〈勇者〉
剣を抜く。その手に震えはない。
だが、あの魔眼保持者に出会えばどうなるか。命を奪われる恐怖にさらされたとき、剣筋は澄んだままか。
磨き上げた刀身。そこに映る相貌は、世間一般からすれば美しいと言うらしい。シルヴィア当人にとっては、あまりそうした実感はないが。
ただ――幼い頃に綺麗な髪だと、まだ優しかった頃の母が褒めてくれたのは、何故か記憶に残っている。家を出てから、戦いには邪魔だろうと何回も言われたが、切る気はしなかった。
「家のため、か」
その言葉に嘘はない。勇者になるというのは家の力を取り戻すための手段である。
そのはずだ。貴族としての責務。連綿と続く歴史の保持。それはシルヴィアの役目である。そのために現代魔術に手を染めた。脈々と受け継がれてきた神秘を放り捨てた。
だから、そのための戦いに恐怖を感じることや、ましてその正当性を疑うことなどあり得ないと、そう考えていた。
「だと言うのに……」
クラウの表情を思い出す。疑わしそうな、ひどい言い訳を聞かされたとでも言うような顔を。彼にシルヴィアの何がわかると――
『魔術師のあんたに、俺の何がわかるっていうんだ』
決定的な断絶が脳裏に蘇る。傷ついた身体を抱えるようにして放たれた言葉は、へし折られた心情そのままだった。
確かにシルヴィアは彼の人となりをよく知らないと言っていい。共に過ごしたのはここ数日と、彼は覚えていないだろう遥か昔の一瞬のみ――。
遠い過去、先端都市にある少女がいて、その命を、たまたま通りすがった青年が救ったという、ただそれだけの話。たぶん、それは彼にとってあまりに当たり前のことで、わざわざ記憶に残すほどのことでもなかったのだろう。
それでもシルヴィアはあのときの背中をはっきりと覚えている。へたり込んだ自分に向けられた不器用な微笑みも。
「ああ、そうか――」
ふと腑に落ちたものがあった。家を背負う決意として勇者を目指しこの街に来た、そこに偽りはない。だがきっと、その中のほんの一部に――あの背中に憧れた自分がいたということも、嘘ではないのだ。
「だとすれば、負けるわけにはいかないな」
こぼれた笑みは、ぎこちなくもここしばらくでは珍しいほどにやわらかい。あの日の憧れが確かならば、それを否定するあの男をシルヴィアは打倒せねばならない。
少女のように怯える自分を斬り、あの男を倒し、その野望を打ち砕く。それこそが、今のシルヴィアに必要なことだ。
――そうして覚悟を決めた先に何があるのか、シルヴィアにはまだわかっていなかったのだ。
戦場を駆け抜ける。立ちはだかるのは霊薬により魔獣と化した異形の群れ。そのいずれもが、過剰投与によって魔獣化したディーグに匹敵する巨獣。
しかし、元より規律や隊列を是としない荒くれ者どもは簡単に分断された。部隊による前進は、もはや個々人のばらばらな突進となっている。
蒼いほうき星となって仄暗い回廊を駆け抜ける。アニス率いるノートスの面々も、ディーグやマリアも置き去りにして。
「GAAAAAA!」
「邪魔だっ」
もはや人の名残のない
「……やっとか」
数えるのも億劫なほどの魔獣を斬り伏せて、ようやくそこに辿り着く。すなわち――
「ふむ。
地下迷宮に点在する
過去の魔術師が建造したのか、巨大な祭壇を思わせる建造物の上で、メジェドは悠然とこちらを見下ろしていた。
線の細い、およそ暴力とは無縁そうな顔立ちを裏切る紫の魔眼。否、魔眼ではなくその視線の厳しさが、男の精神性を表している。
シルヴィアは油断なく敵を視界の中心に据えつつ、周囲を確認する。他に敵影はない。メジェドの足元には捕縛された壮年の男性。人相からして、あれが代表取締役のジャコモだろう。
「そこの男を返してもらおう」
祭壇への階段を一段一段と上りつつシルヴィアは宣告した。メジェドは薄い笑みを顔に貼りつけたまま動かない。
「ほう。では、それに応じれば私の命は助かるのかな?」
「そんなわけがないだろう」
召集された魔術屋たちに言い渡された
「それで、君はその依頼のためにここに来たのか。勇者と名乗りながら、企業連合の不正義に加担して」
