解答
「愚かな男に、愚かな娘だ」
あの背中を、真に勇者的だと断言できるその姿だけは、誰にも否定させたくない。諦めかけていた心が奮い立つ。誓いを護るためならば、恐怖さえも――
「無駄だ」
全てを見透かすような紫色の魔眼は、シルヴィアの僅かな筋肉の硬直を捉えていた。
不意討ちを狙った剣は弾き飛ばされ、がら空きになった胸部に足が叩き込まれる。肺の空気が消える。呼吸が覚束ない。宙を舞って石畳に叩きつけられた先は、祭壇の入り口、階段を上ったすぐそこだった。
えづくシルヴィアを見そこに下ろす目は宝石のように無機的だ。無慈悲にただ光を放つのみ。そこに温度はなく、共感など存在しようもない。
その瞳と相対して、ようやくシルヴィアは自分の恐怖を自覚した。剣はない。魔術に意味はない。だとすれば、今のシルヴィアに残されているものとはなんだ?
何も、何もない。
身体が震える。かちかちと歯が打ち鳴らされる。勇者でないということは、少女であるということは、これほどまでに恐ろしい。
怯える少女を見て、メジェドはつまらなそうに、今まで腰に携えるままにしていた剣を抜いた。鋭い音が耳朶を切り裂く。
「ひっ」
そんな声が唇から漏れ出た。信じられないほど弱々しく怯えたそれを聞いて、男は薄い笑みを浮かべた。
「勇気が潰えたか? 気狂いのように勇者を自称しながらも、そうしたひ弱さを捨てきれないのが君という人間だ」
その弾劾はどんな刃よりも鋭くシルヴィアの胸を抉った。赤々と噴き出す鮮血の感触は現実と見紛うほど。
何もできずに蹲るシルヴィアの側までメジェドは歩き、落し物を拾うかのような何気なさでかがみこむ。伸ばされる手に、思わずまぶたを閉じてしまう。
一秒、二秒。予想していた痛みはしかし、やってくる気配すらない。低い呻き声に目を開けると、メジェドが壮年の男性――ジャコモを片手で引き上げていた。先ほどまで気絶していた男はようやく覚醒したらしく、吊り上げられながらもなんとか脱出しようともがいている。
「くそっ、なんだおまえは、離せ」
じたばたともがく男を精査するように動いていた紫眼が、ある一点に集中する。メジェドの腕を叩いたり大きな動きをする左手に対し、右手の挙動は控えめだ。男の魔眼はその中でも中指にはめられた指輪を射抜いている。
「護身用か。悪いが自決されるわけにもいかんのでな」
「――が、ああああ!」
メジェドの剣が閃いた直後、CEOの右手、中指だけが根本から抉れていた。数瞬経ってようやく、今更負傷に気づいたように血が流れ出す。耐えがたい激痛にジャコモは半狂乱になっていた。
「抜け目なさはさすが海千山千のサンコーポCEOと言うべきなのだろうが、これほどまでの手荒な真似をされたのは初めてか」
「おまえ、何が目的だ」
愉快そうに言うメジェドを、ジャコモは脂汗で額を濡らしつつも睨みつける。荒事慣れしていないはずだが、凄まじい胆力だった。
その迫力に一瞬、メジェドは不意をつかれたような顔をした。
「……では、その気概に免じて」浮かべた笑みは、企みを思いついた悪魔のように凶悪だった。「答えよう、私の目的を」
魔術は屑だ、と男は言う。万能の力、そんなものを手に入れたような気分に浸って、むしろ遥かに後退している。
あの特別房の邂逅の焼き直しだ。
そこまで魔眼の男が語ったところで、ジャコモが口を挟んだ。
「ふん、ありがちな切り口だ。やれ少数派の犠牲だの資本の搾取だのと。
馬鹿にしたような口ぶりは傍目にも明らかな嘲りだったが、メジェドは顔色を劇的に変えた。普段の芝居がかった態度が嘘のように、感情をむき出しにして怒鳴りつける。
「――あなたがそれを言うのか。他ならぬサンコーポの代表が」
その勢いのまま、男は叩きつけるようにしてジャコモの身体を放り投げた。恰幅のよい身体が、受け身も取れずに地面に激突する。
「ぐ……。だがな、上の繁栄を否定できはしないだろう。あらゆるインフラは現代魔術と我々によって補われ、人々の生活は保たれている」
たとえ、そこに不正がはびこっていようと。
魔術企業の生存競争を潜り抜けて来た男の瞳には、まだ闘志が燃えている。そこには現実を見据えながらも信念を貫き通そうとする意志があった。
その視線を真っ向から受けてなお、メジェドの紫眼は揺るぎなく温度がない。
「そしてあなたたちは利益を貪り――何よりも、ないがしろにされる人々が地を舐める」
外套のポケットから取り出されたのは小さな瓶に詰められた半透明の液体。魔獣化霊薬だと、一目でわかった。
