過去と来訪

 閉じた瞼の裏に日差しの温かみを感じる。いつの間にか寝入ってしまっていたのだと気づく。


「……朝か」


 ぼんやりとした視界。クラウの事務所はディーグが暴れ回って荒らされたままだ。壊れたソファなどを隅に押し込めているために何もない空間が広がっていて、がらんとした感覚を受ける。


「そもそもドアもないからな……」


 呟きながらのろのろと立ち上がる。修理する金はないこともないが――それを実行に移す気力もなかった。


 地下迷宮での戦闘から逃れたクラウとシルヴィアは、ロンドニドムスの邸宅に留まっていた。到着から二、三日としないうちにディーグとマリアがそこを訪れた。


「残念ながら、てめえらをぶち殺すのは当分後になる」


 開口一番、大男はそう言ってのけた。


「どういうことだ?」

「こっちも忙しいって――」

「サンコーポの代表取締役ジャコモ・トトメス氏が誘拐されしまいました」


 にこにこと微笑みながらとんでもないことを言ってのけるシスターがそこにいた。ディーグもさすがに焦って制止するが、修道女は止まらない。


「先の『紛争』において上役間で頻繁な通信が必要になり、そこから探知されたのでしょうね」


 守秘義務その他諸々をガン無視していた。『教会』所属の人間はやはり頭がおかしい。組織の内情を暴露する構成員とか。


「……そこまで話して、あなたたちは何がしたい?」


 ここまでいくとディーグも開き直って、嬉々として口を開くマリアを黙らせて、懐から書類を出す。


「単刀直入に言えば――てめえらを雇いたいって話だ」


 そんな驚くべきことを口にして、男はシルヴィアにその書類を手渡した。二部あるそれの片割れを彼女から受け取る。


 詳しくはそこに書いてあるが、と前置きしつつディーグは語り始めた。



 そもそもの話――事の発端になった銀行強盗事件。あそこの貸金庫に、サンコーポは霊薬のサンプルを置いていた。それが、あの騒動の最中に盗まれたのだ。


「わかっているとは思うが、最新技術云々の前に、ありゃあ両手じゃ足りねえくらいの魔術条約を無視した代物だ」


 当たり前だ。魔獣化ブルータナイズなど、人類の敵対種たる吸血鬼の眷属を増やしていることに等しい。その霊薬の開発に際して、人体実験が行われたことは想像に難くない。


 そして――クラウの目の前に立つこの男が持つ固有術式オリジンが、あの霊薬の元になったのだろうとも考えられる。この街には、魔術世界には、倫理をものともしない非道が存在する。そんなことは、当の昔にわかっていたけれど。


 ともかく、機密保持のために、その場に居合わせたクラウは消されることなった一方で、サンコーポは血眼で霊薬を盗んだ者を探し始めた。


「そんで、盗まれたものを減退ダウンサイズさせた霊薬ドラッグが地下で流通していることを掴んだわけだ」

「マフィアを介した霊薬の流通。そんな目立つことをしたのは、そもそも目的が霊薬を遣ってサンコーポを強請ろうと言うものではなく――」

「取締役の誘拐が最初から目的だった、ということですね」


 通信魔術の発達は著しい。ただでさえ強固な警護がついている上役が普段どこにいるのか、それすら探りにくい。あえて企業連合メガコーポを揺るがす事件を起こすことで対応を強制し、連絡を密にしたところを狙ったというわけだ。