「それも、違う」
揶揄するような調子の言葉をシルヴィアは一刀の下に切り捨てた。ほう、と男は笑みの仮面の下から、本当に意外そうな様子を見せた。
確かにシルヴィアはその依頼を受けた。だが、
「それは貴様を倒すためだ、
魔力は爆発するように高まり、シルヴィアの身体に纏わりつく。家を護るという誓い。十年前に見た背中。それらのためには、目の前のこの男が邪魔だ。
決意は
「おまえを打倒する」
『
その様を、魔眼の男は見届ける他ない。――全てを見通す魔眼をもってすればこの術式の構成を見て取ることも容易だろう。だが、そこから対抗魔術を展開する余地がない。
魔術師が半恒久的に維持している
ディーグが
今までのゆっくりとした歩みが嘘のように、シルヴィアは残る階段を駆け上る。振り下ろした銀剣。メジェドが生成した岩の質量剣と蒼い閃光が、火花を散らす。
「――」
息もつかせぬ連撃は魔術の展開すら許さぬ速度。岩剣は一合で泥細工のように吹き飛ぶが、そのたびに地面から新たな刀身が補填されていく。メジェドはかろうじて剣を合わせるのみで、じりじりと後退していく。
「……さすがは勇者を名乗るだけある、というわけ、だ!」
紫眼が光る。致命の一撃を狙った刹那の溜めを見逃さずにメジェドは後方へと飛ぶ。――迅い。肉体強化にしても、
「逃がすか」
足止めに置かれた岩壁をわけもなく粉砕してシルヴィアは追いすがる。氾濫する激流を体現している以上、生半可な防御ではその勢いは減じない。
差し出された
まともに入った。通常の魔術師ならば、内臓のいくつかは破裂している。
城の大広間ほどもある祭壇を男の身体が矢のように横断する。あわやそこから転落するというところで、メジェドはなんとか着地した。
「その魔術、やはり――」
男が口を開いたときには既に、シルヴィアは剣の間合いにまで入っていた。残像すら置き去りにして、蒼い燐光を纏う銀剣が翻る。
「――獲った!」
必殺の一撃――その確信があった。振り下ろされた剣撃は大地を割るほどの威力。巻き上がる土埃。それが晴れた先には、
「人の話は最後まで聞くものだ」
「なっ」
思考が停止する。
シルヴィアの渾身の一撃を無力化したのは、
その岩塊の背後から顔を覗かせる形で、メジェドは健在だった。
勇者に動揺は一瞬。即座に思考を切り替える。先ほどまでシルヴィアが押していたことは事実。一度防がれたのなら、もう一度魔術展開を許さぬ速度で攻め立てるのみ。
「だから人の話を――。その傍若無人さを勇者的と言えばまあ、そうとも言えるがね」
「貴様が勇者を語るな」
岩の盾を迂回。瀑布となって左からメジェドに襲いかかる。
「それでは、無理にでも聞かせる他ないようだ」
一瞬、ぞくりと背筋が震えた。その一言に込められた殺気を、鋭敏化したシルヴィアの肌が熱波のように感じたのだ。
僅かに鈍った剣筋。されども致命の斬撃に変わりはなく、敵の首を真っ直ぐに断つ軌道をなぞる。
「――くそっ」
横殴りに振るわれた銀剣はまたしても岩の壁に
「わからないか。無駄だ、君の概念術式は見えている」
悪寒。頭蓋を内側から叩いて回る警鐘に従って飛びずさる。
瞬間、岩壁から槍が生成され撃ち出された。
咄嗟に急所を狙うものは斬り飛ばすが、掠り傷は避けられない。尾を引いて流れる血は、捧げられた生贄のそれのように、雫となって祭壇へと落ちていく。
反撃とばかりに水の波濤を撃ちこむが、破砕された岩の向こうに人影はない。
「上かっ」
着地するや否や転がるようにして横に逃れる。岩の向こうから高々と跳躍してきたメジェドの拳が祭壇を揺らした。――とんでもない身体能力だ。
「確かに、概念魔術を相殺する術はない。それはそもそも術者の身体のみに影響を及ぼすものだからだ」
男の指先から次々紡がれる爆炎、雷撃、岩塊。多種多様な魔術攻撃が祭壇上で荒れ狂う。魔術展開の速度で言えば、メジェドのそれは天才とされるシルヴィアをなお上回る、人外の域に達している。
正面からやりあって対抗できる物量・威力ではない。瀑布を次々に呼び出してはその場しのぎに使い、シルヴィア本人は敵の攻撃圏から離脱していくしかなかった。