「これを作るのに、どれだけの人体実験を行ってきた?」
「従来の
「……だから、魔術は滅びるべきだと?」
そんなものは、一を見て全を決めつけるような真似だと、ジャコモは言いたげだ。馬鹿げているという言葉に対して、メジェドはまったく表情を変えずに首肯する。
「そうだ。人に魔術は扱い切れない。大した成果も生みだせないというのに、分不相応な夢を見る」
それは、とメジェドは続ける。
「自分の手に持っているゴミクズを、万能機だとでも思っているからだ」
吐き捨てるように、そう言い切った。
それはクラウを否定する言葉であり、シルヴィアを打ちのめそうとする宣言でもあった。今までの人生が全くの無駄だったのだと、男は言う。
そんなわけはないと、このときばかりは恐怖を忘れて声を出した。
「だけど――ぅ」
無言で視線がこちらに向けられた、ただそれだけのことで息が詰まる。敗北感を振り払って、言葉を連ねた。
「あなたはそう言うけれど、現代魔術を壊す、なんて不可能だ」
そう、現代魔術とは言わばこの世界に根付く機構であり、それを壊す、失くすなどということは、できようはずもない。この男が言っているのは、荒唐無稽な妄想だ。
だが、
「――なんだ、そんなことか」
そんな当たり前の指摘を、男は笑い飛ばした。唖然とするシルヴィアを前にして、心底愉快なものを見たというように嗤う。
「可能だよ。この
そうして男は、手に持った剣を掲げて見せた。そこで始めて、シルヴィアはその剣に意識を向けた。男は二度の戦闘でその剣を佩いていながら、一度も抜くことはなかった。
随分と古い意匠の剣だが、刀身に錆などは見当たらない。何かしらの魔術的保護が入った、古代の遺物か。古代魔術や呪術による曰くつきの品は、遺跡などから発掘されることもある。
「……ん?」
よく見ると、柄の部分から一本の長く細い糸のようなものが垂れていた。東方の剣には柄に房をつけて重心のバランスを取るものがあるらしいが、それにしては頼りない。あれは――
「馬の尾の毛だよ」
メジェドが楽しそうに答える。毛とは奇妙だ、と思うと同時に記憶の中に引っかかるものを覚える。
尻尾の毛、剣。何か、どこかで聞いたことのある組み合わせだ。
「……ダモクレスの剣」
呟くような声は、信じられないと続けたいようにも思えるほどに、わなないていた。
「博識だな。そう、正真正銘のダモクレスの剣だ。僭主の頭上に吊り下げられた、国家を滅亡させる剣」
メジェドの大仰な言い回しで、ようやくシルヴィアも思い出した。とある島を支配した古代の独裁者を戒めるものとして登場した剣。
「だが、それは――」
「おとぎ話や寓話の類だと? 魔術が実在するのに、魔術的な道具は存在しないと?」
シルヴィアはそれに反論しようがない。魔術は体系だった技術・枠組みであるとはいえ、そこでは確かに解明不可能な原理――
現代魔術が造り出される前でさえ、超常現象を操る呪術師が存在したのであり、シルヴィアはその中の一人の末裔なのだから。
ジャコモはその名を知っていてなお、諦めないというように男に反論する。
「よしんばそれが『ホンモノ』だったとしても、あくまで国家を壊すものだ。それがどうやって魔術世界を――」
そこまで言って、何か思い当たったように顔色が変わる。それを見たメジェドは歌うように、
「『あらゆるインフラは現代魔術と我々によって補われ、人々の生活は保たれている』だったかな?」
そう、ジャコモの発言を繰り返した。
「……そうか」
ここまでくればシルヴィアにも理解できる。国家という体制、国家という機構の一つの側面は、民を住まわせ統治することだ。被支配の人民なくして国は成立しえない。
だとすれば、先端都市の膨大なインフラを提供しているサンコーポは、生活を媒介にロンドニドムス市民を支配していると言えるのではないだろうか。
魔術を基盤とした企業システム。もしも、
「サンコーポが生み出した魔導技術は崩壊する。ちょうど、国が瓦解するようにな」
そしてそれは、ダモクレスの剣で〈クニ〉の王たるジャコモの首を刎ねることで成されるのだ。
「馬鹿を言え! そんなことをすれば、どれだけの人間が路頭に迷うと思っている! 現代魔術は人の生活に不可分だ」
焦燥すら滲ませる叫びをメジェドは一蹴する。
「それでも、魔術は間違っている。犠牲を顧みぬまま踏み台にして、何が生活だ」
おまえたちが見過ごしてきた、選んできた犠牲が俺を作ったのだ。メジェドはそう言った。