 あの男は去り際、『探知』という言葉を使っていたか。


 そこで、クラウの脳裏に浮かぶ考えがあった。


「そもそも霊薬情報の流出からして、サンコーポ側に内通者がいると考えるべきだな」


 でなければ強盗事件すら起こせない。内通者の存在は前提条件だ。


「首謀者と思しきやつは粛清した後だ。勢力争いの一環だな」


 そこでようやく、ディーグたちがここに来た理由がわかってきた。既にシルヴィアも勘づいた様子。


「それでもまだ内通者がいるという疑惑は拭い切れない。だからこそ、外部の魔術師が要るというわけか」

「これだけ延々と喋ってようやく伝わるとは。話が速くて助かるぜ」


 更に言えば、とマリアが補足を加える。


「サンコーポの魔術師部隊でも再編が必要で、先の戦いのような兵力は出せないということですね」


 一応そこにあの魔眼野郎メジェドの情報も載せてある、とディーグ。


「まあ、てめえらだけに当たってるわけじゃねえ。あくまで選択肢の一つだ」

「ふむ……。敵が強大なら協力するのも勇者的には――」




「悪いがその話、俺はパスだ」




 クラウは先んじてそう断言した。自分でもわかるほど声に力がない。


「く、クラウ?」

「ふん」


 戸惑うシルヴィアとは対照的に、ディーグは予想通りとでも言うように鼻を鳴らした。


 クラウにはもう、あの男と対峙する気はなかった。


「手を組むならその紙に載ってる場所に来い」


 ディーグはシルヴィアに・・・・・・そう言って、邸宅の応接椅子から立ち上がった。去り際にクラウを一瞥する。


「その腑抜け面、殺すのも過剰ってやつだ」

「……そりゃありがたいね」


 冴えない返しに顔をしかめて、男は今度こそ邸宅を後にした。「主のご加護を」と言い残してマリアもそれに従う。


 部屋に残されたのはクラウとシルヴィア、それと重苦しい沈黙だけ。


「……どうして」


 ぽつりと投げられた問い未満の言葉を黙殺する。空気は鉛になったかのように重苦しく、息苦しい。


 こちらを睨むシルヴィアを正面から見返す。ややたじろぐ彼女の瞳には、虚ろな目をした自分が映っている。


「あんたも聞いただろ。俺は魔術師なんかじゃない。そんなやつに何ができる?」


 自嘲の笑みは思ったよりも効いた。クラウにも、シルヴィアにも。瞳を潤ませて少女が叫ぶ。


「あなたは――クラウ・アーネスタは、そんな人ではない! 魔術屋だろう、あなたは!」



 誰が聞いてもその言葉に嘘はなく、心からの叫びだと理解できただろう。シルヴィアは本当に、クラウという人間を信じている・・・・・



 その感情が伝わったからこそ、


「――魔術師のあんたに、俺の何がわかるんだ」


 ありふれた拒絶を口にした。だが、ありふれているからこそ真実でもある。


 一度口にしてしまえば簡単だ。今まで心中に留めてきた嫉妬が、醜い感情が、決壊したようにあふれ出る。


「才能があって実家は建国からの大貴族。そんなあんたに、田舎出で魔術の遣えない俺を理解したような口を叩かれるのは心外だ」

「魔術の適性がないからといって――」


 それでもなお言い募ろうとするシルヴィアを見て、ぷつりと何かが切れた。


「問題じゃない、なんて言うつもりか? やめてくれ。あんたにとってはそうでも、俺にとっては大問題だ。それから――」


 一瞬言葉に詰まる。これを言っていいのか、と自制する自分を知覚する。


 構うものか。


「それから、あんたは俺に何故だか期待しているようだが――勝手な幻想を抱くのは、やめろ」


 とうとう、シルヴィアの呼吸が止まった。


 何か決定的なものを壊してしまった手触りがあった。その正体を確かめるのが怖くなってクラウは彼女に背を向ける。


「それでも、私は――」


 最後まで聞くことなく邸宅を後にした。


 書類を手にしたままだと気づいたのは事務所に戻ってから。なんとなく捨てきれず、かといって机もぶっ壊れていて置き場所もなく、今も椅子の尻に敷いたままだ。


 そうしてシルヴィアと別れてもう三日だろうか。惰眠をむさぼり、起きて空腹を感じれば蓄えてあるものを食べ、唯一無事な座椅子に座って時間を消化する。無為な時間の浪費が時間感覚を狂わせるというのは、始めて知った。



 よくもまあ、こんなに傷ついたものだ、と自嘲する。自分が魔術師にはなれないことは当の昔にわかっていたというのに、それでもまだ事実を突きつけられて傷ついている。


「魔術なんてものは屑だ、か。魔術すら使えない俺は何になるのやら」


 そんな自傷趣味じみた言葉を吐く。ときたま思い出すのはシルヴィアが大きな瞳に湛える涙で、それがさらに自暴自棄な気分にさせた。



 そもそも、魔術師になろうだなんて思ったのが間違いだったのかもしれない。


 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。失意のままにそれを認めようとして――クラウは頷けなかった。