聞き分けのない生徒に言って聞かせるような、メジェドの気取った講釈は魔術の激突を背景音楽に続いていく。
「だからといって対抗策がないか――否だ」
概念魔術を解いて逃げに徹するシルヴィアを嘲笑うように、朗々たる男の声が地を這う。
「そもそも概念魔術は何故強力無比なのか。それは現代魔術とは質が、言ってしまえば位階が違うからだ」
現代魔術が、森羅万象に眠る〈神〉を魔術言語を媒介に
「その意味で、それは魔術というより呪術に近いと言える」
頼まれてもいないのに解説を続けるメジェドはひどく嬉しそうな声音だ。魔術を否定する彼は、あるいは呪術をこそ信奉しているのか。
「だが――呪術に近いからこそ、概念魔術には決定的で必然的な脆弱性が在り続ける」
「…………」
言葉を飲み込んで、身を削るような恐怖をこらえて、シルヴィアは致命の嵐をかいくぐる。戦況は完全にメジェドの優勢。だからこそ、一瞬の隙が生まれる余地があるはずだ。
その、はずだ。
できるのかと自問する。
死んでしまうことが怖い。ここで夢が潰えてしまうことに恐怖する。何もなせないことを考えるだけで恐ろしい。
それは、どの戦いでもあったものだ。ディーグとの邂逅。アニスとの剣戟。……かつての敵たちと
何もできないことの、恐怖。
「答える余裕もないか。では、そろそろ幕引きといこう」
――刹那の間、絶え間のない悪夢のような魔術攻撃に空隙ができた。それは極限まで研ぎ澄まされた感覚でなければ気づきもしないような、微細な針の孔。
ここだ。この一瞬、逃してたまるものか。
爆炎を押しのけ、雷撃を振り払い、紫眼をもってしても捉えられぬ速度で肉薄。
振りかざすは蒼銀の刃。魔導重合金でさえ圧潰する瀑布の質量が、男の痩身を打ち砕く――!
「森羅万象の力、それは人智を超えたものだと、言われているが」
傲然と、波濤を阻む岩の城壁がシルヴィアの『流撃剣』を受け止めていた。
「くそっ――」
なぜだ、と問うこともままならない。もう一度斬撃を繰り出す前に、土塊を砕く爆炎がシルヴィアの身体を飲み込んだ。
「氾濫する河川。激流は確かに人間にとっては脅威だろう。だが、それに逃げ惑うばかりならば、我々は今を生きていまい」
炎熱に苛まれる身体に新たな衝撃。一拍遅れて、祭壇に倒れ込んだのだと気づく。概念魔術の装甲機能はほとんど意味をなしていなかった。
「堰、堤防、防波堤。魔術の有無によらずとも、人類の英知というものは、氾濫などを乗り越えてきたのだよ」
静まり返った空間で、こつこつという靴音が虚ろに響く。悠然と迫る敵を、シルヴィアは見ていることしかできない。
「理解できないという顔だな。下手に魔術を使うからそうなるのだ、人間は」
男は言う。
激流や氾濫の概念は、人や建造物には途方もない脅威となるだろうが、そもそもからして堰き止めるもの――流れを変えてしまうものを打ち破る道理がないのだと。
「土砂を固めた堰に対して、洪水は削り取り押し流すこと、それ以外の術を持たないのだよ」
堰とは『そういうもの』であり、その概念に対しては、既に定まった抽象たる〈激流〉では有効打を生みようがない。
メジェドは、〈激流〉の概念を身に帯びたシルヴィアに対して〈堰〉という概念を引っ張り出してきたのだ。
いくら形而上の力を借りようと、シルヴィア一人分の質量などたかが知れている。その程度の水量では、どんなに勢いをつけても堅牢な土の堤防を突破することなどできようはずもない。
手詰まりだ。通常の魔術では相殺魔術に潰される。唯一の勝ち筋であった概念魔術も、完璧に対策されている。
「理解したかね。……その術式をこのときまで秘匿しておいたならば、まだやりようもあったろうに」
「同情とは、随分と余裕なことだ」
苦し紛れに放った皮肉に力はない。男の言葉は正しい。前回の戦い、シルヴィアは概念魔術をこの男に見せてしまっていた。
クラウへの罵倒を聞いて頭に血が上ってしまったのだ。
男はもう、シルヴィアの目の前まで来ていた。
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