獣の気配

 突如事務所に現れたのは、とてつもない巨漢だった。ドアの高さを優に超える巨躯を屈めてドア枠を通り抜け、筋骨隆々とした肉体を誇示するように室内に入ってくる。

 クラウは右側、爆破されたかのように吹き飛んだドアを一瞥する。中央部が拳の形にへこんでいた。


「おい、ドアノブが見えなかったのか?」


 軽口を叩きつつ立ち上がる。光条は――来ない。この大男が入ってきたときに発動しなかった時点で、術式が解除されたものと踏んだが、当たりだ。仲間を自動的に狙撃するわけにもいくまい。


「ふん。貧相なドアなだけあって、貧相な見た目なやつだな。聞いていた通りだ」

「失礼なやつだな――というか、どいつもこいつも俺の外見を散々言うのは何なんだよ」


 自分で言うのもなんだが、平均ぐらいはある、はず。ちょっと幸薄そうだし病的に色白というのは認めるが。


 って、そこはどうでもいい。


「そこにいるのは……シルヴィア・ヴォン・ランドッグか」

「……いかにも」


 男の視線の先には剣を構えたシルヴィアの姿。その顔には大きな笑み――戦闘狂というやつか。

 だが、彼女の好戦的な笑みに対し男は手を振るのみ。


「てめえはリストに入ってねえよ。後から別のやつが話をつけに行くんでな。管轄外ってやつだ」


 それだけ言って、男はクラウに向き直った。やはり、想像通り――


「オレらの標的はてめえだよ、クラウ・アーネスタ。まあ、関わっちまったことを後悔するんだな」

「……本気で身に覚えがないんだが、人違いじゃないのか?」


 じりじりと窓際に近づきながら試しに言ってみる。例の光条がない以上、窓は脱出口になる。そして、身に覚えがないのは本当だ

 が、馬鹿にしたように男は鼻を鳴らした。


「オレをなんだと思ってんだ、てめえ。間違えなんざ万に一つもありえねえ」


 そして、と男は続けた。


「てめえを逃がすこともねえよ」


 男の身体が膨張する。あまりの殺気にそんな錯覚すら抱く。脇目も振らずに窓から遁走しようとして、光の壁にぶつかりかけた。


「あぶなっ!?」


 つんのめりつつ急停止。突如として窓ガラスが光に置換されていた。髪の毛が数本その光に触れて、たんぱく質の焦げる臭い。

ひやひやしたなどと思う間もなく、後ろに気配。


「逃がさねえと言っただろうか」


 左右から何かが風を切る音。首が飛ばされる未来をひりひりと感じて逃げ場を探す。前、右、左、後ろ――ない。


「こなくそ!」


 覚悟を決めて後方にスライディング。丸太か何かを思わせる剛腕がクラウの頭蓋を押し潰すときには、既にクラウが男の股下を滑り抜けていた。

 敵が振り返るよりも早く、懐から拳銃を引き抜く。弾倉は装填済み。引鉄を引く。


 魔導拳銃に刻印シールされた術式に、銃把越しに魔力を流し込む。励起した魔術――『発射』の術式が呪弾を撃ち出す。

 射出された鋼鉄の呪弾は、銃口から飛び出た瞬間に鉄の杭へと変化し、敵の背に食らいかかる。


 命中――男は鉄杭を払いのけようとしたが、そんなことができるはずもなく。高速で飛来する杭の先端は肉を切り裂き骨を砕く。


「……の、はずなんだが」


 唖然とするクラウの目の前で、男が防御に使った右腕を軽く振り下ろした。血に濡れた鉄杭が重い音を立てて床に落ちる。

 掌で受け止めていたのだと察せられた。


「どんな反射神経だって」


 無言のまま男はクラウの手元に視線をやる。魔導拳銃マギカショット――警察の特殊部隊などではよく使われる魔杖ワンドだ。


「……警察とのつながりがあるとは、データになかったな。それに、オレが知ってる術式でもねえ」

「特別品なもんでね」


 答えつつクラウは間合いを測る。位置関係が逆転したので背後にドアがあるが、こいつがそう簡単に逃してくれるだろうか。身のこなしからして、常人ではない。

 機をうかがっていると、男が口を開いた。


「ぱっとしねえ魔術屋と聞いていたが。なに、術は大したことねえが腕前は悪くねえときた」


 その顔にはどこか喜色がにじんでいる。


「つまんねえ仕事とばかり――思ったより愉しめそうじゃねえか、なあ!」


 にじんでいるどころじゃない。闘争への期待が男の内部を満たしているかのように、たぎる男の瞳。まるで獲物を前にした猛獣のようにぎらついている。あまりの迫力に男の身体が一回り大きくなっているようにすら――いや、