 それだけは、と叫ぶ自分の幼い声が頭蓋でこだまする。十年前あの日の誓いがおぼろげに蘇っていく。まだ、クラウは故郷の山間村に居た頃。



 それは摩耗して、もはや断片的な光景シーンのつぎはぎでしかない。古臭い呪術観に支配された――それでも暖かかった故郷。それを崩壊させんと忍び寄る、穢れた伝染病。


 最初に気づいた少年は自分の持てる全てを使って友だちを、家族を救おうとして失敗した。村の古老が息をひそめて会議をする影が、小さな焚き火に揺られている。


「村の存続――」「必要な犠牲――」「聖なる儀式――」「――伝統的な方法」


 部分は全体と関連する。感染の原理、原始的な呪術。さながら身体をむしばむ癌細胞のように、病は村を死へと導くだろう。


 だからこそ、穢れた部分は切除した上で焼き払わなければならなかった。炎とは穢れを祓う象徴であるのだから。


「あ、ああ、ああアアアア――」


 穢れを溜り場とされた窪地を満たす焔だけは、今でも鮮明に思い出せる。聖なる火の色は愉しくなどなく、ただ苦痛だった。


 聞こえるはずのない苦悶の声がいつまでも脳内に響いていた。焼却の儀式を施されるときには既に、みんな死んでいたはずだというのに。


 ――それから後の記憶はあやふやだ。絶望にうちひしがれる少年はいつの間にか、滅ぼしたはずの病魔に侵されていた。


 人を呪わば穴二つ、呪術は媒介となって主体と対象を相互に結びつける。まじないをもって病に当たった愚者の、当然の帰結。


 あるいはこれは、死者たちが自分を呼んでいるのだとすら思った。少年もまた祓の炎に包まれようとした直前、旅の魔術師がそこに現れ――現代魔術の業が少年の病を癒した。


 伝染病に対する特効術式レメディは、とっくのとうにロンドニドムスで発明されていたのだ。


「この力が、現代魔術さえあったらみんなは死なずにすんだ――」


 それからの顛末は大したことがない。無力で無知な少年は呪術を捨て去った代わりに夢を抱いた。そうして先端都市に到着し――希望は潰えた。少年に魔術適性、魔術言語ルーンを操る才能はなかったのだ。



 ある意味では当然だ。呪術には呪術の思考体系――呪術の文法が存在する。それを内在化したクラウ・アーネスタという人間は、どうやっても魔術言語を『ネイティブ』として扱うことはできない。


 物理的に言えば、魔導野の不可逆的な発達。一度変化してしまったその領野が退行することは、きっとない。


 資質があればまた違ったかもしれないが、少年は悲しいほどに魔術の素養がなかった。



 要するに、少年は才に恵まれていなかったという、ただそれだけの話。



「それでも――」


 すがりつくように、あがくようにしてクラウは未だにロンドニドムスで生きてきた。あの日志向した魔術師の在り方をなぞらえるように、魔術屋として。


 似ているものは同じもの――哀れなことに、かつて捨て去ったはずの呪術的思考そのものだとも、気づかずに。




 もう先端都市ここにいるべきではないのかもしれない。




 そんな囁きに耳を犯されつつも、クラウは椅子に腰かけたまま動けなかった。まだ、未練なんてものがこの胸に居座っているらしい。


 だが、一生ここで座っているわけにもいかない。ここ数日の自堕落な生活を打破すべくクラウが重い腰を上げた、その瞬間に、開けたドアの空間から入ってくる人影がいた。


「……ここ、ドアがないやつだったか。邪魔するぜ」


 ぶっきらぼうな宣言とともに恰幅のいい中年が部屋に侵入してくる


「誰かと思えば、警部じゃないですか」


 ぶしつけな侵入者は、レナード警部だった。最後に会ったのは警察署だから、五日ぶり程度か。


「ああ、そこの白い布で覆ってる所は穴が空いてるんで避けて――で、何の用ですか」クラウは記憶を探って、

「そもそも、警部がここに来るのも滅多にないですよね」

「今日は私用だ。おまえに会いたいっていうやつがいてな」


 女性ならいいけどなんて軽口を叩くと、レナードは顔をしかめて、空白になったドアの向こうの空間に呼びかける。そこで待っていた人物が入室する――緊張した面持ちの妙齢の女性だ。


