3
アパートの二階に戻ると玄関前に人が立っていた。森だった。森とは去年まで二人で暮らしていて、いまは別々の家に暮らし始めて半年経ったところだった。森はスマートフォンを眺めていて、その携帯からケーブルが伸びて重そうな鞄に入っていくのが確認できた。森じゃん、と声をかけると、森はスマートフォンから目を上げて、ほっとしたような表情をした。
「どしたん。森、元気? また会えるとは思わなかった。それ、ネット繋がるん?」
「少しね」
「まじか、アイフォンだから?」
「そういうんではない」森の目は疲れと興奮でぎらぎらしていて、少し充血もしていた。歩きで来たの?遠くなかった? 森はそれには答えず、携帯をポケットに突っ込みながら続けた。
「我々は月に行かないといけない」
高橋は絶句した。森が大真面目な顔をしているのでさらにショックを受けた。
「こういう時にあまりふざけたことを言うものではないよ」
「月に行かないといけないんだよ」
今も地上に降っている星はいったいなんなんだ、月の破片じゃないのか、もうない月にどうして行けるって言うんだ。森は非常時に変になってしまったのか?
「月に行かないと」
「言い直さなくても聴こえているよ。心中の誘いじゃないよね? それとも避難所のこと?」
「なに常識ぶってんの、月に行けるなんて滅多にないじゃないか。行こうよ。君はそうやって日和るからいつまでも仕事が見つからない」
「慎重なんだよ。無くなった月に行こうだなんて不安じゃない」
「ネットに行き方が書いてあったよ、ソースは信用できる」
「大丈夫? お茶飲みますか? お湯、沸かないけどさ」
森は、飲むけどさ、と機嫌悪げに頷き、玄関のドアを開けようとする高橋の背中へ言った。
「でも早く出た方がいいよ、大変だから、遠いし、危ないし。ノックしても居ないから、もう居ないんじゃないかと心配した。ただの留守で良かった」
「準備は?」
鍵を差し込んでもいつもの手応えがなかった。あれ、と高橋がドアノブを引っ張ると、家の中が少し見えて、部屋はぼんやり光って見えた。ドアが勝手に閉まるので手元を見ると、ドアノブが手元に残っていた。外れていた。森が慌てて高橋の後ろから手を伸ばしてドアの縁に手をかけ、ドアをいっぱいに開いた。何度見ても部屋は星だらけになっていて、壁ですら星と同じ素材になって発光しているようだった。
ぽこん、と軽い音がしてドアが外れた。森はしばらくドアを支えて、断面同士を押し当てていたが、くっつかないね、と手を離した。ドアは薄暗い廊下の中で部屋側を発光させながら倒れた。乾いたススキの匂いがした気がした。
「お茶、飲めないね」
「これ何?」
「多分水道も駄目だよ」
森がキッチンの蛇口を指差すので、首を伸ばしてみたが、よくわからなかった。近づいて見ると、蛇口の金属はボロボロになっていて、根本から水が染み出していた。森が危ないからすぐ出たほうがいいよと言う。部屋を見渡すと、発光する天井から砂が落ちてきた。これは何かと考えていると呼ぶ声は次第に激しくなって、高橋!はよ戻れ!と森が叫び始める。
「なにこれ?」
「いいから、靴履いて!」
慌ててドアだった穴を抜けて、階段を降りて、建物の外に出た。
「君が寝てなくてよかった、私もいてよかった、命拾いしたな、無事でよかった、危ないところだった」
森が何を言っているか理解できなかった。この家は私の家ではなかったのか。片側にかけたリュックがひどく軽く、心もとなく思えた。
「待って、待って、まだ家に物あるから」
「荷物は軽いほうが行きやすいよ、多分」
「これ、君がやったんじゃないよね?」
「まさか、うちもこうなって出てきたんだ。君の家ならまだ無事だと思ったけど、全然そうじゃなかった」
高橋は呆然と、アパートの外から住んでいた場所を眺めた。気に入ってたのになあ、敷金、戻ってこないだろうなあ。森が背中を叩いた。ぼやいてないで、出発しようよ。多分、そのほうがいいよ。避難所に居るよりよっぽどいいよ。
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