「まじでふくらんでるのかよ……っ」


 それはいかなる術式か。限界を超えて強化された筋肉が体積を増しているのだ。

身体強化リインフォースは近接戦闘を行う魔術師なら当然のものだが、この男のそれは通常のものと比べものにならない。


 銃を構えるも、状況を打開できる気がまったくしなかった。絶体絶命という言葉が脳裏に浮かんだ、そのとき。


「――面白い」


 涼やかな声が耳を打つ。クラウの横にシルヴィアが立っていた。その手には宝剣。


 くくく、と男が口の端を吊り上げる。その様はもはや人間というより魔獣に近い。


「どいてろ、ランドッグ。キサマは見逃してやるって言っただろうが」


 シルヴィアもまた、応えるように笑みを作った。


「ほざけ魔術師。その魔力、さぞ名のある術師と見た。強者と戦うは勇者の誉れ。こんな機会は見逃せない」

「――」


 予期せぬ打撃を得た、というような様子の男。クラウもまた、信じられないという思いで横のシルヴィアをまじまじと見た。

自分からのこのこ死戦に飛び入ろう、なんてクラウならば考えない。考えられない発言だ。一笑に付していいレベルの。普通生き残るのが最優先だろ、どれだけ力を誇示したいんだよ。

 ――だが、その言葉は何故だか胸を打った。感じ入るものがあった。魔術の携わる者として、あるいは魔術屋として。


「……腕のいい魔術師ってのはやっぱいかれてんのか」


 かろうじて、それだけを絞り出すように言った。


「――くはははは! そうか、そうか」


 巨漢が哄笑する。新たな敵を歓迎するように。


「いいだろう、ランドッグ。キサマのその意気をかってやる、殺してやる。なに、わざわざ殺すな、とは言われたが、歯向かってくるのを叩きのめすなとは言われてないからな!」


 一気呵成。質量を増した巨体で襲い来る様は巨獣のよう。思わず後退したクラウに対し、シルヴィアは一歩前進。その口が静かに開く。


「湧き出すは波、荒ぶる波濤」

 囁くような詠唱トリガーは魔術師が術を行使する起点とも言える。自己暗示によって魔導野の術式演算に火を点ける、戦いの狼煙。


「――『瀑剣カタラクト』」


 銀剣に刻まれた術式が起動する。

 振り下ろされる拳は岩石に等しい。破壊的な光景を前に、シルヴィアは無造作に剣を斬り上げる。激突の瞬間、銀色の刀身から蒼色が迸った。


「――なにィ?」


 シルヴィアの矮躯がぺしゃんこにつぶれるどころか、男がたたらを踏む恰好になっていた。どうしたことか、とばかりに声を上げた巨躯に対し、シルヴィアが不敵に笑ってみせる。


「その無駄に大きい図体ごと吹き飛ばそうとしたのだが、予想よりも重かったな」

「……ガキが、ほざきやがる」


 男の目がより鋭くなる。極上の獲物というよりも、闘争の対象として相手を見る目だ。宝剣を媒介に展開した、瀑布のごとき水流が拳撃を押し返したのだと理解したのだ。


 鋼鉄をたやすく穿つであろう一撃をはねのける大質量、それを生み出す技量はどれほどのものか。


 それを痛感したのは、傍から見守っていたクラウも同様だった。さっさと逃げ出せばいいというのに、足が動かない。この二人の、卓越した魔術師たちの立ち合いに釘付けになっていた。