「し、失礼します。ほ、ほほ本日はお日柄もよく――」

「何の挨拶だよ」


 呆れたような声をレナードが出すと、女性が首をすくめる。気弱そうな外見は、人によっては庇護欲をそそられるのだろう。


「えっと、失礼ながらどちら様で?」尋ねつつも彼女にはなんとなく見覚えがある。「もしかして、どこかでお会いしました?」

「は、はい……。ええっと、その」


 リスのように口ごもる彼女を見て、レナードが保護者のように口を挟む。


「礼を言いたいんだとよ、おまえさんに。先日助けてもらった、な」

「れ、レナード叔父さん! 自分で言おうって決めてたのに!」

「おまえが恥ずかしがってるからだろうが」


 そのまま二人はクラウを放って口論を始めてしまう。取り残されたクラウは首をひねるばかり。


 レナード警部の姪とは。小動物じみて可憐な女性と熊みたいな中年とじゃ、遺伝子がちょいとばかし違いすぎる気もするが。


 脱線する思考を戒めて発言内容を確認する。クラウに助けてもらった、と言う言葉を手がかりに記憶を探索してみると、思い当たるものがあった。


「……特別房騒ぎのときか」


 口内で呟いた声が届いたようで、警部の姪は今にも消え入りそうな声になって、


「は、はい……」


 あのとき、確かにクラウは人狼ワーウルフに――今ではその正体は、霊薬によって魔獣化ブルータナイズしたマフィアだとわかっているわけだが――襲われて混沌に叩き落とされたような有様の警官たちを、何人か助けたのだった。


 どうしても忘れられないのは、魔導拳銃マギカショットを発砲しながらも狙いは定まらず、人狼になす術もなく喰われかけていた若い警官の姿だった。


 あの魔眼の男が無様で救いようがないと形容した醜態はしかし、クラウと何の変わりがあるだろうか。

 所詮、付け焼刃的に魔術を持ったところで意味はないのだと。対魔術師特殊訓練を受けた実働部隊の警官でもない限り、実際に魔術師や魔獣に立ち向かうことは不可能に近いとわかっていても、その思いは胸中を漂って離れない。


 あるいは、それはこの街に来たときからクラウの胸に澱のように堆積したものなのかもしれなかった。


 二三の会話を機械的にこなす。目の前の女性の命を救ったのは自分なのだと、頭では理解できているが実感が伴わない。シルヴィア一人があそこに居ても、結果はおそらく同じだっただろう。


「ほ、本当にありがとうございました!」


 女性が頭を下げようとするのを押し留める。いや、仕事ですから。そんなことを言った気がする。


 お礼だと言って食事に誘われるのを適当に受け流した。少し街の外に滞在する依頼の予定があるのでと嘘をついたが、この街を立ち去ろうとしていることを思えば、あながち嘘でもあるまい。


 帰ってきたら連絡するように、と言われて連絡先を受け取ると、それで納得したのか女性は部屋を後にした。


 そうしてぼろぼろの部屋に残ったのは、男二人だけとなった。


「……意外と気が強いだろう?」

「ええ、まあ」


 俺はあれに口げんかで勝ったことがない、と嘆息する警部。用事は済んだはずなのに、部屋から出ていく気配がなかった。


「で、何の用なんすか」


 珈琲ぐらいしか出せませんよ、と付け加えると警部は鋭い視線をこちらに向けた。


「あの貴族の嬢ちゃんはどうした」

「……どうもこうも、俺ができる協力は終わったってだけですよ」


 目を逸らしつつそう答えた。不思議と胸に湧く罪悪感に苦い思いをするが――そもそもクラウがシルヴィアと共闘したのは、その依頼にクラウの命運がかかっていたからだ。


 逸らした視線は自然と白布で覆われた床の穴に向かう。


 シルヴィアとディーグの、神話的とすら言える魔術戦闘。それに目を奪われたのを思い出す。


「警察としては動けないが――自分で密かに情報を集めるぐらいはする」

「……それで?」


 何が言いたいのか、ほとんど理解しながらもクラウは先を促す。


地下アンダーで色々とやばいことが起こっているぐらいはわかっている」


 だが、と警部は、


「魔術犯罪の捜査は警察として扱えても、それに直接対峙するなんてことはには無理だ」


 そうしてもう一度、警部はクラウを見据える。まるで、おまえにならできると言わんばかりに。



 喉が震える。今すぐ叫びたい気分だった。俺にだって無理だ。だって俺は、あんたも知ってるように、魔術師なんかじゃないんだ――。



 沈黙するクラウから視線を外して、警部は机の上に置かれた魔導拳銃を見る。事務所に帰ってきてから一度も触れていないそれを。


「……一つ言っておくが。俺は、信用ならねえしどうでもいい、って魔術屋に備品を横流しするようなことはしない。その程度の魔術屋なら、金をやれば十分だからな」


 それだけ言うと、レナードは事務所を後にした。一人取り残された部屋で、クラウはふと思い出す。


 この魔導拳銃は元々警官に支給される装備であり、依頼の報酬としてレナード警部から貰ったものだったのだと。


 依然として心は定まらず、クラウは日が中天に上っても事務所に留まったままだった。魔導銃を見て考える。レナードはクラウをあたかも魔術師のように扱った。かつて彼が魔導銃を渡した時点で、クラウは魔術師ではないと知っていたのに。


