深川の文士先生


 深川をこよなく愛した文士鷹岡嘉門は、文学史上は地味な存在だが怪談もいくつか残している。


 この文士の身辺では、しばしば奇怪な現象が起きたらしい。


 文士先生は、締め切りが迫ると妖怪の悪戯によって突発性の難聴になり、催促の電話が聞こえなくなった。また、嫌いな編集者が家に来ると、邪悪な魂が乗り移った飼い犬ががぶりと咬みつくのだった。


 酒の席で霊魂の存在を巡ってある文芸評論家と口論になったときのこと。


 別れ際にタクシーに乗り込もうとした相手を呼び止めた文士先生は「ほら、あそこに」と虚空を指さした。相手がそちらに気を取られた隙に、文士先生は力いっぱいドアを閉めた。文芸評論家は指を挟んで悲鳴を上げた。文士先生は「いるんですよ。なんて悪い奴らだ」といかにも忌々しそうに言った。


 ある日、文士宅に手伝いで来ていたある婦人が、折からの嵐で帰宅できなくなった。


 泊まっていくことになった婦人は、深夜に廊下を歩く謎の足音を耳にして恐怖に震え上がった。布団を頭からかぶって息をひそめていると、その足音は部屋に入ってきて枕元で止まった。


 婦人はとっさに脇に転がっていた物差しを手にし、無我夢中で振り回した。一発、手応えを感じた。すると、足音は夜の闇の中にばたばたと遠のいていった。


 翌朝、婦人は文士先生にその出来事を話した。


 文士先生は、それは悪戯好きな妖怪の仕業に違いないが、いずれにしろたいした悪さはしないから心配ご無用と言ってかっかっかと笑った。文士先生の額には、物差しと同じ幅の赤い腫れがくっきりと残っていた。


 彼は晩年には降霊術に凝った。


 死んだ大作家の魂を呼び寄せては自らの身体に憑依させた。大作家たちは文士先生の口を借りて「鷹岡嘉門の作品をもっと評価せよ」と言った。


 文士先生が死んだときのこと。


 弟子たちが墓に遺骨を納めようとすると、それは骨壷ごと忽然と消えてしまったという。

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