大丈夫だから。
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