 いや――魔術師のように、というのが違うのか。あくまで警部はクラウを魔術屋として見ていた。そうだ、魔術師でも非魔術師でもない、魔術屋として。


 だが、警部の言う魔術屋とは一体何なんだ。



 そもそも、クラウは魔術屋になって、何をしてきたのか――。



 思索を中断したのは、階段を上る靴の音だった。


「……今日は千客万来だな」


 音から判断するに、二人か。訪問者が空いたドアを目にしてか戸惑ったように足を止めたので、クラウは声をかけた。


「空いてます、どうぞ」

「……失礼します」


 事務所に入ってきたのは、穏やかな雰囲気をした中年の女性と、


「しまーす!」


 幼い少年だった。一見して中流家庭の親子にしか見えない様相。


 およそ魔術屋と無縁な客人。脳が混乱しているのを感じながら、クラウは言葉を絞り出す。


「えっと、今日はどのようなご用件で?」


 魔術屋は廃業だなんて考えていたことも忘れて、そんな問いかけをしてしまう。身体に染みこんだ癖だった。


 荒れた室内を不思議そうに見渡していた少年が振り返って屈託のない笑顔を浮かべた。


「きょうは、お礼を言いにきたんだ!」


 お礼。なんだか今日はそんなことがやけに多い。感謝を伝える日とかだったりするのだろうか。いや、聞いたことがないけど。


 同じような経験をつい先ほどにしたばかりだからか、少年の顔を思い出すのは早かった。


「あんた――きみは、銀行にいた」


 こくり、と少年が頷き、母親が頭を深々と下げる。もう遠い昔のようにすら思える、銀行強盗のとき。


「アーネスタさんがあのとき出てきてくれなかったら、この子は……」


 子どもの母親は感極まってか目尻を光らせる。クラウはと言えば、そんなこともあったなと、ぼんやり当時のことを思い出していた。


 あのとき、人質の中から一人が連れ出されていた。その一人が、今クラウの目の前にいる少年だったのだ。強盗団――デュナリオは見せしめだ、なんて言っていたか。あの男の臆病さからして本気で殺す気だったとは思い難いが、ともかくあのときは尊い人命の危機というやつだったのだ。


『見せしめにするんなら、その子じゃなくて俺にしろ』


 気づけば、クラウはそんなことを口走っていた。


 状況を打破する公算があったわけでもない。十数人の魔術師の包囲網をクラウ一人で突破できる見込みはなかったし、誰かシルヴィアが乱入するなんて考え付きやしない。呪弾で一人倒す間に十回は殺される、そういう状況だった。


「本当に、何とお礼を言えばいいか……」


 しかし、クラウは少年を助けようと思って、前に出たのだ。目の前でこぼれていく命を見過ごすことが、クラウにはできなかった。


 ある意味では、それは呪いに等しい。あの日の光景ほのおにクラウは縛り付けられている。



 それでも――



「ありがとう、おにいちゃん!」



 少年の無垢な笑顔。


 魔術は使えない。武術の才能があるわけでもない。ずば抜けた魔力量などあるはずもない。この身に特別なものは何もない。


 そんな凡庸なクラウ・アーネスタにも、できることがあった。


「ああ――」



 あふれださんとする涙を歯を食いしばって堪える。この子の前で泣くわけにはいかない。



 ――重要なのは魔術の才ではなく、その一歩を踏み出すかどうかなのだと。そんな当たり前のことを、純粋な笑みが伝えてくれていた。




「――俺は、魔術屋・・・だからな。そんなのは当たり前だよ」


 親子を見送ったあと、クラウは置きっぱなしにしていた魔導拳銃を手に取った。あれほど重みを感じた銃把グリップは、今までにないくらい手に馴染んでいた。


 急がなければいけない。魔術世界を破壊すると宣言したメジェドの計画は着実に進んでいる。シルヴィアはそこに単身向かっているのか。


 だが、弱気が再び首をもたげる。強大な魔術師との戦いにおいて、クラウにできることなど――。


「ある。そのはずだ」


 決心したクラウの視線の先にあるのは――太陽印の、家庭用通信魔道具。

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