 今度はシルヴィアが先手を取る。矢のように劇的な踏み込みから一気に間合いを詰める。


「さあ、もう一度いくぞ――『瀑剣』」


 そもそも、魔杖の刻印術式による補助を通常用いない魔術師シルヴィアが刻印を使うほどの魔術だ。凡百の攻撃魔術を超える威力なのは、疑いようがない。


 逆袈裟に振り上げられた剣を叩き落とすように、男は真っ向から拳を突き出す。残像すら生む速度の拳と剣が会敵し――銀剣が鮮血の尾を引いて振り抜かれた。

 大質量の水流に激突した男の拳は、圧縮機にプレスされたようにひしゃげている。


「とった!」


 快哉を上げてさらに踏み込むシルヴィア。それを追い払うように男が横なぎに手を振るう。無造作に見えて致命的な打撃を、シルヴィアはバックフリップで余裕の回避。


 ――その手に握られた銀剣に血糊はない。詠唱の瞬間から、その表面に水の膜が張られている。


「大口を叩くわりに大したことはない。そんなでは、私を殺すどころか仕事とやらも果たせないぞ」


 シルヴィアが剣を下ろしつつ言い捨てる。男は無言のまま、自分の手を見ている。無惨にも半ばまで両断され、赤黒い肉と白い骨が露出している右手を。


 自然な流れで俺を格下扱いするな――などと思ったところで、クラウはようやく我に返った。ぼけっと突っ立っている場合ではない。謎の狙撃手の件もあるし、この場からは早々に立ち去るべきだ。


 それでもなお逡巡していたそのとき、野太い声がクラウを遮った。


「……まあこんなもんか。少し死ぬかと思ったが」


 何気ない言葉の、並々ならぬ鬼気。男が膝を屈した。それは服従の姿勢などではなく、次なる攻撃のための構えだ。警戒したシルヴィアが剣を向けようとした瞬間、


「――お目覚めだ、『喰らい尽くす牙』」


 顔面に叩きつけるような強風。数舜にも満たぬ魔力の発露を境に、クラウの眼前にあった男の巨体がかき消えていた。さながら、砂漠の蜃気楼のように。


 転移魔術? 否、感覚はかの敵手を確かにとらえている。直観に従って左を向けば、数メートル離れた先には――


「っ」


 黒い獣。その威容は現実の動物というよりも、空想上の怪物か――魔獣のよう。


 分厚い筋肉の鎧で覆われた巨体は熊のそれに近いが、短剣大の鋭い爪が手足から飛び出ている。獅子のような猛獣の頭部には剣歯虎の牙。その額からは赤黒いねじまき状の角が歪に飛び出ている。


「これは――」


 遅れて気配に気づいたシルヴィアが目を見開く。あまりの異様さに驚きを露にしつつも、彼女は剣を構え魔術を起動した。そこに油断は微塵たりとも存在しない。


 次の瞬間、その姿が突如として消失した。

 間髪入れずに、強烈な激突音。


「は?」


 肌をなでる風が微かな獣臭を運ぶ。少女の矮躯の代わりとでも言うように、眼前にはさきほどの魔獣が鎮座している。紅く光る眼光の先には、蜘蛛の巣状にひび割れた壁と、その中心に磔になったかのようなシルヴィアの姿。


 この魔獣が目にも留まらぬ超速でシルヴィアを弾き飛ばしたのだと、ようやく脳が呑み込んだ。


「マア、ざっとコンなモンだナ」


 どこか歪んだ発音の言葉は、信じがたいことに魔獣の口腔が発信源だった。それはつまり、


「おまえ、さっきの男、なのか」


 グググ、と魔獣が喉を鳴らした。嘲るように吊り上がった口の端。真実、この魔獣――魔獣へと変じた男は、クラウを嘲笑っているのだろう。


「察シが悪いナ。……魔獣化ブルータラズナンゾ聞イたことモないダロうが」


 そうしてゆったりとした動作で、魔獣おとこがこちらへ向き直る。こちらに逃げ場などありえないと、嫌が応でも理解させられる


「――」


 圧倒的な存在を前に、指一本も動かない。軽口すら出なくなったらそいつは終わりだ、と魔術屋の知り合いが言っていたことを思い出す。


 終わりなのか、こんなところで。こんな風に。


 嗜虐への期待か、魔獣が瞳を紅く輝かせた。


「……待て、デカブツ。まだ終わっていない」

「アン?」


 どさりと音がした。何かが崩れ落ちる音だ。


 衝突した先では、シルヴィアが片膝をつきながらも立ち上がろうとしていた。その顔は半分が血に染まり、左手は力なく垂れ下がっている。目に精気はない。それでもなお、彼女は立ち上がり、闘おうとしていた。


