深川の雪男


 ある夏のこと、脚本家の佐藤啓二は取材で深川界隈をうろついていた。


 暑さしのぎと気分転換を兼ねて現代美術館でモネ展を見ているとき、高校の同級生Kがこの辺りに住んでいることをふと思い出した。電話をかけてみると、ちょうど暇だということだった。


 五年は会っていなかった。深川不動で待ち合わせて、近くの蕎麦屋に入った。奥の座敷に通されると、まだ日のあるうちからビールを開けた。


 昔話も一通りやり終えたあと、佐藤啓二はところでと話を変え、何かいいネタはないかと訊いた。


 彼は依頼されたホラー映画の脚本の執筆に行き詰まっていた。この土地へ来たのも、遅ればせながら深川七不思議というものがあるのを知ったからで、何かヒントが見つかればと期待してのことだった。


 Kは少し考え顔になってから言った。


「最近、この辺に雪男が出るんだ」


 それだけでは意味が分からず、話の続きを待った。しかし、Kはそれ以上何も言わなかった。笑わせようとしたのか、思いつきを言ってみただけなのか、佐藤啓二は曖昧に笑ってそれ以上深く訊かなかった。


 二人は休みなくビールを飲んだ。


 そのうち、Kは高校の思い出話にはいくらでも笑顔で応じるが、今の仕事や女のこととなるとやけに口が重くなることに気がついた。あまりうまくいっていないのだろうと感じたが、立ち入って訊くことはしなかった。


 そろそろ店を出ようというとき、Kがぼそりと言った。


「女のことで困ってる」


 まるで女気などないのではないかと他人事ながら心配になっていた佐藤啓二は、むしろ安心したほどだった。


 聞けば、今その彼女と一緒に暮らしているのだという。少し冷たいところはあるがうまくいっていて、「もう一生離れられそうにない」などと大袈裟なことを言うのだった。そのわりには顔色は沈んでいた。


「何が問題なんだ」佐藤啓二は訊いた。


「前の男が彼女を取り返そうとしている」


「前の男って」よほどタチの悪い奴なんだろうか。


「言っただろ」Kは言った。


 佐藤啓二は首をかしげた。


「雪男だよ」


 佐藤啓二は長い振りの冗談だと理解して「お前の女は雪女か」と突っ込んだ。しかし、その直後、はっと記憶がよみがえり背筋に寒気が走った。


 高校で山岳部に所属していたKは、何年か前に冬山の登山で遭難したのだった。「江東区の会社員が遭難」とニュースにもなった。思えば、Kがこの界隈に住んでいると知ったのもそのときだったのではないか。


 佐藤啓二は、Kが発見されたという報せを聞いたかどうか必死に思い出そうとした。おそらく聞いていない。まさか、Kは今もまだ山の中で発見されずにいるのだろうか。


 そんなはずはない。なぜなら、今目の前にいるのは間違いなく……。


 ふと見ると、Kの顔はやけに青ざめていて少しも酔った様子はなかった。まるで死んでいるかのように表情が凍りついていた。


 佐藤啓二が思わずさっと掴んだ伝票に、Kも手を伸ばしてきた。その手はぞっとするほど冷たかった。

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