「魔術などを手に入れて、あなたたちは致命的なところまで進んでしまった。ならば、その幕は下ろすべきだ」
許容できるもの、できないもの。この場の男たちの正義は決定的に対立していて、ジャコモはようやくそれを悟ったように俯いた。
次に顔を上げたとき、そこには悲壮な決意が宿っていて――
「……無駄なことを」
舌を噛み切ることによる自害。
先端都市の住民をある意味では背負う男の決心を、紫眼は当然のように看破していた。
目にも止まらぬ速度で剣の柄が男の鳩尾を打ち、ジャコモは白目を剥いて意識を失った。
その様子を確かめるように見下ろして、つとメジェドは視線を横に向けた。そこには、
「何の真似だ?」
「……」
宝剣を再び手に取り、男に向けるシルヴィア。だが、その剣先は行き場を失った蛍のようにさまよっている。
メジェドは剣を地面に垂らしながら、無防備な身体を晒して歩いてくる。
「私に敗け、自分の恐怖にも打ち勝てず」靴音とシルヴィアの荒い息だけが空間に響く。
「それで一体何をするというのだ、貴族の娘よ」
「あ、あア!」
耐えかねたように突き出された剣は、男の顔を貫く直前で止められた。左手が刀身を握って突きを止めたのだ。掌がざくりと割れるはずが、僅かに皮膚を裂いて、血が紅い水滴のように刀身にへばりつくのみ。
「ぅ……」
薄紙を裂くような手軽さで放り捨てられるシルヴィアの剣。一歩後ろに退こうとして、そこが祭壇の縁であることに気がついた。あれほど簡単に駆け上がってきた階段が今は遥かな下にあるような心地になる。
なす術もなく、喉笛をわしづかみにされた。
「ランドッグ家の令嬢よ。どうして私が、名を偽って君をこの事件に巻き込んだのか、わかるか」
言葉が意味をなさずに耳を素通りしていく。喉を締め上げる手が、空気の供給を完全に遮断していた。
「貴族としての知名度を利用して事件の規模を大きくする、というのは正しいが不充分だ。……なに、嬉しい誤算というやつなのだがね」
男はそう言って、その紫眼をシルヴィアの顔に近づけた。眼窩を抉り取るようにぎらついた視線は、猛禽のそれ。
「君たちが指摘したように、ダモクレスの剣には不安要素がある。魔術的・呪術的力を帯びているのは間違いないが――あまりに長い眠りについていたものだから、その性能を十全に発揮できるか、ということだ」
すらりと、年季の入った、しかしなまめかしいほどの妖気を纏う剣の刀身が、シルヴィアの首筋に押し当てられた。
「だが、ここにちょうどいい生贄がきた。王家に連なる高貴な血統。かつて王国を滅ぼした剣の、目覚めの
「――ぁ」
そうしてシルヴィアは理解した。メジェドがここまで長々と目的を喋り、シルヴィアを生かしてきたのはこのためだったのだと。
勇者だなんだと言っておいて、結局いいように利用されて終わるのかと、心中で憤りを覚える自分がいる。だが、それ以上にこのまま命を落とすことへの恐怖を感じていた。
耐えがたい苦痛。串刺しにされるまでもなく心臓を激痛が襲いそうなほどに恐ろしい。無為な生はこのままで終わってしまうのか。
辛い現実に蓋をするように、瞼を閉じた。固く、固く、二度と開くことのないように。
死の淵に走馬灯を見るというが、その気配はなかった。ただ一つだけ、思い出すものがある。それは多分、正真正銘の命の危機がこれまでの人生で一回だけだったからだ。
シルヴィアの前に立ち、大丈夫かと言った、あの人の背中。ああ、やり残したことがもう一つ。あのときのお礼が、結局言い出せなった。
最後の痛みを待つ。剣が振り上げられる気配をひどく鋭敏になった気配が捉える。そして頬を撫ぜる、そよ風にも満たない空気の流れ。
「――貴様っ!」
メジェドの声は、今までにないほど感情をむき出しにしていた。憤怒と――驚愕。まるで、死人が生き返ったのを目の当たりにしたかのような。
次いで、金属同士がぶつかる甲高い音が鳴る。さらに大きいモノがシルヴィアとメジェドの間に飛び込んでくる気配。メジェドが飛び退いたのを肌で感じる。
「生きてるか!?」
その声にゆっくりと目蓋を開く。薄暗い大空洞の中、そこにあったのは、
「ああ――」
記憶と寸分も違わない。少し焦って格好のつかない横顔も、精一杯と言うような息遣いも。だけど、それは明らかに少女が憧れたあの日の魔術屋の背中そのもので――
「よし。じゃあ、反撃開始と行くか」
クラウ・アーネスタが、そこに立っていた。
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