 凄惨とも言える光景。どうしてそこまで、という言葉を喉が絞り出せない。


「……その男の前に、私と、闘え」


 さっさと逃げればいいものを、と魔獣が独りごちた。獣の殺気が彼女へと向かう。


 ――〈勇者〉になると彼女は言っていた。その言葉に、その理念に、一切の妥協はない。ある種の狂気でさえある。その結果が、あの自滅とでも言っていい様だ。


 そう理解している。それでも、クラウは彼女を助けたいと思い、脳はその解答を即座に提示した。


 腕が狙いを定める。先ほど石になっていたのが嘘のような滑らかな動き。引き金を引く指に迷いはなく、弾倉に詰まった弾丸を全て撃ち切った。

 魔導拳銃の発砲は魔力によるため音は出ないが、その魔術の気配は魔術師にとっては爆音に等しい。巨獣が機敏な動きでこちらを見やる。


「何ヲ」

「こうすんだよ、『鋼は炎、爆ぜ散る炎』ってな」


 呪弾は巨獣の足元を囲む円を成すように床に着弾し――爆炎を上げた。魔獣が飛び退く間もなく床が崩落する。それ獣の踏み込みで生じたひびが起点となり、クラウの爆裂呪弾で決定的になったもの。


「くたばれ」


 しがみつくようにして無事な部分の床に爪を立てる魔獣の鼻面に、銃口を向ける。弾倉は換装済み。遊底 《スライド》を引く。引鉄トリガー。全弾掃射。鉄杭が魔獣の醜悪な面相をずたずたに引き裂き、爆裂が前脚を焼き払った。


 魔獣は地獄送りの罪人のように墜落していく。傷を負いながらもその双眸は凶悪な光を放っていた。視線だけで殺害せんと言わんばかりの紅い眼光――それが視界から消えたのを確認して、シルヴィアに駆け寄った。


 事務所の一階は空家だが、地下には旧水道が走っていて、床はひどく脆い。あの巨体の質量なら、確実に地下へと落ちたはずだ。


「くそ、あんたのおかげで厄介なのにマークされたじゃねえか」


 悪態をつきながらその身体を抱え上げる。意識が朦朧としているのか、先ほどのように突き飛ばしてくることもない。少女の身体の軽さがいやに気になった。当たり前だ、どれだけ強かろうがその身体は年相応に決まっている。


「……やつめ、先に手の内を見てから不意打ちとは」ぼそぼそとシルヴィアがしゃべる。

「そんなこと言ってる場合か」


 窓を蹴り割って路上に跳ぶ。


 この地区は貧困街一歩手前といった場所であり、治安も最低に近い。そんなわけでまだ夕方ながら人気はなかった。むしろその静謐さは真夜中を思わせる。事務所の騒ぎを聞きつけて、皆避難しているのだろう。荒事は避けるのがこの地区で生きていくための鉄則だ。


 衝撃が肩にぶらさがる少女に伝わらぬよう慎重に着地したが、彼女の口から血が伝っているのに気がついた。――内臓までダメージがいっているのか。


「……したを噛んだ」

「アホか!」


 思わず怒鳴りつつ手近な路地に駆けこむ。あの様子からして確実に魔獣男は生きているし、こちらの命を狙っているだろう。与えた傷がいくらかの足止めになればよいが――

 背後の気配に意識を向けていたからか、角の先の人に気づかずぶつかりかけた。


「――おっと、悪いな」


 いえ、と楚々とした仕草で首を振ったのは妙齢の女性だった。黒いシスター服の盛り上がった胸元には金色の十字架模様。


 変な呻き声が出そうになるのをなんとか飲み込んだ。『教会』の人間はあまり好きではない。


 そそくさとすれ違ったあと、思い直して振り向く。何故か彼女はこちらを見ていた。


「その先、さっきまで魔術屋がもめてたから気をつけなよ」

「まあ、そうでしたか、お気遣い感謝致します。――貴方に神のご加護があらんことを」


 そう言って、シスターは構わず通りの方へと歩いていった。やはり『教会』の人間は頭がおかしいと再確認しつつ、曲がりくねった路地を進んでいく。

 まずはこの少女を落ち着ける場所まで運ばなければ。幸い、手持ちに汎用の治癒符はある。


「……そういえばあのシスター、この状態を見ても特に驚いてなかったな」


 血みどろの少女を運ぶガラの悪い青年、という図はかなりアウトだと思うのだが。

 まあ、『教会』のシスターだしな。そう自分を納得させる。


 刹那、闇夜の静寂を切り裂くように、獣の咆哮が街を薙いだ。


「――くそっ、あのデカブツ、もう戻ってきたのかよ!」


 嗅覚が自分を捉えることはない、などと都合のいい考えに浸るわけにもいかない。夜の街の全力疾走が始まった。

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